第15話 ショパンとアリスとハイケンス、そして、カッコウ

1979年1月X日(木) 岡山市津島町・養護施設よつ葉園のレコードから

 

 20時50分過ぎ。街中の盛り場はまだ宵の口のこの時間、養護施設よつ葉園の館内放送装置前に置かれたレコードが回り始める。静かなピアノの音が、事務室のレコード盤の上からマイクを通し、各部屋のスピーカーを通して全館に、そっと静かに流れていく。

 ショパンの子守歌。静かに心に染み入っていく名曲。寝る前に聴くのは、なかなか乙なものではある。自らの好みと意思に基づくものであれば。だが、そこに住む子どもたちの一部には、いささか「坊主憎けりゃ袈裟まで」を地で行くような感はあるが、この曲、ただのうっとうしい限りの雑音でしかなかった。少なくとも、この頃の木曜日ばかりは。

 21時。よつ葉園の小学生以下の子たちの消灯時間。20代前半のまだうら若き保母たちは、自分の担当する部屋の子どもたちを寝かしつけるべく、担当の部屋に行って布団を敷かせ、寝る準備をさせる。一見するとまるで学校の研修旅行か修学旅行のような光景だが、この養護施設よつ葉園においては、盆や正月を除いて、これが日々の光景だった。

 やがて子どもたちは布団にもぐり、担当保母か子どもの誰かが、電気を消す。明日の起床時間は、通常通りの6時30分。それまでの9時間30分、子どもたちはほぼ畳1枚の面積の布団の上で夜を明かす。


 同じく21時ちょうど。四国方面から東京へと向かう用務客や観光客を乗せた特急「瀬戸」は、四国各地から連絡船に乗ってやってきた客と、一部の地元客を乗せ、宇野駅を発車する。

 発車と同時に、列車内にはオルゴールの音が鳴り響く。ハイケンスのセレナーデという曲を基にしたもので、当時の客車列車に標準的に装備されていた車内放送用。

 引続き、備前平野を足取りも軽く、青地に白帯の電気機関車が十数両の客車を牽引してまずは岡山へと向かう。岡山到着まで約30分。車内検札は手際よく行われ、備え付けられた浴衣に身をくるみ、早くも寝台に横たわって寝息を立て始める客もいれば、寝台内で寝酒を一杯あおる客もいる。

 この列車の寝台は1種類しかない。客車2段式B寝台。横幅70センチで縦幅2メートル弱の2段寝台に、客がそれぞれこもり、そこで横になって一夜を過ごす。寝台にはシーツが敷かれ、枕と毛布は常備されている。以前はA寝台しかなかった浴衣のサービスもあり、人々はこれに着替えて一夜を過ごす。


 当時よつ葉園は、山組、川組、月組、海組、雪組、ひまわり組、ゆり組、さつき組、さくら組・・・などと、自然や草木の名前を各部屋につけていて、そこにそれぞれ、幼児、男女別に小学生、中学生及び高校生などを数人ずつ割振りし、そこで日々の生活を送らせていた。

 もちろん、生活リズムの違う小学生と中学生、まして高校生などを一緒にすることはない。男女はもちろん別。この年度はちょうど高3生の男子児童が2名。彼らは職員宿舎として利用されている部屋を、個室としてあてがわれていた。

 小学校就学前の幼児たちのいるひまわり組は、20時が消灯。その部屋にいる子たちは明日もまた、園内にある集会室で保育の時間がある。昼寝だけでは物足りない小さな子たちは、すでに早々と寝入っている。だが、小学生も高学年となってくれば、9時に寝なさいと言われてすんなりと寝てしまう子ばかりではない。消灯後も眠りにつけないで困っている場合もあれば、積極的に寝る気もなく、何やらしている子も中にはいる。

 しばらくは、彼らも「寝る」。ただし、横になっているだけ。子どもたちを寝かしつけた保母たちは、仕事を終えた満足感を胸に抱きつつ、職員室へと向かう。夕礼といって、その日の終りの職員同士の連絡事項の共有のために行われる業務連絡があるからだ。

