第7話 不適切な関係?

1997(平成9)年1月中旬のとある平日 よつ葉園・園長室にて


   1

 「失礼します」

 声の主は、村田紀美子保母だった。大槻和男園長は、彼女を迎え入れた。


 村田保母は、園長室に来ることが多い保母だ。A寮を統括している山崎良三指導員の仕事ぶりがどうこう、あることないこと述べ立てに。その大半は問題視するようなことでもないので、大槻氏はいちいち本気で取合っていない。中にはこれは問題だぞということもあるので、それはさすがに山崎指導員や問題となった他の保母を呼んで注意することもなくはない。だが、彼女が「御注進」よろしく持ち込んでくる情報の中で、よつ葉園にとって、あるいはA寮で暮らす児童個人にとって、また、他の職員にとっても、致命的な問題になるようなことは、彼女の勤務した2年間のうち、1件もなかった。


 また、くだらない「御注進」に付合わされるのか・・・。


 そもそも彼は、そういう「茶飲み話」が好きではない。特に園長となってこの10年以上、職員らとおしゃべりよろしく仕事時間を浪費することは、時間の無駄以外の何物でもないという気持ちを持っていて、そんなものに付合うことなどなく、自らやるべきことを園長室でこなすことが多くなっていた。前任者の東航園長は、事務室の窓側に自身の席をおいて、そこで執務していた。気さくな老紳士だった。

 だが彼は、そこを、移転とともに、真っ先に「改革」した。

 園長室を日常不断に執務で使うようにしたのである。東園長の影響力を削ぐためにあえて用意したと揶揄する職員もいたが、それは、来るべき自分自身が園長となった後のために用意した部屋であった。

 「よつ葉園を出て外で一人暮らしなど始めたら、寂しさを感じるものだ」

 などと、保母たちは男女を問わず中高生たちにたびたび言っていたが、そのような経験をしたこともない者が何を言っているのかと、内心、大槻園長は思っていた。そんな彼女ら、確かに、短大時代に下宿などをして一人暮らしを経験した者もいないではないが、実家から通っていたり親せきの家から通っていたりで、家族のもとを離れずに通っていた者も多かった。彼女たちは、気に入った何人かでつるんで休憩時間や休日を過ごすこともまま見られた。そんな彼女らの言動を、彼は苦々しく思っていたが、あえて、そのことについては何も注意をしたりすることはなかった。


 「園長となって大きな決断を迫られるときというのは、孤独なものである。人がまわりにいるから寂しさがまぎれるとか、馬鹿も休み休みに言え。まったく、これだから養護施設関係者は社会性がないと言われるのだ・・・」


 そんなことを思いながら、村田保母を迎え入れた大槻園長は、彼女にソファへの着席を促し、自らも、決済すべき文書の処理を済ませ、彼女の向かいの席に座った。


   2

 「園長先生、この春をもって、よつ葉園を退職させてください」

 彼女は、持っていた一通の封筒を大槻園長に手渡した。

 彼は、封をされていない封筒の中に入っている紙を取出し、目を通した。


 退職願

 よつ葉園園長 大槻和男 様

 来る平成9年3月末日を持ちまして、よつ葉園を退職させていただきたく存じます。以上、よろしくお願いいたします。

 平成9年1月X日

                 よつ葉園 保母 村田紀美子


 「村田先生、すでにあなたからは昨年末にそのような御意向を非公式ながら伺っておりましたので、この場で受理させていただきましょう」

 「ありがとうございます。2年という短い間でしたが、お世話になりました」

 「こちらこそありがとう。あなたがこのよつ葉園で頑張っていただいたおかげで、中高生の男子諸君も、伸び伸びと育って、どんどん社会へと出て行っております。山崎君とあなたは、考えの合わないところも多々あったようですな。あなたも思うところは多々あろうけれども、そのあたりは、どうか水に流してやってください」

 「ええ、そのあたりは、別に気にしておりません。今思えば、山崎先生は、いい意味で子どもたちを管理したり指導したりではなく、彼らと一緒に暮らすということを通して、いろいろなことを教え導いておられるのだということに気づきました。園長先生にいろいろ、私なりの不満は申し上げましたが、そのあたりの御無礼は、どうかお許しください」

