復興の火

井桁沙凪

ひとの町

52Hzの鯨


 私、雪村ゆきむら希望ほーぷは人生に絶望していた。

 絶望の始まりは、二年前。十二歳の誕生日。優しくて優しい幸一さちいちくんがお風呂よりも熱い高熱を出した翌日、東京というひとの海に旅立った日。

 私はいまでも、クラスメートにいびられたり自分の才能に振り回されたりした夜などには、幸一くんが人波に呑まれて口をはくはくと開けたり閉じたりしながら、綺麗だけれども役には立たない銀細工の舟みたいに沈没する様子を曖昧な悪夢にみた。

 ほんとうの幸一くんなら、きっと上手く人波をやり過ごせるはずだ。というか、透けるはずだ。もうこの世のものではなくなった幽霊船みたいに、幸一くんはそこにあるようで、ないから。だから私の悪夢は、ひとの夢がそもそもそうであるように、まったく独りよがりなものだった。幸一くんを心配する気持ちや、心に湧き上がる不安や恐れが、私に正しくない悪夢をみさせた。

 そういうとき、私は水を一口飲んでから眠った。今度はどうか悪夢をみませんようにと、輪郭を持たない祈りを混ぜこんだ水を一口だけ飲んだ。それは私だけの秘密の儀式だった。夜というのは、秘密とセンチメンタルに、ワインとチーズみたいによく合った。


 海と山に囲われて、普段はとても静かなのに、夏の四日間だけは日本一賑やかになる町。阿波踊りの誕生地である徳島県徳島市に、おぎゃあおぎゃあと希望は生まれた。

 ここはお母さんの地元だ。私と、私と六歳違いの兄である幸一くんは、腹違いの兄妹だった。私のお父さんは日本各地を地下から空から行ったり来たりする証券マンで、体の弱い妻と、まだ物心ついたばっかりだった幸一くんのどうしたって目につかない所で私のお母さんと出会い、恋に落ちた。そんな身勝手さと都合のいい愛で育まれた命が、希望。なんだか泣き笑ってしまいそうだ。できすぎてる、悲劇。ヒロインは私で、主人公は幸一くん。私を取り巻く悲劇なんて、気取ってると鼻で笑われる程度のものでしかない。

 幸一くんの母親は私が生まれた年に心臓の発作を起こして亡くなった。ちなみに心臓の病気っていうのは、あくまで統計的にだけど、遺伝子からくる要素が強いらしい。母親の親戚に頼れそうなひとが数少なく、かといって自分の身ひとつで生きていけるほど長くを生きていなかった幸一くんは……ほんとうに、どんな想いだったんだろう。優しくて優しい幸一くんは「まだ六歳だったんだ。なにも分かってなかったよ。お母さんがいなくなってしまったから、お父さんのところに行く。それはとてもすなおで、違和感のない物語の進み方じゃない?」なんて優しい声音で話してくれたけれど、その話もまた、優しさのための嘘だったんだろうといまなら分かる。

 半端に優しい私と違って、幸一くんは頭がよくてお話も上手な、真性に優しい少年だった。母親の不安げな様子や、妹ができた年に心臓が大きく鼓動してしまったその意味に繋がる真実をなんのいびつもなく察していたはずだ。そのうえで、なにも知らない私になにも悟らせないよう、注意深く接してくれていたのだ。

 私はそのことを自覚するたびに、心臓にタイマーがついたような気持ちになった。カチ……コチ……と関節が鳴るような音を立てて、秒ごとに時を刻んでいく時限式のタイマー。いつカウントが0になって、そうしたらどんな目にあっちゃうのかは分からない。

 私が幸一くんの優しさに阻まれてなにを知る機会も与えられず、だからとても幸せに過ごせていた幼年時代を咎めるように、もう決して取り返せない時間を取り返そうとするように、カチ……コチ……と、わざとらしく大きな音を立てつづけるタイマー。この音が悪夢をみた夜に聴こえたりしたらもう最悪だ。私はむせ返るような悪意と澄んでいない黄色い声とで籠りきった教室に、無様な隈を薄ぼんやりと浮かべながらご入場しなきゃいけなくなる。

