マリア

アリクイ

エピローグ

 今、とてつもなく大きな歓喜と興奮に包まれている。もしもこの感情を正確に言い表すための言葉を探そうとすれば、冬の夜空に輝く星々を数えるよりも長い時を要することだろう。しかし一方で、私をこのような喜びの渦に巻き込んだその原因を示すことは実に容易い。ベッドに横たわる愛しきマリア。彼女こそが私に幸福をもたらす者。否、幸福そのものである。


 私がマリアと出逢ったのは、五つの頃だ。流行り病で両親を亡くして祖父母の住む村にやってきた彼女は、持ち前の愛嬌で村の皆から愛されていた。勿論、私も例外ではない。当時の私は元より引っ込み思案な性格であったのに加え、村は年寄りばかりで周りに同年代の子供もいない程の廃れよう。その為、他の村や町で暮らす子供たちのような年相応の交友関係を築くこともなく、一人で塞ぎ込みがちであったことを今でも覚えている。そんな私を「村の遊びを教えて欲しい」と言っては外に連れ出し、屈託のない笑みを浮かべる彼女に対して、いつしか幼い恋心を抱いていたのである。


 それから月日が経ってそれぞれが村の仕事に加わるようになると、顔を合わせる回数は途端に少なくなった。だがそれでもマリアに対する想いが薄れることはなく、寧ろ日に日に女らしくなっていく彼女により強く惹かれるようになっていった。あの娘が欲しい。彼女と契りを結び、交わりたい。そして両親や村の大人達がそうしたように子を為し、二人の結び付きを永遠のものとして後世に残したい。そんな欲望を自らの内に留めることが出来なくなった私は成人を迎えた収穫祭の日の夜に彼女を呼び出し、遂に思いを告げた。


 ……しかし、マリアは首を横に振った。曰く、数年前から別の者との縁談が決まっているのだと。これは後で知ったことだが、相手は数年前から定期的に村を訪れていた商人であった。それから程無くして彼女は村を去り、私の長かった恋は終わりを迎えることとなったのである。


 しかしそれから十数年経った今、マリアは私の元にいる。あの寂れた村でもなければ彼女を奪っていった男の元でもなく、この私の元に。

 未だ覚めやらぬ歓喜の中、私はベッドに近付くと、マリアの目隠しを解いた。大きく開かれた瞳孔がこちらを捉えると、猿轡の奥から漏れる呻き声が一層大きくなる。


「やぁマリア、久し振りだね」


 当然、まともな返事など得られる訳もない。それでもかつて愛した女性を前に、語りかけずにはいられない。哀れな男の性だ。


「あれから元気にしていたかい……私はね、あの頃と変わらず狩りにばかり出ているよ。ははは、時代遅れだと思うだろう?でも、街に降りる気にはどうしてもならなかったんだ……私は君と違って不器用だからね」


 マリアが拘束から逃れようと手足をばたつかせ、枷とベッドを繋ぐ鎖がぶつかり合う音を響かせる。だが私は意にも介さず、言葉を紡ぎ続ける。


「君はいつの間にか母親になっていたんだね、驚いたよ。きっと優しくてしっかり者の君のことだから、子供にも愛されていたんだろうね……結局、こんな事になってしまったけれど」


 床に転がった大小二つの死体に視線を移す。いずれも首筋や腹部が食い千切られ、飛び出した中身が床を赤く染めている。きっとマリアが食べてしまったのだろう。屍鬼病が蔓延して以降、幾度となく似たような光景を目にしてきた。


「とにかく、これからの話だ……まずは身体を綺麗にしようか。あまり言わないでおこうと思ったけど、暫く水浴びもしていないだろう?」


 部屋を満たす強烈な血と臓物の臭いに混じって漂う腐臭さえもマリアから放たれていると思えば花畑のそれと比べて遜色ないが、少なくとも生前の彼女ならこのような状態を決して良くは思わなかっただろう。

 私は一度屋敷を出ると、裏手の井戸で水を汲んだ。道中で屍鬼と化した者と遭遇することもあったが、対処法を知る私にとって単体で現れるそれはもはや脅威ではない。音で注意を逸らして後ろから頭に石を叩きつけると、すぐに大人しくなった。死体からひと切れの肉を剥ぎ取りバッグに詰めると、私は再びマリアの待つ部屋へと戻った。