 「いやいや、無礼なことはない。ただ、ちょっと、聞いておきたいことがある」


   3

 彼女に関しては、「特定児童との不適切な関係」の疑惑がしばしば上がっていた。その相手というのは、かつてよつ葉園と完全に縁を切る形で「卒園」していったG君という元入所児童の異父弟の正幸という、このとき高3生の少年だった。彼は工業高校を今年卒業して、地元のある企業に就職することが決まっている。彼女は直接の担当だったわけではないが、彼とはどういうわけか仲が良く、たびたび、彼女の住込みの居室に招いたり、彼のほうが訪れてきたり。そういうことが続いていた。それを「異変」と言うのは語弊があるかもしれないが、特定の保母と男子児童、それも年の差にして4歳しかない者同士が同じ部屋に入り込んでしばしば「話し込んでいる」というのは、同世代の中高生男子たちにしても、いささか不自然な動きがあるように感づいても不思議ではない。他の保母や、山崎指導員も、そのことには気づいていた。しかし、村田保母と正幸が実際に「一線を越えた」行為に及んでいるという「証拠」は、誰もつかんでいなかった。わざわざ彼女の居室近くにこっそり隠れて二人が何をしているかなんてことは、入口の引戸に鍵を閉められ、窓にカーテンをかけられていては、もはや、わかりようもないことだった。それこそ、協産党の幹部を盗聴した公安警察官のように「盗聴器」を仕掛けるなんてことでもすれば、何やら怪しい会話というか、ズバリ、そういう行為をしている証拠でもつかめたのかもしれないが、そんなことをこのよつ葉園内でやったら、右に左に大問題となることは目に見えているし、そこまでして証拠を掴んでやろうと意気込む者も、職員と子どもたちとを問わずいなかったのは、幸いというべきものかもしれない。

 大槻園長としてみれば、誰が誰と付合おうがどうしようが、そんなことはどうでもいいことであった。くだらんゴシップもどきの与太話に付合うようなヒマなど、彼にはなかった。園内のそんなどうでもいい話などに付合うヒマがあれば、ジャガーズクラブの知人と経営の話でもしているほうが、よほどためになる。そのような話の中にこそ、子どもたちの将来の自立に関わる上で有益となる話が詰まっている。

 ただ、何かのはずみでとんでもない形で、よつ葉園の職員や児童らの間の「不適切な関係」が明るみに出たとなれば、それは事と次第ではこの施設の存立にも関わることになるし、自分自身の立場だって脅かされる。自分が辞めるのはこの際いいとしても、じゃあ、代わりとなるべき人間が育っているか、というと、それもまだ、心もとない時期だった。


 少しの間、大槻園長はあのことをどう聞き出すか、考えた。

 しばらくの沈黙の後、彼は、村田保母に尋ねた。


   4

 「あなたが、正幸と「できている」という話が、複数の保母や子どもらから聞かされたが、それは、デマなのだね?」


 ああ、やっぱりあのことか・・・。

 彼女は、表情を何一つ変えることなく、答えた。

 「そんな声が一部で上がっていることは知っています。茶化しがてらに何か言われたこともありますが、正幸君と「できている」なんてことはありません」

 実際、彼女たちの間でどのような話が展開したか、まして、どんな行為があったなどということは、誰も、つかんでいない。村田保母と正幸以外は。


 「それなら、安心しました。不適切な関係と言うか、そのような行為に及んだことは、お互い一切、よつ葉園の内外を通して、「ない」ということで、よろしいね」


 大槻園長は、さらに畳みかけた。

 彼女は、一瞬、ひるんだ。

 自分自身の心の動揺を悟られないようにと、彼女は何とか、平静を装いとおした。


 「はい。その通りです。やましいことは、何もしておりません」


 大槻園長は、彼女の心の動揺を、すでに読みとっていた。だが、証拠もない以上、それ以上のことは追及しえない。正幸も、この3月でよつ葉園を「卒園」という名の「退所」をし、社会へと巣立っていく。彼女は、次の職場からすでに勧誘を受けていて、この4月から、岡山市内の別の保育園に保母として勤めることがすでに内定している。

 この3月末までに何か起こったならいざ知らず、4月以降に彼女と彼との間で何が起ころうが、それはもはや、よつ葉園として関知できることではない。もし仮に、村田元保母と正幸がその後親密となり、いや、すでに親密であるところがさらに一歩進んだ関係になったとしても、それはもはや、「不適切な関係」でもなんでもない。世間にはよくある、男女の関係の一つに過ぎない。そんなことにいちいち目くじらを立ててゴシップ新聞よろしくそのネタを茶飲み話がてらに話しているほど、彼もヒマではない。ジャガーズクラブ内では男女の関係その他いろいろな話が持ち上がることはあるが、自ら代表を務める施設内の元関係者となる彼らの関係などは、酒席のネタにできる内容でもない。


 「そうかな。それなら、よろしい。じゃあ、お引取りください」

 彼女は立ち上がり、ドアノブの前に立ち、大槻園長に一礼し、彼女は園長室を去った。

 それから2か月ほどの間、村田保母の部屋に正幸が出入りすることは、相変わらずあったが、特に問題となる行動は発覚しなかった。

 実際のところは、この二人以外の者には、誰にもわからないのだが・・・。


 かくして彼女は、その年の3月末、よつ葉園を退職していった。

 正幸少年もまた、同じ日に、よつ葉園を卒園して行った。


   エピローグ

 その後、彼女は結婚し、子どもも生まれた。数年後、彼女がある男性と買い物をしているのを、山崎元指導員がある店で見かけた。彼もその頃には、よつ葉園を退職していた。

 彼が話を聞く限り、その男性は彼女の夫ではなく、村田元保母の兄にあたる人物だという。その子は、母親と母方の伯父に連れられて、買い物に来ていたわけである。

 だが、山崎元指導員がその子の顔つきを見る限り、いささか、正幸に似ているようにも思えたそうな。

 山崎氏の気のせいだとは思われるが、実際のところは、わからないままだ。

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