 そういえば、このタイマーが鳴りだしたのも十二歳の誕生日からだ。希望の絶望の始まり。『最』が更新されていく、最悪な日々の終わることのない始まり。

 布団の上端をぎゅぅぅと握った。下の階ではお母さんがテレビを観ていた。或いはつけっぱなしにして、ソファの上で穏やかな寝息を立てていた。

 さっき悲鳴をあげながら飛び起きたときに網戸にした窓から、潮の香りを含んだ夜風が吹いてきていた。鼻腔の奥でぬるま湯の水滴が弾んでいるような、心地いい感触がする潮の香り。白のレースカーテンがゆらゆらと幽霊が纏っているワンピースの裾みたいに揺れていた。そこから伸びる青白い足は濡れていた。この幽霊はきっと、海から上がってきたのだろう。

 瞬きをしたら、幽霊は幸一くんになっていた。

 肩を上下させて、外気に晒された途端に白いもやになってしまうぐらい熱い息をハァ、ハァ……と手負いの獣みたいに、苦しげに漏らしていた幸一くん。毛先が肩をつつくぐらいに伸びたたおやかな黒髪と、線の細い後ろ姿のせいで、まるでいまの私と同い年ぐらいの女の子がぐらぐらと中ほどから手折れそうな花みたいに突っ立っているように見えた。

 くっ、と酸素を肺に蓄えて、網戸を開けた。ガガガッという音が、この世で一番まっさらな骨を削っているみたいだった。だってその音が夜の空気を震わすたびに、幸一くんはつらそうに膝を折ったり、低く呻いたりした。

 あの夜と同じだ。

 私は夢とうつつの狭間にいるのだ。かっこう悪い言い方をすると、つまり、寝ぼけているってこと。

 私は幻を無視しようとした。見たくないという気持ちはもちろんあったけれど、見続けたいという気持ちも同じぐらいにあった。私は葛藤していた。結局、薄目を開けて、悲しいからとても美しい幻を、いつ消えてもいいんだからと心の中で言い訳しながら、恐る恐る見た。

 夜風に冷やされたコンクリートで床を塗り固められた物干し台に裸足のまま出たら、現実の力が夢の曖昧さを凍らして、砕いて、掃いて捨ててしまうような気がした。私は布団の中でじっとしていた。

 幸一くんはちょうど物干し台に出て、室外機の上に幸薄そうな手相が刻まれた手のひらをつき、白木の手すりのはるか向こう側に広がる暗い海を眺めだしたところだった。

 あの夜の私は幸一くんの肩にブランケットをかけて、か弱い心臓が鼓動する側で一緒に海を眺めた。

 幸一くんはよく、大洋のどこかの海を泳いでいる孤独な鯨の話をした。

「いまもきっと、この海のどこかで歌っているんだろうね」

 私は物も言わずに、ただ頷いた。じつを言うと、こわかったのだ。

 幸一くんのカラダはわざわざ触れなくても分かるぐらい熱くなっていた。冷凍枕は三十分も経たないうちにただのゲル状の枕になっていったし、近くに置いておいた水差しは夏場の日向に晒しといたようにたちまちぬるくなった。

 でも、当の幸一くんはとても涼やかそうな見た目をしていた。頬は青白く、唇は紫で、瞳は病熱に浮かされた少年特有の重たい光をたたえていた。心の琴線をくすぐるような素敵なテノールの声が澄みすぎた夜の空気によく通った。じっと海を見つめながら突っ立っているその姿は、まるで満身創痍の状態で強敵に戦いを挑まんとする賢者みたいにみえた。

「52Hzヘルツなんだよ。世界でただ一匹だけ、52Hzで歌っているんだ。だからシロナガスクジラやマッコウクジラ……その他のどんな種の鯨からも見つけてもらえない。世界で最も孤独な鯨なんだ。彼はきっといまも、この海のどこかで、歌っている」

「……彼、ってことは、その鯨は雄なの?」

 私の頭に手が置かれた。流れ星が不時着したみたいだった。幸一くんの命はいま、激しく燃えていた。それは刹那の熱で、もうすぐすべては冷えて、収束する。そんな恐ろしい予感に、まるで寒いみたいに、ぶるり、と震えた。幸一くんはハァ、ハァ……と苦しげに、命を燃やすための酸素を肺に送っているようだった。

 ──幸一くんがつらいのは、つらいな。まるで私たちの心が見えない糸で繋がっているみたいだった。

 そのときまで、私はその糸を〝家族の絆〟と呼んでもいいものなんだと思っていた。じっさいは病気のひとの静脈血みたいにどろどろで、他人が指をさしてわざとらしくひそひそ話をしてても誰も咎めないぐらい、分かりやすい罪で織られたとても汚い糸だったのに。