 それが終ると、彼女たちのほとんどは、向かいにある木造園舎の2階にある彼女たちの居室へと戻っていく。ただし、何日かに一度、当直の仕事があてがわれる日もある。当直職員は2人いて、彼女たちは当直用の別室に待機し、時間をおいて館内を見回る。

 外部からの侵入等がないかを確認する他、深夜の突然の来客や電話、子どもたちの体調の急変などにも対応することが主たる業務である。もっとも、救急外来を扱わない病院以上に深夜に来る人などいないので、そこまで忙しいことはまずない。酒はさすがに飲めないが、何もなければ一晩ゆっくりできて、あとで手当も出る。

 中高生の消灯は22時であったが、勉強などのために23時になることもあった。それに合わせて、少し早めに、宿直担当の保母は全館の見回りをする。夜中でも用を足しに便所に行く子もいないわけではないので、23時までは廊下の電灯を点灯させている。よつ葉園の鉄筋園舎2階の一番東側にあった部屋を、仮に「川組」、その隣にある廊下をはさんで2部屋は、まとめて「月組」としておく。「川組」のほうは、6年生のK君を筆頭に小2の子まで、多少の入れ替わりはあったものの、常時そのくらいの人数の子どもたちが過ごす部屋だ。


 この日は木曜日。TBS系列のテレビ局を中心に、「ザ・ベストテン」という歌番組が毎週放映されていた。

 中高生の子たちは男女とも、この番組を楽しみにしている。部屋ごとにテレビがあるので、彼ら、彼女たちは、その番組を観ることにしている。それは担当の職員も知っているし、中には一緒になって観る職員もいる。

 小学生担当の保母たちは、中高生たちよりいくらか年長ではあるものの、まだ20代前半のうら若き女性たち。こういう番組を楽しみに観ている職員も、もちろんいた。川組担当の岡野公子保母は、それほど好んで観ていたわけではないが、時には観ることもあるので、その存在は知っていた。

 しかし、彼女は自分の担当の子どもたちが、その頃、ベストテンをこっそりと見ていることに思い至ることはなかった(はずである)。

 彼女が夕礼のために部屋を出て行くまで、子どもたちは一斉に寝た「ふり」をする。よほど疲れていない限り、みすみす寝入ってしまうはずもない。彼女の影が見えなくなり、目の前の部屋の担当職員も去っていった段階で、彼らはコソコソと起き出し、テレビのチャンネルをつける。誰か一人、年少の子がこっそりと、入口の引き戸の隙間から、様子を見る。そしてみんな、起き上がって、ボリュームを最小限にして、テレビに見入る。

 この番組は、いろいろなデータから集計して流行曲に順位をつけ、それを10位から1位まで順に紹介し、出演した歌手に歌ってもらうという趣向の番組。途中、11位から20位までの曲の紹介と、さらにはランクに入ってはいないけれども出たばかりの曲やデビューしたての曲を紹介し、歌手を呼んで歌ってもらうこともある。その日の第2位は、ゴダイゴの「ガンダーラ」。毎週日曜夜に放映されている「西遊記」のエンディングテーマ。時間の関係でフルコーラスを歌うわけではないが、生放送で聴くのは格別である。

 番組もたけなわ、今週の第1位。この日は、アリスの「チャンピオン」だった。

 司会の久米宏と黒柳徹子の二人と彼らの少しばかりのトークの後、いよいよ、スタジオで3人が自ら演奏しつつ歌を披露。それが終ると、いったん、CMが入ることになっている。

 保母らが見回りに来るのは、22時前後。ただ、いつ来るかはわからない。

 もし少しでも早く来たら、ひょっと、テレビを観ていることがばれてしまうかもしれない。そうなったあかつきには、大いに叱り飛ばされることはわかり切ったこと。翌日の職員会議でも問題にされることは間違いなかろう。

 そういう事態は、子どもたちにとってもっとも避けなければいけないことだが、とにかく、ばれさえしなければ問題はない。

 まだ見回りの保母は来ない。今日は夕礼が長引いているのだろうか、とっくに終わってはいるものの、保母たちが職員室でただただおしゃべりをしているだけか。

 とにかく、見回りの職員が来ない以上、大丈夫。「現行犯」で見つかりさえしなければよい。彼らは、少しばかりのスリルを味わいつつも、テレビの向こうの若き3人の男たちのバンドの歌と演奏に聴き入った。時としてこのよつ葉園で行われるお楽しみ会とも何ともつかぬ場でベテラン保母の山上敬子先生に歌わされる歌などより、テレビで聴く若いアイドル歌手やバンドグループの曲のほうが、よほど聞き甲斐もあって歌いたくなる歌ばかりだ。

