第16話 プール開き

  1981年8月X日 よつ葉園プール(防火用水)にて 

 

 養護施設よつ葉園は1981年5月下旬、それまであった津島町から郊外の丘の上へと全面移転した。基本的に5月の移転日には工事は完成していたのだが、一つだけ、まだ工事が必要とされていた場所があった。それは、園庭の片隅にある「プール」であった。

 住む家の敷地に「プール」など、「不急不要のもの」の極めつけ、それこそ、「無駄の産物」と思われる向きもあろう。確かに平地だとそうかもしれない。だが、移転先のこの地は郊外の丘の上、といえば聞こえはよいが、要はもともと小高い山の中である。

 それゆえ、火事が起きた時の影響力は半端ない。

 実際、よつ葉園は終戦直後の1948年夏、園児の失火が原因で園舎の2階部分を全焼させる火事を起こしたことがあった。そのときはアメリカ製の消防車が街中の消防署からやってきて、消火活動にあたった。当時津島町は今ほどの住宅地になっておらず、周りは田んぼだらけ、目の前は旧陸軍練兵場。他の建物への延焼こそ免れたが、再建するのに半年近くかかった。

 しかし今度という今度は、火事など起こそうものなら、たちまち山火事に発展しかねない。丘の下にはすでにS住宅という住宅会社が開発・分譲中。ただ山の草木を焼くだけで済むはずもなく、周囲の家にも影響を及ぼしかねない。

 つまりこのプール、第一義的には「防火用水」の機能を持っているもので、プールという機能は、その附属品に過ぎないのだ。とはいえこの設備自体は、不急不要どころか、このよつ葉園にとって必要不可欠な設備なのである。ただ、さすがに園児や職員の住むところのほうが優先ではあるから、そちらが先に完成したというわけで、別にプール建設を故意に遅らせたわけではない。

 プール工事は、7月になって始まった。工期は1か月。卒園生の大松重昭氏の勤める建設会社がその工事を請け負った。大松氏は1979年3月に公立O工業高校を卒業し、M建設に新卒で入社した。彼は現場監督として、あちこちの関連業者、俗にいう「下請」の親方や職人さんたちを束ね、この工事にも携わった。なぜ「も」をつけたかは、大方予想もつくでしょう。彼の勤める会社は、この地の新園舎の建設も担当したからである。

 一連の工事を発注したのは、大槻和男主任児童指導員の提案だった。


 梅雨も終わり、夏の扉がいよいよ開いたその頃、よつ葉園の園庭の一角では工事が急ピッチで進んでいた。これができれば、いよいよ、全面移転完了となる。

 すでに移転して2か月近く経っているが、尾沢康男指導員の提案によって生まれた「縦割り」の構想に基づいて幼児から高校生までの男女を混ぜて編成された3つの寮は、それぞれ今なお混乱を収束しきれていない。

 特に保母4人のA寮では、中高生のとりわけ男子児童たちを、若い保母たちは持て余し気味だった。もちろん、在職年数の長い保母もあてがっていたが、その程度でどうにかなるほど甘くもない。B寮には尾沢指導員、C寮には谷橋指導員と男性職員を充てていたから、そこは幾分ましなところもあったが、だからといって他には何も問題点はないと言って済むこともない。

 幼児から高校生まで、それも男女ともに同じ建物内で過ごすわけだから、生活リズムから何から違う。例えば、テレビ。幼児の観る番組と小学生、それから中高生と男女、それぞれが観る番組も違うわけだから。尾沢指導員に言わせれば、そういう「チャンネル争い」も家庭を学ぶ一つの題材と思っていた節もあった。


 B寮にいたZ氏は後に、その頃のことを

「家庭という美名のもとに無駄なじゃれあいを押し付けているだけの体制」

と評した。

 中高生ともなればそこから距離を置けるが、彼は当時小6。

 微妙な年齢の彼は、そのシステムの求める「子どもらしさ」という名の「幼稚さ加減」に、内心すさまじい怒りを持っていたのである。

 

 ついにその日が来た。8月上旬のある土曜日の午後。

 この日、岡山市のよつ葉園ができた丘の上には、昼頃から小雨が降っていた。

 来賓向けの椅子が十数脚並べられ、プールの前のシャワーの水道管の前には、紅白の布が巻かれた木のポールの上に「祝・プール開き」と、いかにも子どもが毛筆で書いたと思われる字の並んだ看板が掲げられた。

 来賓、理事諸氏は、東園長の案内で丘の下が見渡せる場所を背にパイプ椅子に着席した。向かい側には、よつ葉園の職員たちが立っている。

 一番プールに近い立ち位置に、この度司会を務める大槻主任指導員が立ち、開会を宣言した。大人たちの間には、幼児と小学生らが水着に着替えてこの会に立会って(立ち会わされて)いる。


 来賓代表、園長および理事長の挨拶の後、東園長がプールの入口を開け、シャワーの栓を開いた。子どもたちは、そのシャワーをくぐり、プールに入った。しかし、所詮は幼児向けの高さのプール。まともに泳げる場所ではない。すでに高学年になっている子どもたちにとっては、水浴びとじゃれあいが関の山。それでも、彼らのほとんどが、プール遊びを無邪気に大はしゃぎして楽しんだ。

 

 しかし、少なくとも一人、その状況に不快感を隠し持っていた子がいた。

 それは、Z少年であった。

 彼は、一見水浴びをしているようにも見えたが、内心、くだらないことにつき合わせやがってという怒りを隠し持ちつつ、その光景を、冷めた目で見ていた。


 そのことに気付いていたのは、大槻和男主任指導員だけだった。

 まだ若い他の児童指導員や保母たちは、彼の内心に気付いてなどいなかった。

 東園長と理事長や来賓者らは、子どもたちが水浴びをして遊ぶ姿を少しだけ見て、そそくさと事務所のある管理棟の2階に用意された休憩所へと退いた。

 来賓者らには、炊事場から暖かいお茶が用意され、待機していた保母たちによってふるまわれた。

 夏とはいうものの、この日は小雨が降っていささか寒さもある。この時期、普通なら冷たいお茶でも出せばよさそうなものだが、給食担当の職員が気を利かせ、温かいお茶を出した。器は、子どもたちが日頃使うものではなく、事務室にある来客用の湯飲みセットを持込み、休憩室に置かれたテーブルにあらかじめ用意しておいたものを用いる。そこでお茶を用意し、担当の保母たちがお盆に乗せて提供した。

 頃合いを見て、来賓各位は自家用車や職員に呼んでもらったタクシーに乗って、それぞれ自宅へと帰っていった。


 夏とはいえ肌寒い中、プール遊びは20分ほど続いた。

 しかし、いくら泳がないといっても水の中に長時間滞留させるわけにもいかない。晴れていようが雨が降っていようが、それは同じである。

 この日の「水遊び」を締めくくったのは、ベテランの山上敬子保母だった。

 彼女の号令で、彼らはプールを出た。

 そしてそれぞれの寮の風呂へと戻され、普段着に着替えさせられた。

 かくして、小雨の中のプール開きは終わった。

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