 幸一くんが笑った。可笑しそうな振動が糸を伝って、私の心に悲しく届いた。

「いいや。誰にも見つかっていない鯨の性別は、誰にも分からない。ノゾミは、賢いね」

 私はまんまと照れて、柔らかくなった雰囲気をごまかすようにじっと海を眺めた。

 幸一くんは「ホープ」ではなく「ノゾミ」と私を呼んでくれた。「お母さんとお父さんがつけてくれた名前だから、違う風に読んでもらうのはちょっとばかし申し訳ないかもしれない」ハーフタレントが流行っていた頃、外人風の名前と東洋人らしい容姿とのちぐはぐ加減に恥ずかしさを覚えて自分から「ノゾミ」と呼んでくれとお願いしたくせに、いざ呼ばれるとなるとなんやかや理由を並べてうだりだした私に「じゃあ、僕とノゾミ、二人だけの秘密の呼び名だ」と、幸一くんはお兄ちゃんらしく決めてくれた。

「幸一くん」は公的な呼び名で「ノゾミ」は秘密の呼び名だった。家族の絆にどろどろの不純物が含まれていたと分かったいまとなっては、幸一くんがどんな想いで私を……お母さんとお父さんがつけた名前ではない「ノゾミ」と呼んでくれていたのか、もう、想像してみるだけでめまいがした。

 いつもこの世ならざる者みたいに優しくて、底が見えないぐらいに優しくて、本心を決して覗かせてくれないぐらいに優しさの膜が厚かった幸一くんのことだ。きっと、海よりも深くて、枝分かれした海中洞窟よりも複雑な考えがあったに違いない。そして私には、そんな幸一くんの考えを探索しつくすことができなかった。

 私は半端だ。もっと言うと、私の優しさが半端だ。稚拙ちせつで、浅い、何者にもなれなかった私。私は完ペキじゃなかった。私は、半分だ。

 私は幸一くんと、半分しか同じじゃなかった。

 意識が夢に引き込まれてぼんやりしてきた。幸一くんの声を聴いていたら余計に眠たくなってきたようだった。

「僕は、鯨と自分を重ねていたんだ。だから、自然と、鯨を雄だと思い込んでいた」

 幸一くんの声がまるで海中で響く鯨の歌みたいに、頭蓋に強く反響した。

「孤独な彼が仲間に見つけてもらうために、いまも必死に、それでも歌いつづけているんだって考えると……なんだか勇気が、湧いてくるんだ」

 幸一くんの呼吸のリズムと、夜風が激しくなってきた。白のレースカーテンが波しぶきみたいにはためいた。

 幸一くんが、水を与えられた白百合のようにしゃんと背筋を伸ばした。どこかから鯨の歌が夜風に乗って運ばれてきたように、私の鼓膜がピィィンと張った。

「ノゾミ」

「なぁに?」

 幸一くんが、霧笛のように細く高い音と共に息を吸った。

「ごめんね」

 私はきっとポカンとしていた。悪魔の翼が思いきり羽ばたくような勢いで、私の長い黒髪が夜風にぶぅわっと舞い上がった。あんまりに凄い勢いで海のほうに引っ張られていくものだから、私は少し笑ってしまった。

 ちょうど頭の右側を手で押さえたところで、幸一くんが言った。小雨に濡れたセミの翅みたいな手触りをした黒髪の表面が、鼓動の速度で冷たくなっていった。

「僕は明日、この町を出る。それで、もうえいえんに戻ってこない」

「ど、どういうこと?」

 幸一くんは応えずに笑んだ。

「最後に、秘密を明かそうと思う。……ああ! でも、じつを言うとまだ迷ってるんだ」

 私は啞然として、口が利けなかった。どの季節も真夏の真午の陽炎みたいに揺らいでいた幸一くんが、この町からほんとうにいなくなってしまうこと。また戻ってくるから、という優しい嘘さえもつかなかったこと。秘密というのは、幸一くんがじつは宇宙人で、故郷の惑星に帰るからもう地球には戻ってこれないんだよという、案外あり得そうなことなのではないかという、変な妄想。だって幸一くんはほんとうに、この世の者ではないみたいに美しかった。