 アリスが「チャンピオン」を歌い終った。

 本当なら、CMをはさんで番組の最後まで観たいところ。現に、番組が終わるまで見回りが来なかった日もないわけではない。

 だがこの日は、CMが始まる寸前にはもう、入口の向こうの階段から誰かが上ってくる音がしはじめた。もはや、キンチャンこと矢沢透のバンドの余韻を味わうゆとりはない。まだばれていないだろう。見張り役の3年生が、見回りが来たぞと合図。

 テレビの前の5年生は、急いでテレビを消した。

 今日の見回りは、女子の部屋を担当しているU保母。彼女は階段を上り切り、目の前の左側と右側にある「月組」という部屋の中を見回り、それから川組に入ってきた。彼女が見る限り、特に異状はないようである。やがて彼女は、そっと部屋の扉を閉めて、静かに部屋を出て行った。普段は目の前の月組の前にこの川組に来るはずの彼女、この日は何かあったのだろうか、先に月組の左右両方の部屋に入ったのだ。


 「ああ、助かった。今週も、ばれずに済んだ・・・」

 彼らは、布団の中で一安心した。やがて彼らは、それぞれの眠りへと落ちていった。

 

 東京に向かうブルートレインは、21時30分過ぎに岡山到着。ここで岡山及び近隣の地に加え、新幹線などを乗継いできた客をさらに拾う。22時を前に、再びハイケンスのセレナーデが車内に流れる。今度は本格的な案内放送である。その放送が終わると、車内は「減光」される。夜間のため寝台客の安眠を確保するためである。また、車内放送は緊急時を除き、翌日の横浜到着前まで行われない。途中の下車客には、車掌が個別に声をかけ、乗り過ごしを防ぐことになっている。

 列車は姫路、三ノ宮、そして大阪へと停車し、明日朝の東京入りを急ぐ関西圏の乗客らをいくばくか拾い、闇夜を一路、東京へと向かう。電池を詰めた重いカセットデッキを抱えて列車に乗り込み、ヘッドホンを接続し、持ってきたカセットテープを入れてお気に入りの曲を聴く若い乗客もいる。中には、今どきのゴダイゴやアリスの曲をレコードからテープにダビングして聴いている者もいたであろう。あるいは、昨年解散になったばかりのキャンディーズの曲を聴いている者も。よほどの大音量が客室に漏れない限り、あるいは気分よく歌いだしたりしない限り、そのことをとがめ立てる者は誰もいない。

 さらに小型で軽量化され、持ち運びを決定的に便利にしたソニーのウォークマンが発売されたのは、この年の7月。この列車をはじめとするブルートレインのテールマークが絵入りになったのと同じ時期。この時点では、まだ発売されていなかった。

 車掌たちは、折を見て車内を巡回する。この列車のベッドと外界を隔てるのはカーテン一枚。無防備性抜群と評した人もいるが、そんな場所を「仕事場」にしている者もいないではない。それを防ぐための注意喚起は車内放送でも十二分になされているが、それだけで防げるものではない。時として鉄道公安官が同乗し、警戒に当たることもある。

 

