第31話 行き倒れ 前編 2 身元引受の依頼

 事情をひと通り聴取した後、高田警部補は、思い切って尋ねてみた。


 つかぬお願いなのですが、山崎先生、あるいは、園長先生でも、他の先生でも構いませんが、宮木君の身元引受人になっていただけないでしょうか?

 彼の話では、ぜひ、山崎先生にお願いしたいと言っておるのですが・・・。

 いや、無理強いはできませんけど、何とかならへんものやろかなぁ・・・。


 「先生」という敬称を、この施設では職員同士、あるいは児童すなわち子どもたちから職員に対して使用するようにしている。

 だが、職員同士ならともかく、彼の指導する子どもたちは、ほとんどが「先生」という呼称を使わない。

 彼は、「山さん」と呼ばれて久しい。

 彼はこの頃、「児童指導員」であるという意識を捨て、あくまでも、子どもたちの周りで彼らの成長をそっとサポートする「大人の一人」であることを意識して、よつ葉園での指導に当たっていた。だからこそ、そんな事情を知らない県外の警察官からとはいえ、「先生」とたびたび呼ばれるのには、正直なところ、辟易している。

 高田警部補の話を聞きつつ、山崎指導員は、事務所の電話の前で逡巡していた。


 宮木正男からの電話があることを知った大槻和男園長が、事務室に入ってきた。

「申し訳ないが高田さん、少し待っていただけますか?」

山崎指導員はいったん電話を保留にし、大槻園長と話した。


「園長、宮木正男が兵庫県のT市で行き倒れになって地元の警察に保護された、言うてますわ。それでね、私を指名して、身元引受人になってやってくれんかと・・・」

 

 大槻園長は、かねて事務員から宮木青年がらみで警察署から電話があったことを聞き及んでいたが、どんな用件であるのかはすでに予測がついていた。

 彼が園長に就任したのは1982(昭和57)年。その頃はまだ、終戦直後からの旧態依然とした養護施設というより孤児院時代からの雰囲気が払しょくし切れていなかった。そんな昔ながらの手法を改革するのに、時間がかかってしまった。

 彼は、そんな時期の「卒園生」。

 群れさせるばかりで一人できちんと生きていくことを教え切れていない責任は、確かに、自分にもないわけではない。

 とはいえ彼に、今さら何かを与えてやることなどできない。


 「とにかく、その件は山崎君に任す」


 大槻園長は、その問題には一切かかわる気はなかった。山崎指導員は数分間にわたって保留にしていた電話をつなげ、高田警部補に話した。


 「お待たせしました。うちとしましては、10年前の卒園生で、しかも卒園した経緯にしても、うちの責任でどうこうといえる話ではなかったわけですから、よつ葉園としては、今の彼に対して責任を負える立場ではありませんとしか、申し上げようがないです」

 「そうですか・・・」

 予想通りとはいえ、高田氏は、いささかの寂しさも感じていた。

 「もう一つ、申し訳ない限りですけど、私自身も、現在家族がありますし、彼の身元まで引受けるだけの義理もあるとは言えませんから、身元引受の件は御勘弁いただきたい。重ね重ね申し訳ありませんが、そちらで善処願います」


 彼が断わるのも無理はない。

 当時40歳を超えたばかりで、子どもたちはまだ小学生。これからが大変になってくる時期に、そんなことまで責任の負いようもない。


 高田警部補の通っていた中学校の学区にも、養護施設があった。そこの子どもたちに何人か友人がいたし、今も付合いのある者もいる。彼らはその施設のことを、まったく悪く言っていなかった。しっかりした運営がなされていた養護施設で、地元住民からも大いに理解されていた。何より、まだ戦災孤児がいた頃の話だ。施設の子どもたちだけでなく、一般家庭で育った自分の家にしても、それほど豊かではなかった。

 テレビにしても、うちにはなかった。テレビを観るとなれば、近所の知合いのもとに行っていた。そこで、プロ野球の中継などを見ていた。もちろん、白黒テレビだった。あの「天覧試合」が行われた1959年6月25日の巨人対阪神戦も、その家で見せてもらった。杉浦忠の日本シリーズ4連勝も、大洋ホエールズの日本一も。その頃の正三少年は、中学生だった。あの養護施設には、何と、その頃からテレビがあった。地元の議員有志が金を出し合って、白黒テレビを1台、質流れのものを仕入れて寄贈した。仲の良い同級生で、その施設にいた少年がいた。彼は、そのテレビでプロ野球や歌番組などを時々見ていた。

