第33話 行き倒れ 後編2 彼のゆくえを知る者は?

「養護施設は、そこに住む子どもたちにとっての「家」」

「もう一つの「家庭」」

「同じ釜の飯を食った「仲間」」

「養護施設の子たちは兄弟姉妹」

「養護施設の職員は、子どもたちのお父さん、お母さん・・・」

「養護施設で一番大事なのは、子どもたちである」


 滅多に報道されるわけではないが、マスコミは、そういう論調の記事が好きである。そうでなければ、何か事件が起きたときにセンセーショナルに報道するぐらい。

 養護施設という場所が社会でどれだけ理解されているかというと、正直なところ、その両極端な面をマスコミなどから見聞きさせられて、へえ、そんなところなのか、と思われる程度のこと。

 年配の人なら、今なお「孤児院」という表現を使う人さえいる。かく言う筆者も、現行法令の「児童養護施設」を使うことはめったになく、いまだに、「養護施設」というかつての法令の言葉をそのまま使うことが多いから、人のことは言えないか。

 たまたま自分の住んでいる地域に児童養護施設がある場合とか、養護施設出身者や、現に児童養護施設に在籍している子どもと接触がある場合には、それなりの情報も入ってくる確率は高くなるが、それとても、その施設の現在の正確な情報が必ずしも得られるわけではない。まして全国的に児童福祉の世界を事細かに知っている人など、関係者でさえ殆んどいない。


 これが老人福祉の世界であれば、政治家も高齢者本人とその家族ら支持者の票が動くから、何党であれ、力を入れる。有権者にしても、老親がいればいうに及ばず、そうでなくても自らの行く末を考えれば、そういうことに意識を向けざるを得ない。

 だが児童福祉の場合は、そのようなこともない。

 そもそも、そこに住む子どもたちには選挙権もなく、その親や親せきといっても、政治に関心のある人がいる率は格段に低い。

 そのような施設で育ったことなど、言って得することなどほとんどない。

 それ故、差障りなければ語らないままの人も多い。

 それなりの立場になったとしても、今さら、そんなことに意識を向けてどうこうせねばと思う者にしても、そうそういるわけじゃない。

 そんな調子では、当然、政治への影響力なんてものはほとんどない。


 きれいごと、曲がった情報、悪印象・・・。


 そういったものが乱れ飛び交っているだけで、社会全体にその過不足なき実態が知られないままになっている世界である。

 結局のところ、いくらきれいごとを述べてみたところで、幼少期、同じ場所で過ごした彼等にとって、宮木正男はもはや、過去に接触があった人物の一人。その程度の認識に過ぎない。それは、よつ葉園とは関係のない学校での同級生や近い学年の元生徒たちにしても同じこと。かつての仲間だから面倒を見てやれと要求してみたところで、よほどのことでもない限り、適当に断られるのがオチだ。

 当然かどうか論ずるまでもなく、彼らをして宮木正男青年に、何かをしてやらねばならない法的義務もない。

 もちろん、そんなありもしない権利を実現するよう、懲戒請求や刑事告訴、ついでに損害賠償請求されることも覚悟した上で、弁護士名で配達証明付内容証明郵便を送付してくれる弁護士など、いるはずもない。


 尾沢指導員は、O大学に進んだ元児童のZ君や定時制高校4年時の途中で「退所」した同じくG君などの件もあり、中高生男子の担当については、すっかり自信を無くしてしまった。

 そのため、山崎指導員が中高生男子の担当を全面的に受持つようになった。

 大槻園長と彼とは職業観において相容れないものを持ち合わせていたものの、中高生男子の担当は、彼にとっては「天職」のような要素さえあった。酒席などでの中傷的な言動も幾分あったとはいえ、その罵倒の主の大槻園長も、その点の彼の能力については大いに買っていた。

 よつ葉園にいる中高生の男子児童については、1980年代後半以降、実にのびのびとした生活を送るようになった。具体例は差し障るから控えるが、さすがにそれは、というほど羽目を外し過ぎる者もいないではなかった。だがそれでも、彼らは「社会性」をよつ葉園の内外で自ら育み、社会へと旅立っていった。大学進学者も数年に一人のペースで出てきた。高校卒業後すぐ就職する子らも、高校生活を自由闊達に過ごすようになった。かつての養護施設を知っている者ならば、これが「施設」なのかと思うほどの場所になったその場所で、中高生の男の子たちを導いていたのが山崎良三指導員であった。


 彼はやがて「児童指導員」という名の役職の職員としての「仕事」の概念を変え、目の前にいる子どもたち、中高生の男子たちだったわけだが、彼らを見守る「大人の一人」として、自家用車で約15分かけて自宅からよつ葉園という「職場」に通い、彼らの「生活」と「成長」を見守り続けた。

 そんな彼でも、かつて逃げるかのようによつ葉園を出て行った宮木青年の「尻ぬぐい」をする力も権限も、もはや持ち合わせていない。

 それ以上に、何とかしてやらねば、という気持ちも持てなかった。


 確かに、彼がいた当時のよつ葉園の対応も悪かった。彼がそういう状況に陥っているのも、そこに大きな理由があり、自分たち当時の職員には、法的にはともかく道義的には、今もって負い切れない責任がある。そこは変えていかなければならないし、その頃にはすでに、宮木少年がいた時代の「悪弊」は、かなり払しょくされていた。その過程には、彼も職員側の当事者として大きく関わっている。