 日付も変わり、やがて金曜日の朝が来る。

 6時30分。

 よつ葉園のレコードは再び回り出す。

 レコード盤上に乗っているのは、昨夜とはまた別のレコード。今度は、「カッコウ」の曲が、マイクを通して館内に響き渡る。

 担当の岡野公子保母は今日も出勤日。まだ暗い園庭を横切って、川組の部屋の中に入って来て、子どもたちを起こし、身支度をさせる。

 かくして、よつ葉園の一日は始まる。

 彼らが朝食をとるために食堂に集まる。そして、朝食を終えた後、それぞれ学校へと向かっていく。

 小中学校は、昼には給食がある。高校生には給食はないが、食堂ではそのための弁当を作ってくれる。朝食のついでに数食分弁当を作るのは、この地においてはさほどの労力ではない。しかし、数十人が一堂に会して食事をとるわけだから、調理自体が重労働であることは確かである。彼らの夕食は17時30分。この食堂に集まり、食事をとることになる。中高生にしてみればずいぶん早い時間ではあるが、このような時間に食事をとらせるのは、炊事場の職員の人件費と光熱費などの経費節減が主たる目的。子どもたちのためを標榜しながらも、職員たちの都合というものをどこかで押し通している。だが、そうでもしていかないと、子どもたちだけで70人近くもいる大所帯を運営できないのである。そしてまた、宿題をして、風呂に入って、テレビを見て、寝る。明日は土曜日。今なら休みだが、当時は昼まで学校があった。だが、半日だけの辛抱。それさえ終われば、あとは1日半、学校に行かずに済む。多少の出入はあるにしても、当時の養護施設の子どもたちの入所期間は今より長かった。同じような顔ぶれで、彼らは、このかりそめの家でその時期が来るまでの幼少期を過ごしていたのである。


 昨夜21時に宇野駅を出発したブルートレイン「瀬戸」は、6時30分過ぎ、すでに熱海を出発して横浜、そして東京へと向かっているところ。よつ葉園のレコード盤から昨晩と全く異なるレコードが館内に流される丁度その頃、こちらでは、昨夜と同じハイケンスのセレナーデを元曲にしたオルゴールが流され、車掌長の案内放送が始まる。それとともに、車内の蛍光灯は再び、昨晩減光される前と同じ明るさへと戻される。岡山の養護施設でカッコウの曲が鳴り止み、次々とアニメの曲などのレコードが流されるその頃、この列車の客たちは、車内放送にはさほど構わず、いそいそと降り支度を始める。洗面台や便所の前には、行列ができている車両もある。用務客の多いこの列車、ぐずつく子どもはほとんど乗っていない。彼らは前日のうちに、西日本のどこからかやってきてこの列車に乗り合わせ、そして、この朝、それぞれの目的地へと去っていく。

 1月半ばでもあり、列車からの景色は、まだ暗い。

 少年たちのブルートレインブームは今なお継続している。だが、学校もある平日の朝。カメラを持って駅のホームによって来る少年はほとんどいない。この列車が通過していく各駅には、次々と通勤電車が入っては出ていく。東京が近づくにつれ、その数は人も列車も多くなっていく。列車内では、車内販売の売り子が弁当やお茶、コーヒーなどを売り歩く。ここで何か食べておかないと昼、下手すれば夕方まで何も食べられない人もいれば、東京到着後に改めて喫茶店でモーニングにありつく人もいるだろう。かつてはこの列車にも食堂車があった。しかし、国鉄の合理化や利用者数の減少などもあり、すでに食堂車は連結されなくなって久しい。列車は定刻で7時25分、東京駅に着く。 ここまで残った客はすべて、この駅で下車した後、それぞれの目的地へと向かっていく。おそらくこの先、この列車に乗り合わせた人たちが一堂に会することなど、もう二度とない。列車はそのまま、品川にある客車区へと回送され、清掃に付される。そしてまた、夕方には別の列車となって東海道を下っていく。その列車に乗り合わせる乗客もまた、翌朝目的地の駅で下車して後、お互い二度と会わない人たちである。


 レコードを流して子どもたちを食堂に集めたり、起こしたり寝かせたり。羊の群れのごとく子どもたちを「飼いならして」いたよつ葉園という養護施設からそんな風習が消えたのは、それから2年後の1981(昭和56)年5月。手狭になった津島町の地から郊外の丘の上へと全面移転したよつ葉園は、3つの寮に分けて子どもたちを住ませた。

 しかし、家庭のような場所を標榜した職員の理想とは裏腹に、羊の群れを飼いならすように子どもたちを過ごさせる体制は、その後もしばらく続いた。

 

