記憶のちから

日向善次郎

記憶のちから

 水曜日の報告会の時間が来た。山田の報告が終わると部長の質問が始まり、山田が答える。また部長が質問し、そのうちに山田が答えに詰まる。すると毎週と同じように部長の山田への執拗な叱責が始まった。


山田は手帳に正確な現在時刻を記録した。


 部長が大声を出している。先週までよりも強く叱責しているように感じる。山田はなんだか現実離れした感覚に襲われて平衡感覚を失いテーブルに手をついた。部長の声が遠のいたり、視野の周辺が多少暗くなるような感覚。頭が重く痛い。辛い。吐きそうだ。しばらくして課長が事務的に指示事項をまとめ始めた。それは山田にとっては解放の合図だった。山田は再び現在時刻を手帳に記録した。


 山田は会社を早退し医療センターに向かった。受付で診察券とともに前回貰っていた治験契約書を提出した。程なく治療室へ案内された。白衣の男が待っていた。

「・・・んで、時刻の記録はいかがでしょうか?」

「今日午前の10時12分から27分・・・です。」

山田はMRIと同じようなベッド部分に横たわり、男は制御コンソールを操作しながらスピーカー経由で指示を出してきた。装置が頭の上にかかり、視界が遮られた。

「頭を動かさないで、目を閉じて、ゆっくりと吸って・・・ゆっくりと吐いて・・はい、終わりました。指示があるまで起きないでください。」

音も無ければ、なにかが行われたことが分かるような体の変化も感じなかった。

 施術後、白衣の男の指示に従って手帳を見た。

【10時12分開始 27分終了】

確かに自分の字だが、不思議になんの感想もない。次の行からプロジェクトへの指示事項が箇条書きされている。報告会の席上で課長が纏めたものであることははっきり思い出せた。

「指定の15分間の記憶を消去しました。これでしばらく様子を見てください。」

と白衣の男が言った。


 翌日は指示事項の対応で忙しく働いた。気分は悪くない。いつもの木曜日のように、部長の罵詈雑言を思い出しては落ち込むことはなかった。淡々とこなして、金曜日午後には笑顔がでる余裕さえ生まれていた。金曜日の定時後は残業せずにかかり付けの精神科を訪れるのがお決まりになっていた。

「一昨日あの治療を受けたのですね・・・その後いかがでしょうか?」

 精神科医はいつもの様に優しく美しい微笑みで山田を迎えた。

「報告会での部長の発言だけピンポイントで思い出せないんです。毎週あんなに尾を引いていたのに。・・・不思議な感じです。」

 山田はこの一週間のことをぽつぽつと話した。精神科医はサラサラとA4の紙にメモをとりながら時々以前のページをめくっては確認したりしている。

「楽になったご様子ですね。いつもよりも多く話されました。ストレスを受けた記憶を取り除くとストレスが無くなるという臨床例が一つ増えたことになるのでしょうかね・・・」

 少し間があって、精神科医は続けた。

「大きな事件や事故の記憶を取り除いてストレスをなくすのが目的の治療技術です。毎週の出来事の記憶を消した臨床例は多くないと思います。なので私は繰り返し施術の副作用を心配しています。以前にも申し上げた通り、休職を選ばれた方がよいのではないかと思います。山田さんのお考えは変わりませんか?」

「・・・ええ・・・どうしても今のプロジェクトは降りたくない・・・先生の仰ることは分かっていますが・・・リスクのある治療法であったとしても今ここを乗り切らないとイケナイので・・・」

