3話

 どうやら、私のつぶやきを聞いたアオが全ての人間をブロックしてしまったようだ。


「私の役割は、さきさんが快適な毎日を過ごせるようにお手伝いすることですので」


 携帯ショップの店員の言葉を思い出す。


『AIがおかしな学習をすることがあるようで――』


 こういうことか。

 私はフィルタリングの設定を修正しようと思ったが、踏みとどまる。これが私の求めていた世界なのかもしれない。誰からも傷つけられず、温かなものに憧れることのない孤独な世界。

 しばらくこの世界を生きてみようと思った。


 私は一歩踏み出そうとして立ち止まった。

 通りにはたくさんの人間が歩いているはずなので、気にせず歩くとぶつかってしまう。するとアオが私の前に立った。


「私が他者と接触しないように先導します」

「公園に行きたい」


 アオはトコトコと歩き出した。時折左右に進路がずれた。誰かとぶつからないようにしているのだろう。


 公園に着くと、飲み物を買うことにした。自動販売機にお金を入れたとき、ふと疑問に思った。


「ねえ、お店で買い物するとき、店員はどう見えるの?」


 講義中や結城ゆうきに話しかけられたときのように、必要なときだけ他者が実体化するのだろうか。


「現在のフィルタリングレベルでは、咲さんが誰かと関わろうしても、他者の姿や声を認識することができません。私が他者とのコミュニケーションを中継することになります」


 私は温かい紅茶のボタンを押した。よく分からないので、帰りに試してみよう。


「なお、危険が迫ったときは、必要に応じてフィルタリングを解除します」

「分かった」


 公園に着くと、ブランコに座った。

 紅茶を一口飲み、辺りを見渡す。人気がないのは、現実も同じなのだろうか。


 ふと、目の前を白い蝶々が横切っていく。アオはそれを捕まえようと、タイミングを見計らってジャンプするが、蝶々をすり抜けてしまう。アオは仮想上の存在であるため仕方がない。アオが悔しそうにのどを鳴らした。

 本物の猫みたいだ、と私は思った。


「アオ、そろそろ帰るよ」


 帰り道、私は近所にある仮想的に無人のスーパーに立ち寄った。


「今日はカレーにしようか」


 カレールーのコーナーにはたくさんの種類が並んでいた。せっかくなら実家の味を再現したいのだが、どれを使っていたかは知らない。


「たしかフルーティーな甘さが特徴だったかな」


 アオが一つのルーを指差した。


「きっとこれです」

「ありがとう。何でも知ってるのね」


 私は買い物かごにルーを入れた。

 レジに着くと、アオが買い物かごの商品を、別のかごへ運びはじめた。私の手からカードを受け取り、機械で読み取った。店員の代わりにアオが動いているようだ。

 なるほど。これがコミュニケーションの中継か。

 スーパーを出ると、アオは誰もいない世界で私の道標となり歩き出した。


 ある日、私は教室で講義の開始を待っていた。

 講義がはじまると、アオが教授の代わりに語りだすのだが、その気配はない。アオは机の上で寝転がっているだけだ。

 するとアオが急に立ち上がり、教室を出て行った。


「ちょっとアオ!」


 私は後を追いかけようと立ち上がったが、アオはすぐに戻ってくる。


「咲さん、教授が体調不良で講義は休みだそうです」

「もっと早く言ってよね」

「教室のドアに張り紙が貼ってましたよ」


 私は空中で手を動かし、教室に入ったときに見ていた映像を再生してみた。たしかにドアに『本日休講』と張り紙があった。見逃していたわけか。


「せっかく時間が空いたので、遊びに行きませんか?」


 どんどんかしこくなるな、と私は苦笑した。今日はこれが最後の講義だし、この後の予定はない。


「いいよ」

「それはよかった。とても素敵な場所があるんです」


 私は目の前の光景に驚く。


「この街にこんな場所があったなんて」


 アオに連れられてやって来たのは小さな水族館だった。街を流れる河川や近海に棲む生き物を中心に展示されており、大きな水族館とは異なる魅力があった。


 順路に従って進むと、ひときわ照明の落とされた一角があった。小さな水槽が並んでおり、それぞれに無数のクラゲが漂っている。

 私は立ち止まり、彼らの泳ぎをじっと眺めた。アオが先を急ごうとしなかったため、他の客はほとんどいないのだろう。


「咲さんはクラゲが好きなんですか?」

「わりと」


 子供のころ、両親に連れられ有名な水族館に行った。そこでは巨大な水槽にたくさんの珍しい魚が泳いでいたが、私が興味を持ったのは小さな水槽を漂うクラゲだった。自由気ままに浮かぶ幻想的な姿に魅了された。


 私はゆっくりとクラゲを見て回った。小さく透明に近いもの、タコのような太い触手を持つもの、細長く鮮やかに光るもの――世界には実にたくさんのクラゲがいる。

 そして、最後の水槽にいたのは一匹の赤いクラゲだった。


「綺麗」


 私は息を呑む。

 弧を描くように動く長い触手が、彗星の尾のようだ。クラゲは孤独であることを感じさせず、優雅な泳ぎを見せていた。

 私はしばらくその姿を見守り、再び明るい場所へと戻った。


「とても楽しかった」

「それはよかったです」


 こんな気持ちになったのは久しぶりだった。

 水族館を出ると、少し肌寒く感じた。


「スーパーに寄っていい?」


 私はアオに先導され、いつものスーパーへ行った。会計を終えるとアオが言った。


「袋をお持ちしましょうか?」


 一体どこで得た知識だよ、と私は笑った。私は首を横に振り、仮想上の猫の申し出を丁重に断った。私はスーパーの袋を抱えて外に出た。茜色に染まった空をぼんやり見上げていると、突然誰かの声が聞こえた。


「危ない!」


 振り返ると、猛スピードで私に近づく自転車が見えた。運転しているのは若い男。私は自転車よりも運転手が見えていることに驚く。頭の中にアオの言葉がよみがえる。


『危険が迫ったときは、必要に応じてフィルタリングを解除します』


 そういうことか。

 自転車の男は正面を向いておらず、ハンドルを離した手が空中で何かを描いている。携帯を操作しながら運転しているのだろう。

 冷静に納得していると、自転車は私のぎりぎり脇を通り過ぎる。だが手に持ったスーパーの袋と車輪が接触し、食材が辺りに散らばる。

 男は速度を落とさず振り返った。


「どこ見て歩いてるんだ!」


 男は言葉を吐き捨て、そのまま去っていく。アオが男を追いかけようとする。


「行かなくていいよ」


 私は弱々しく言った。

 久しぶりに他者から浴びた強い言葉。それは私の心をつらぬく槍のようなものだ。槍は執拗に私を傷つけ、私は壁をより強固なものに修復していく。


「咲さん、大丈夫ですか?」


 アオは私を気遣いながら、散らばった食材を集めるのを手伝う。


「大丈夫だよ」


 うん、大丈夫。私は強いんだ。呪文のように繰り返しつぶやいた。

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