 1959年の皇太子の成婚、そして紅白歌合戦と、何か大きなイベントがあるたびに、その養護施設は、地元の人たちにもテレビを開放していた。別にそれで商売をしたわけでもないが、観に来た人たちが、10円なり20円なりを、施設にお礼だと言っては「寄付」していた。そうして集まった金をうまく活用して、その施設は、園舎の改築費に充てるなど、様々な工夫をしていた。その同級生は高校卒業後就職したが、その後事業を興し、出身の施設にテレビを何台も寄付した。

 子ども心にも、その施設でテレビを観るということは、一家の「団らん」などとは程遠いものだなという印象を持った。

 テレビはその後大量生産されるようになり、各家庭へと入り込んでいった。チャンネル争いという家庭内の「いさかい」はあちこちで見られたが、たくさんの人が集まってテレビを観るという光景は、段々と廃れていった。彼が結婚し子どもが生まれた頃には、すでに自宅にカラーテレビがあった。自分は別にテレビをじっくりと観ることはなかったが、子どもたちが見ている番組を通して、世の中の状況をうかがい知れたことには、それなりの意義もあった。


 宮木青年が生きてきた時代は、自分たちの時代ほど貧しくはなかったはずだ。

 現に、彼のいたよつ葉園では寮ごとにテレビが置かれていて、すべてカラーテレビになっていた。さすがにのべつ観るようではいけないということで、寮ごとに毎週、毎日、どの時間帯にどのチャンネルの何の番組を観るかを決めて、それに従って各寮でテレビを観ていた。


 「中学生の頃は、テレビの歌番組をよう視た。あれをもとにして、クリスマス会とか、やったのは覚えとる。楽しかったけど、終わったら、それまでじゃ・・・」


 高田警部補は、雑談がてらに、宮木青年から養護施設時代の話を聞いていた。

 テレビを観ることひとつとっても、何だか、刑務所内の娯楽のような扱いだな、という印象を持った。

 子どもたちを群れさせて管理するには、絶好のツールというわけか。

 

 彼の施設時代の話を聞いていて、いまだにあの手の場所には、自分たちの思うような、そして自宅で、あちこちの家庭で日々展開している「一家団らん」とは程遠い、いささか時代遅れの感が否めない光景が展開されていたのだな・・・。

 そう感じずにはいられなかった。


 そんな環境で育って、果たして、まともに社会に適合できるのだろうか? この青年が今こんな状況に置かれている最大の責任は、養護施設、いや、彼の育ったよつ葉園という一施設の個々の職員の児童に対する対応などではなく、日本の児童福祉の貧弱さ、お粗末さに大きな原因があるのではないだろうか?

 今、電話の向こうにいる山崎さんという児童指導員にしても、よつ葉園にいる子どもたちの一生を見守ることができる立場でない。学校の教師と同じで、所詮は、子どもたちが施設を「退所」してしまうか、あるいは、彼がその仕事を辞めてしまうか、そのどちらかが成立したその時点で、彼(彼女)らはお互いタダの人同士。

 そんな立場の人に、いつまでも面倒を見ろとは、誰も言えない。

 これが親兄弟、あるいは身内までならまだしも、所詮は、全くの他人なのだから。


 「そうですか、わかりました。そちらさんに無理も言えないのは、私どもも予期しておりましたけれど、仕方ないですね。こちらのほうで、何とかします。お忙しいところ、誠に申し訳ありませんでした。それでは、失礼いたします」

 そう言って、彼は電話を切った。少し署内で宮木青年と話した後、高田警部補は、彼をT市の社会福祉事務所に連れて行き、彼の処置を引継いでもらった。後に福祉事務所の担当者に聞けば、彼は、大阪までの旅費を借り(といっても、返ってくる当てのない金なのだが)、それで、改めて父の居場所へと向かったという。


 「養護施設というところは、しかし、冷たいところやなぁ・・・」

 中年の警察官は、一通りの仕事を終えたのち、そうつぶやいた。そうでも口に出さないとやっていられない感情が、彼の心の中にたまっていたから。

 そうとしか、言いようがない。

 

 その後宮木青年がどうなったのかは、もはや高田警部補には、一切不明のままで終わった。

 彼がT市を訪れた翌年の、春までは・・・。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る