 だがそれが、今こうして幼少期を過ごした街で行き倒れになった宮木正男にとって何かの利益になるのかというと、残念ながら何の利益にもならない。

 彼にとっての目先の気休めにも、ましてや将来の指針を決める何かにも。

 宮木正男はこれから先、どこでどう生きていくのか。確かに「心配」ではあるが、養護施設の児童指導員としても、山崎良三個人としても、これ以上、彼・宮木正男に対する責任は、負いようもない。

 

 彼の同僚である尾沢康男児童指導員は、この10年来、よつ葉園にいる子どもたちの姿を見て「希薄な人間関係」と称し、ことあるごとにそう述べていた。彼には、かつてテレビで観た青春ドラマのような、良くも悪くも人と人とがぶつかり合う「人間関係」の中でこそ、自己を高め合え、その中で、個々の人間性が高まり、そしてみんなの社会性も磨かれていくものだという思いがあった。

 その思いからくる彼の言動は、子どもたちを群れさせて保母が適当に「管理」して日々を過ごさせるという従来の「手法」とも相性は悪くなく、それをものの見事に「補完」する役目さえも果たしていた。

 彼は幼少期より剣道をしていた。よつ葉園が津島町から郊外の丘の上に移転して間もなく、彼は、管理棟の2階の集会室を使って、子どもたちに週3回ほど、小学生の子どもたちを募り、剣道を教えはじめた。

 彼の特技でもあり、ライフワークでもある剣道は、子どもたちを束ねる手段となるかに見えた。しかし、彼のそんな思いや手法は、この時代、少なくともこのよつ葉園という場所においては、もはや過去のものとなっていた。

 彼はやがて、よつ葉園のある学区のスポーツ少年団で剣道を指導するようになった。よつ葉園の子も何人か来たが、みんなこぞって来ることはなかった。


 希薄な人間関係。

 その中で、宮木正男青年は生きていくことができなかった。


 二度にわたる、彼の「行き倒れ」。

 それは、群れさせられた中で育てられ、突如群れの外に飛び出したつもりで、しかし実態は放り出された羊の行きつくべくして行きついた場所だった。

 幼少期の彼を「群れさせた」者たちは誰一人、その責任をとっていない。

 彼は、旧態依然たる養護施設が「措置費」という名の国からの金を受取るための出汁にされ、使い捨てられた「犠牲者」なのかもしれない。

 山崎指導員は、気持ちの上では割り切れなさを大いに感じるものの、責任問題に関しては、割り切って対応するしか、なかった。


 「品川さん、申し訳ないですが、うちとしましても、宮木正男の面倒は、これ以上見切れません。彼がよつ葉園を退所した経緯は、今までお話したとおりです。そういう事情もありますし、うちとしましては、これ以上関知できません。姉夫婦と父親の連絡先はお教えした通りですから、そちらにもし、何かあれば言ってやってくださいますか。すみませんけど、そういうわけで、身元引受の件は、どうかご勘弁ください」

「そうだろうなと思っていました。私どもとしましても、それ以上のことをよつ葉園さんや、まして山崎先生個人に要求する法的権限もないですし、仕方ありません。とりあえず、こちらで何とか処理します。よつ葉園さんにも山崎先生にも、ご迷惑はおかけしません。お忙しいところ失礼いたしました。また何かありましたら、よろしくお願いします」


 品川克也警部補は、兵庫県警の高田正三警部補以上にあっさりと引き下がった。

 彼が勤めた警察署で何人かの養護施設児童を相手にしたことがあり、そのたびに、県の関係者や施設関係者などから、養護施設というのはどんな所か、かねて学んでいた。

 養護施設という場所をそれなりに知っている彼は、成人後の元園児に対してまで責任を持てる場所でもないし、また、法令上職員らに何かをすべき義務があるわけでもないことは、当然熟知している。

 かくいう自分たちも、日本国の法令をもとに仕事をしている警察官という名の国家公務員。彼らもまた、この日本国の法令によって設立を認可され、運営されている養護施設の職員たち。

 もう、宮木正男という人物にとって、救いとなる者はいない。

 それも、「自己責任」という名の下で処理されるしかないのだろうか・・・。

 このときもまた宮木正男青年は、大阪までの旅費を市役所の福祉関係の部署で借りて、父親のもとへと戻っていった。

 

 その後彼は、ホームレスになったのか、それとも、知己を得て生活保護を受給して、それなりの生活ができるようになったのか。

 養護施設出身者でホームレスになる割合は、それなりに高いというから、前者の可能性もある。それでも、運が良ければ、後者の生活ができているかもしれない。だとすれば、保護の金が給付される日には、早速朝から酒を飲むような生活でもしているのだろうか。


 いずれにせよ、宮城正男という人物の情報は、その後、岡山の関係者には誰にも入って来ていない。

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