2通目

「ん……」


 こんこん、というノックの音で、私は夢から覚めた。


 ゆっくりと目を開けると、真っ白な天井が見えた。

 そのまま視線を彷徨わせると、大きなL字型のソファとテーブルが置かれた談話スペースが目に入る。ベッドから向かって正面の壁一面には本棚が並べられていて、ぎっしりと隙間なく本が詰め込まれていた。


 ぼんやりした頭で周囲を見渡したあと、少女は軽く目を擦って体を起こした。

 遮光カーテンの向こうから朝日が零れていた。サイドテーブルには読みかけの本が積まれてあって、だんだんと自分が今どこにいるのか理解する。


「んー……?」


 ごしごしと目を擦って、やっと頭がクリアになってきた。

 どうやら夢を見ていたようだった。内容は覚えていないが、嫌な夢ではなかったような気がする。急に現実の世界に引き戻された感覚は、いい夢を見ていた証拠だと思った。



―――こんこんこん。



 二度目のノックは強め。

 レトロな壁掛け時計は朝八時を示していた。


「まだ八時じゃん……」


 愚痴が零れた。おまけにちっ、と舌打ちも。

 いい夢を見ていたかもしれない分、起こされたのが余計に腹立たしい。

 いつもなら無視を決め込んでやるのだが、そうもいかない事情がある。低血圧な私にとってはなんとも不満の残る起き方であった。


「……どうぞー」


 やっぱり無視して二度寝してやろうかな、と頭を過ったが、考え直して返事をする。


 今のところ体調は悪くない。

 ここで無視して体調不良と見なされてしまうのは避けたかった。あの鬼看護師のことだから、無駄に待たされたとか言ってお散歩タイムを剥奪するかもしれない。自分はよく寝坊とかするくせに、他人には厳しいのだ。


 返事と同時に、木製の扉が軋んだ音を立てて開いた。

 朝食の乗ったトレイを押して、女性が部屋の中に入ってくる。白衣を身に纏った彼女はどことなく不機嫌そうな表情だった。


「……お前さっき、舌打ちしただろ」


 真矢さんはハスキーな声でそう言った。

 美女怒ると怖いというが、まさにその通りだ。赤みがかった髪をアップにした、気の強そうな吊り目の美女。イライラを隠そうともせず、咥えたタバコを何度も噛んでいた。


「してないもん」

「嘘つけ、思いっきり音出しやがって。聞こえてんだっつーの」

「あーもう朝からうるさーい」


 このクソガキ、と悪態をついたてカーテンを開けた。

 薄暗かった部屋が一気に明るくなっていく。今日は快晴らしく、気温も比例して高い。真矢さんは少し考えてから、窓を開けるのを止めた。


 振り向いて、小さなプラスチックの棒を渡してくる。

 むー、と唸って、私は受け取った。やだなぁ、と思いつつも大人しく脇に挟んでおく。


「おら、さっさと体温測っちゃえ。メシはその後な」

「食欲なーい……」

「薬も飲まなきゃいけないんだから、ワガママ言うんじゃねーよ」

 

 コップに水を注いで、朝食と一緒にテーブルへ置く。

 ベッドではなく、こっちで食えと言うことらしい。のそのそとベッドから降りて、少女はソファに座った。


「……なに」

「いや、今日はちゃんと歩けるなって。最近やけに朝フラフラしてたからな」

「あー……別に。朝弱いだけだし」

「お前の場合、そうじゃない時もあるだろ」


 ふん、と言って、少女は体温計を渡した。

 ちなみに温度は見ないことにしている。ジンクスみたいなもので、自分で体温を確認した日は良いことがないのだ。


「……ん。平熱だな。だからってあんまはしゃぐなよ。散歩は日ぃ落ちてからな」

「えー」

「えー、じゃねえ。今日は昼間クソ暑いんだから、お前マジで死ぬぞ」


 そうだろうな、と思う。

 実際真夏のこの島じゃ、昼は信じられないくらいに暑くなる。

 そんな日差しの下に歩こうものなら、私はきっと一分も持たない。吐いて、倒れて、数日はベッドからぴくりとも動けない日々を送る事になるだろう。


「ね、真矢さん」

「あん」

「夏にさ、海で泳い事ある?プールとかでもいいけど」

「……まぁな。つっても、お前が思ってる程良いもんじゃねーぞ」

「そうなの?」

「ああ。海なんかだと、砂入ったりベトベトしたり……髪なんかもう最悪。プールだって人ばっかりで狭いし、ガキがおしっこしてたりとかな」

「えー、何それ。きたなーい」

「だろ?クラゲに刺されたりとか流されたりとか、危ねーことも多いしな。ナンパはクソうざってぇし、ぶっちゃけ楽しくもなんともねえよ、うん」


 クーラー効いた部屋が一番だよ、と言って、真矢さんは頭を掻いた。

 喋っている間は私のほうを見てはくれなかった。


「ふーん」

「……いいから、さっさと食っちまえ。ゆっくり噛んでからな」


 どっちだよ、と思って、私はお粥に手を伸ばした。

 少し冷めたお粥は薄味で、あんまり美味しくはない。サラダもドレッシングは少しだけだし、いつも通り何だか葉っぱだけ食べてる感じ。唯一美味しく感じたのはリンゴだけだった。