 幸一くんが咳をした。仔犬の鳴き声よりも軽い咳だった。

「幸一くん、熱が上がっちゃうよ。早くお部屋に戻ろうよ」

「いいんだ。これは、上がれば上がるほどいい熱なんだ。進化のために古い細胞が壊れていっている証拠だ。ノゾミも高校とかで勉強したら分かるよ。ああ、でも、ノゾミは文系を選ぶのかな。ノゾミは本を読むのが好きだものね」

「どうでもいいよ。ねえ、幸一くん。変な事ばっかり言ってさ、きっと熱で頭がおかしくなっちゃったんだよ。きっとそうだよ。早く、寝よう。枕を取り替えたげるから」

「いや、いい。まだ海を眺めていたいんだ。僕は、ここから眺める海が好きだった。この町は悪くなかったよ。四日間の狂騒にも、僕はまったく蚊帳の外だったけれど……うん。それでも、ぜんぜん悪くなかった」

「もういいよ! そんな、ほんとうにどっか行っちゃうみたいなことを言わないでよ」

 頭の上に乗っかっていた流れ星がぱっかりと割れて、今度は私の両肩に転げ落ちた。

「それでね、ノゾミはなにも悪くないよ」

 私はぽろぽろと泣いた。じゃあ、どうして行ってしまったの。

 幸一くんが、また海を見た。哀れ、なにも知らない私は、まるで絶滅寸前の生き物みたいに穏やかでなにかを悟りきったような表情をしていた幸一くんを、ぽんやりと見惚れながら見つめることしかできなかった。

「いま秘密を明かすのはやめにしよう。病気で体が弱っているときに、重大な秘密を大事なひとに明かすのはよくないことだ。だってそうじゃないと、明かされたひとは明かされた秘密を憎むことも、明かしたひとを恨むこともできなくなってしまう。それは、とっても卑怯なことだ」

 それきり、幸一くんは喋らなくなった。やがて長い時間が経った。

 物干し台から部屋に戻って、私の潜っている布団に入ろうとしたところで、幸一くんの幻は少しの残滓も残さずに、まるで午前七時の朝靄みたいにふっと消えた。


 その翌日、幸一くんは町を出た。秘密を明かされて呆然と立ち尽くしている私を前に、うっそりと、不健康な心のひとみたいに笑んでから、頭をぐりりと一度、撫でてくれた。いつもみたいにお兄ちゃんらしいあの困り笑みで「ごめんね」とは言ってくれずに、ただ「さよなら」とだけ言った。線の細い後ろ姿を大きなリュックサックで隠して、どこか遠くへ行ってしまった。


 ──僕は鯨じゃない。仲間を探しに、自分の足で、ひとの海へ出ていける。


 以来、私はちゃんと秘密を憎んで生きている。こんな苦しみを味わうぐらいなら、病熱に意識を虫食いのような状態にされていたときにうっかりと明かしてくれたほうがよかったのに、と幾度も思った。でも……明かしたひと、つまり幸一くんのことを一切合切憎めないでいるという現状がこれほどつらいというのもまた事実だった。幸一くんはどちらの苦しみも残していったのだ。

 それこそが幸一くんの狙いだったんだろうか。母親から心の拠り所を奪ったお母さんに対する、長い長い年月をかけた仕返し。まるで桃鉄みたいにあっちこっちを行き来している一番目のお父さんに代わって、二番目に大切にしている私にせめてもの苦しみを味合わせてやろうという、幸一くんの暗い企み……なのかな。


 ──ノゾミはなにも悪くないよ。


 でも、そう考えるたびに引っかかった。あのときの言葉は、まるで喉元に引っかかった魚の骨みたいに取り除こうとするたびにぶしゅぶしゅと血が出るようなどうしようもない類のひっかかりになって、半端な私を苦しめた。


 私はごろり、と布団の上で寝返りを打った。また悪夢をみてしまいそうだった。明日は五回連続する内、二連続目の平日だった。はい、みなさんどーぞごいっしょに。あ、せーの。がっこーう! 私、閉口。ああ、気分が滅入ってしまう。

 畳に爪を立てて貞子みたいに這った。クラスメート曰く「長い黒髪をいつもサラサラにしてるのがいかにもって感じでヤバい」。私はまったく分からない。いったいどういうことなんだろう? 