「さて、まずは顔を拭こうか。どうか暴れないでおくれ、君の為なんだ……よしよし……」


 濡らした布で拭うと、赤黒く汚れた肌が本来の色を取り戻していく。顔、腕、足……衣服から露出した部分をひとしきり拭き終えると、次は彼女の状態を起こしてドレスに手を掛けた。

 片側の枷を外して衣服の袖から腕を引き抜き、再び枷を嵌める。片側が終われば、もう片側を。たったそれだけの些末な動作ではあるが、完遂にはかなりの時間を要する。屍鬼病は感染力が高く小さな引っ掻き傷からでも感染するため、どうしても慎重にならざるを得ないのだ。

 神経を磨り減らしながらも無事に作業を終え、彼女の胴を覆うのみとなった布を降ろす。かつての私が熱望し、しかし決して触れることの叶わなかった豊かな二つの膨らみは、時の流れと腐敗により一層柔らかに変化し、青白く変色した死斑混じりの皮膚は彼女の黒い髪と相まって、この世の物とは思えぬ艶かしさを醸している。気が付けば、私の陰茎はいきり立っていた。

 今この場で愛するマリアと一つになることを咎める者は、もう誰もいない。彼女の夫となった男も、それに仕える使用人達も、そしてマリア自身も、みな屍鬼病の訪れにより命を落とし、知性なき怪物にその身を落としてしまった。


「あぁ、マリア……私のマリア……!!」


 理性の檻から解き放たれた私はマリアの乳房に手を伸ばし、乱暴に揉みしだいた。たわわに実る熟れた果実は私の指の動きに合わせて形を変え、その柔らかな感触によって私の興奮を増幅させる。

 彼女が貪欲に命を貪る屍鬼であるように、私もこの地獄のような世界の中で、彼女の肉体を貪欲に求める獣と化したのである。

 ひとしきり感触を味わった私はその場でズボンを脱ぎ捨てると、遂に悲願を果たすべく彼女をベッドに押し倒した。猿轡越しに発せられる声が一際大きくなるが、そのようなことは一切お構いなしにドレスのスカートを捲り上げて下着を剥いだ私は、露わになった秘裂に自らの物をあてがい、一息に突き入れた。


「もう離さない……ずっと、ずっとだ……!」


 長年に渡りマリアに対して募らせてきた恋心、届くことの無かった思いに対する未だ薄れることのない執着、彼女を娶ったあの商人に対する嫉妬……幼い頃より胸の内に堆積した全てを清算すべく、ただ無心で腰を打ち付ける。その度に彼女の肉が絡みつき、体の芯を揺さぶる快楽が、二人が今まさに一つに混ざり合っているのだということを私に認識させる。そして暫くの後、私は彼女の中で絶頂に達した。


「はぁっ、はぁっ……」


 彼女の奥に注がれた精が溢れ、シーツに落ちる。その様を眺めながら、私はまるで潮が引くように自身の内にあったはずの情熱が失せていくのを感じた。

 おかしい。マリアは私にとって最愛の女性であり、荒廃したこの世界において彼女の存在は救いである。だとすれば彼女と交わった今、この精神は満ち足りた幸福の中に在るはずだ。であるにも関わらず、なぜこんなにも空虚なのだ。こんなことはあり得ない。あってはならないのだ。


 私は再びマリアを犯した。先程の出来事はきっと何かの間違いなのだ。もう一度彼女と身体を重ねれば、今度こそ満たされるに違いない。頼む、頼むからそうであってくれ。先程とは一転、懇願するように腰を振る。しかし何度マリアと交わり精を注ごうとも、安寧が訪れることはない。


「……畜生、畜生!」


 本当は理解していた。私が求めていたのは、記憶も知性も、そして命すらも失った目の前の動く肉塊などではない。その名が示す通りに優しく美しい、まさに聖母のような女性であった彼女に愛されることだったのだ。

 幾らこの化け物に生前のマリアを重ね、真なる願いを肉欲で上塗りしようと試みたところで、もう二度と私に救いの日は訪れない。


「すまない……私は……私は……!」


 彼女と同じく町で暮らしていれば。村への便りが途絶えた時、異変に気付くことが出来ていれば。屍鬼病のことを知ったあの日、すぐに町へ降りていれば……。

 後悔に苛まれ咽び泣く私を、昇ったばかりの太陽が嘲笑った。

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マリア アリクイ @black_arikui

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