 私はゆっくり、嫌味を込めて本当にゆっくり噛んだ。

 それでも真矢さんはちっともイライラせずに、ぼんやりと窓の外を眺めていた。たまにタバコを噛んで、器用に上下に揺らしたりしている。すぐにでも喫煙所で吸いたいのだろうけど、文句の一つも言わずに私が食べ終わるのを待った。



―――嫌な子だ、私。



 食べてる間は、ずっと自己嫌悪。

 私が海なんかで泳げるわけがない。分かってて、私は真矢さんに訊いたのだ。どんな気分ですかって。私が一生できないことを楽しめるのって、どんな気分なんですかって。

 そりゃ見た目とは裏腹に優しい真矢さんの事だ。面白くないって言うに決まってる。ただの八つ当たりで、私は真矢さんに嫌なことを言わせたのだ。


「ごちそうさま」


 フルーツも食べ終わって、私は小さく呟いた。

 真矢さんはニカっと笑って、おう、と言った。テキパキと片付けてから、テーブルを拭き始めた。


「今日は残さなかったな」

「うん」

「美味かったか?……なわけねーな。お粥だしな」

「ううん。美味しかった」

「嘘吐け。味薄いだろ、あれ」

「薄かったけど、美味しかった」

「はは、そうか」


 ははは、と笑って、真矢さんはトレイに布巾を投げた。

 ピルケースからいくつかの薬を取り出して、コップにまた水を注ぐ。今度は冷水じゃなくてぬるま湯だった。


「おら、さっさと飲んでベッドいけ。夕方までちょっと寝とけ。散歩するんだろ?」

「……うん、する」

「おし。手紙の返事、今日は来るといいな」

「来るわけないじゃん。来たらホラーだし」

「バーカ。神様が届けるんだぞ、あれ。届いたら奇跡っつーか……なんかいい感じのアレだろうが」

「……えー。なんか真矢さん似合わなーい。乙女な真矢さんきもーい」


 今度は私も笑って、軽口を言う。

 ごめんねとは素直に言えないけれど。私はまだまだガキで、真矢さんはずっと大人だってことだ。こんなに面倒臭い子供に四年も付き合ってくれる真矢さんには、本当に感謝している。


「あ、てめっ」

「あはは、真矢さんも手紙流そーよ。元ヤンの看護婦さんに出会いをーって」

「うるせえ黙って寝ろクソガキが!」


 かけ布団をがばっと被せられて、私はけらけらと笑う。

 タバコを咥えたままの真矢さんが頭を撫でてくれて、優しい声で言った。


「体治ったら海でも何処でも連れてってやんよ。だからさっさと寝とけ」

「……うん、ありがと」

 

 頭まで被って、聞こえるか聞こえないかってくらいの小さい声で言ってやった。


 良かった。

 ちゃんとありがとうって言えて。


 そう思ったら嬉しくなった。そのまま暖かい感情を胸に、私は眠りについた。











「……来ちまった」


 秘密基地。

 夏の日照りは厳しく、昼間は特に殺人的だ。コンクリートから立ち上る陽炎が余計に暑さを実感させた。


 つまりは、バカみたいな真夏日なのだ。

 夏休み初日だと言うのに、外は人気がなかった。そりゃそうだ。誰が好き好んでこんな炎天下を歩くんだ。いるとしたら仕事で仕方なくか、日に焼けたい奴か、とにかく遊びたい子供か変態くらいである。


 俺はどれにも当てはまらないけど。


 日差しのせいで熱くなった瓶をカバンから取り出した。

 中にはルーズリーフを折った紙片が入っている。何時間もかけて書いたボトルメールの返事だった。


「何やってんだろうな、マジで。届くわけないっつーのに……」


 でもどうしても、気になった。

 面倒臭がりだったはずの俺が、どうしてこんな事してるかは自分でも分からない。ただなんとなくっていうのが大部分で、理由を説明しろと言われても困るのだ。


 言い訳染みた独り言に恥ずかしくなって、俺は思い切って瓶を投げた。

 ここまで来て、返事まで書いて何を言ってるんだ。やると決めたらさっさとやればいいんだ。グダグダ言っても仕方がないだろ、俺。


 瓶は水飛沫を上げて着水した。

 波はほとんど立ってないけれど、瓶はどんどん沖へと流されていく。それをぼうっと見つめたまま、俺は見えなくなるまで見送った。


 完全に見えなくなってから、俺は秘密基地を後にした。

 夕方に差し掛かる時間になっても、日差しはあまり変わらない。蝉時雨は相変わらずうるさいし、陽炎はまだゆらゆらと揺らめいている。違いと言えばカバンが少し軽くなったくらいだ。その分、胸につかえていたモヤモヤも少しは晴れたのかもしれない。炎天下の中で汗まみれになってニヤついてるのはそのせいだろう。


「ま、いいか」


 うん。

 いいのだ。

 したいから、返事したのだ。届くかなんて些細な問題で、一種の自己満足みたいなもんだ、これは。



 それでも何故か、また手紙が届く気がした。

 それがどうしようもなく、わくわくして仕方がなかったのだ。

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100通目、最後の手紙 Ryoooh @Ryoooh99

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