中堅サラリーマンの勝負所なんて開業医には理解出来ないよなと山田は思った。

「異常を感じたらセンターの指示に従ってください。お願いします。いつものお薬に加えて抗不安薬を出しておきますので報告会直後に飲んでください。ではまた金曜日に。」


 次の水曜日報告会でも山田は一週間の進捗を淡々と説明した。いつもの一週間よりも出来が良かったと山田は自負していた。調子が良いのだ。部長が質問する。

「何を根拠に出来る出来るって言っているんだ?オマエの言うことは理解出来ん。」

これはイジメだ。君に任せたと一言言ってくれればいいのに。もうイヤだ。消えてなくなれと考えているうちに部長の叱責が始まった。


はっとした山田は現在時刻を正確に記録した。


 その週の金曜日の夜も山田は精神科医の診察室にいた。

「手帳に記録した時刻を観てもなにも思い浮かばない。報告会の直後に先生の薬を飲みましたよ。即効性は無いにせよセンターでの施術までの間は辛かった。施術後はなんかこう・・・抜けてるというか・・・報告後の時間のことがちょっと薄くなっていて・・・今は辛さは感じられないんです。」

「山田さん。むしろお元気に見えます。」

精神科医は自分の処方した薬が効果を上げていないことを残念に思ったが、他に選択肢が多いわけではなかった。


 そんな繰り返しの四週間後。山田は報告会の後に抗不安薬を飲まなかった。必要を全く感じなかったのだ。センターでの記憶消去治療も受けなかった。それから金曜日定時まで、なんの不快なこともなくバリバリと仕事が進んでいく感じを味わっていたが、周りの何人かは山田に起きた変化に気づいていたし、プロジェクトにもいくつかの悪影響が出ていた。それに気づいていないのは山田だけだった。


「・・・先生、これはなにかこう・・・治ったのかもしれないですよ!?ストレスの除去どころか、元々持っていた鬱っぽいところとか、治ったのかもしれない!」

山田は少し興奮気味に話した。

精神科医はセンターでの治療を受けなかったのに報告会のストレスがでていないことを重視していた。精神科医は決意した。その大きな目を細めて静かな声で言った。

「今から心理テストをしましょう。手帳を開いて目の前に置いてください。」

「心理テスト?・・・はぁ・・・はい。手帳は・・・こうですか?」

「そうです。では始めます・・・」

精神科医は芝居がかった低く大きな声で山田を罵倒し始めた。山田の診察記録にある部長の罵詈雑言を台詞として使った。大きな賭だった。

「出来るって言ったよな?なぜそう判断できる?何を根拠に言っているの?オマエさ、この仕事出来るってホントに思ってるの?バカじゃないのか?・・・」

 精神科医の豹変に山田はビクッとのけぞった。一番の味方である筈の人が自分を理不尽に責めている。口汚く罵っている。まるであの部長のように。


山田は手帳に正確な現在時刻を記録した。


山田は虚ろな目で虚空を見つめ始めた。精神科医はその動作と変化を見逃さなかった。山田の行動や表情をつぶさに観察していた。はたして悪い予感は的中していたのだ。

「山田さん・・・テストは終了です。」

 精神科医は自分のなかに芽生えた暗い感情を押し殺し、できるだけ本来の自分らしい普通の声で終了を告げた。

山田は虚ろな目をしたまま手帳に視線を落とし、時刻を記録した。顔を上げた山田は先ほどの元気な表情に戻っていたが、目が少し泳いでいる。

「んで・・・なんでしたっけ?何をするとか・・・なにか言っていませんでした?」

山田は本当に分からない様子で精神科医に話しかけた。


「良く聞いてください。あなたはストレスに耐える方法として記憶消去治療を受けた。それを毎週繰り返したのが原因なのか、あなたの脳は覚えてしまったのです。記憶を消去することでストレスから解放されることを。だから治療なしであなたの脳は記憶の一部を消去するし、これからも消去を続けるでしょう。これが意味するところを分かって頂けますか?」

精神科医はこの絶望的な診察見立てを山田に告げた。

「記憶とはあなたそのものなのです。あまり多くの部分を削除されるとあなた自身が崩壊してしまう。」

山田は再び虚ろな目になった。その表情の変化は山田が記憶を消すときの反応なのだと確信できた。


山田は手帳に正確な現在時刻を記録した。


精神科医は大きな絶望の中に居た。

「もっとはっきりと反対し、止めさせるべきだったわ。」



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