 「個人化」への流れは、昭和から平成になってさらに加速度をつけた。養護施設という場所も、その例外に漏れなかった。その流れに、少子化がさらに拍車をかけた。よつ葉園もその影響を受け、1990年代半ばには定員70のところに、在園児50人を割る月がしばらく続いた。それを機に、よつ葉園はA寮を個室化することにした。中高生のプライバシーを保護・維持するためである。やがて虐待などが社会問題化していく中で、養護施設改め児童養護施設となったよつ葉園の入所者が、少しずつ回復し始めた。これが寝台列車なら、大いに喜ばしいことである。大入袋を配ってもよいところだ。しかし、ここで入所児童が増えるということは、よつ葉園の経営という点においては喜ばしいかもしれないが、社会全体にとっては、いいことであると手放しで言い切るわけにもいくまい。

 ハイケンスの曲が夜朝に流れた夜行列車たちも、すべて廃止されて久しい。この年、ある政治家が「夜行列車廃止論」を出した。そのときはかなりの反発もあった。さらに8年後、国鉄は分割民営化され、特急「瀬戸」はJRの旅客会社3社にまたがって運転されるようになった。さらに翌年、瀬戸大橋の開業によって本州と四国はレールで結ばれ、この列車はなんと、JR4社を1000キロ足らずの距離でまたがって運転されることになった。九州まで足を延ばす列車に至っては、すでに4社にまたがって運転されていた。分割民営化時こそ、それなりの需要もあった寝台列車だが、やがて新幹線が高速化し、航空機との競争もし烈となっていく中、昔ながらのブルートレインと称する寝台特急列車をJR各社とも持て余すようになってきた。特に東京圏の通勤輸送はひっ迫を極め、機関車の牽引する故に速度を上げられないブルートレインは、輸送上の弊害になり始めていた。ただでさえ客が減っている中、輸送力をそぐ列車に力を入れるわけにもいかない。世上では、宿泊施設がさらに充実し、安価なビジネスホテルやサウナ付のカプセルホテルなどが林立している。寝台料金よりもはるかに安いホテルだが、プライバシーは保てる。カプセルホテルとて、ロッカーはあるのだから貴重品の安全は保てる。なんとなればフロントに預けるという手もある。だが、寝台列車には一部の個室を除き、そんな気の利いた設備はない。やがて、食堂車は廃止され、車内販売も撤退していった。殺風景なそんな列車に、誰が乗ろう。少なくとも、ビジネスマンという用務客たちは。

 21世紀になって間もなく、ブルートレインと銘打たれた寝台特急群は、東海道・山陽筋からすべて消えていった。唯一残っていた「北斗星」も、臨時列車として走り続けた「トワイライトエクスプレス」とともに、北海道新幹線の開通を機に30年来の役目を終え、消えていった。しかしながら、「瀬戸」号はそんな中、今も生き残っている。あの日から約20年後、この列車は「出雲」とともに電車化され、「サンライズ瀬戸」として、JR4社をまたいで東京から高松まで、毎日運転されている。岡山から東京までの間は、「サンライズ出雲」との併結である。「ノビノビ座席」と称される1両を除いて全車寝台、しかも、すべて個室である。今、定期の夜行列車として存在しているのは、この2列車だけである。

 さしたる仕切りもない中で、人々が同じ屋根の下の同じ部屋の中で寝ていた時代は、個人化が進み一人一人のプライバシーが保てるようになった今の世の中に比べて幸せだったという人もいれば、とんでもない、今のほうがよほどいい世の中だという人もいよう。

 しかし、昔を懐かしみ、興味を持つ人がいるのもまた現実である。この数十年来の変化は、私たちをどのように導き、そしてどの地へと運んでいくのであろうか。

 あの養護施設の部屋で、こっそりと「ザ・ベストテン」という歌番組を見ていた少年の一人は、この私。時折スナックに行っては当時の歌をカラオケで歌うのもまた、同じく私である。最後に、鉄道ジャーナル創始者の竹島紀元氏が同誌1975年3月号のルポ記事「つばめ鎮魂歌」で述べた文をベースとした以下の言葉をもって拙稿の結びとしたい。


自然への回帰を叫び、うるおいのある人間生活を望もうとも、時代の激流に流されながら生きていかねばならない私たちは、人間性回復の願望や郷愁などを元手に、この社会を生きていくことなどできないのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る