 中学校では、大人たちが思っているよりも明確な身分制度が定着していた。韓国のことやYouTubeのことや流行のファッションのことをノリよく話せる女の子たちが強いみたいな風潮が確かにあった。

 それだって、そういうことに詳しくない子……この厄介な身分制度に当てはめて言うところの「弱い」女の子たちにだって、快適に生活する権利はあって、実際にそうできている子もいた。

 自然界でもそうであるように、力の無い動物は分相応な生き方をすればいいのだ。木のうろに隠れたり、不穏な気配を察知したらすぐに逃げたり。不必要に目立ちさえしなければ、彼らの思う幸せな生き方が存分にできた。ときには猛烈に怒りたくなるぐらい意地悪な所業をする神さまだって、それぐらいの権利は与えてくれていた。

 だから、私が問題だったのは……。

 私は膨大な量のため息をついた。部屋の入口で立ち上がり、裸足のままぺったんぺったんと階段を下りた。

 私は、目立ってしまった。中学一年生のときから目立っていたのだけれど、当時のクラスにはそれほど危ない猛獣がいなかった。二年生に進級してから速攻、意地の悪いハイエナたちに連続噛みを喰らってしまった。弱くて、そのくせ目立ったせいだ。

 私は、生物学や宇宙学に親しみがあった幸一くんを慕っていた影響からなのか、そういう、世の中の流れ的なことにはまったくの無頓着だった。面白い進化を遂げた生き物の話を聞いて笑い、宇宙の広さについて質問した後になんだかこわくなり、絶滅した動物に思いを馳せて泣く私を私は気に入っていたから、それでいいと思っていた。なんならいまも思っている。よくなかったのは、だからやっぱり、ハイエナのようなクラスメートたちでしかなかった。

 もしも私と同じような状況に置かれて苦しんでいる子がいたとしたら、私はその子たちに「悲しいね」と共感してあげたい。そして「どうにもならないね」と背中をさすり合いながらすきなだけ泣きたい。私がいままで何度も見、耳にしてきた見当違いの肯定なんてしたくなかった。

 だって、どうしようもなくつらい想いをしているときに「あなたは悪くない」と言われたってなんにもならない。そんなの当たり前のことだ。だからこそいじめは理不尽で、苦しくつらく悲しいのだ。それに、もしもその人が悪かったからといってなんでも痛いことをしていいというわけでは、必ずしも、ない。そんな見当違いのことを言ってくる大人たちが万が一にでもいたら、あなたが傷つかないためにも、そっと透過してしまっていい。これは絶対に、私を信じてくれていいことだ。


 目立ったのが悪かった──そうじゃない。強いて言えば……いけなかったんだ。


 夜特有の隠したがりな闇が押し寄せてきて、また、ふいに泣きたくなった。

 教室の通路にばらばらにぶち撒かれていた机の中身。いつものおふざけ。そうあとで彼らは言ったけれど、私にはどうしても、あの子が悲しんでいるように見えた。

 ──偽善者。

 くらり、とした。なんて、言葉の、破壊力。

 私はひとに優しくあろうとした。幸一くんの真性の優しさに憧れた。自分のことを絶滅危惧種になぞらえて、ほんとうは悲しいはずなのに、あえて傷つくために笑うような幸一くんの仲間になってあげたかった。

 でも、意識しないと発揮できない私の優しさは、所詮、半端。まがい物。偽善。大したことない、だったらいらない才能。そんな言葉で、なんとなく納得してしまえる私がつらかった。


 一階の廊下からはひとの体温の痕跡がすっかり消えていた。ドアにはめ込まれた磨りガラスに映るぼやけた光の大きさから、照明の灯っていないリビングでテレビだけが煌々と照っているんだと分かった。

 お母さんはやっぱり寝ていた。まるで投げ捨てられたマネキンみたいにだらんと四肢を脱力させた格好で、若草色のソファの上に寝っ転がっていた。ソファの前に置いてあるターンテーブルには夜の闇の中でブルーベリー色に光るワインボトルと、チーズの銀紙が幾つか散らばっていた。

 コップに水をいだ音で、お母さんがむくりと起き上がった。

「あ、あー……首、痛ぁ。いま、何時?」

「十一時二十分だよ。テレビ観てないなら消したら? 電気がもったいないよ」

「あら、主婦みたい」

 私のテンションが明らかに低くなっていることに気づいたのか、大人しくテレビを消した。画面いっぱいを占めていた男のひとの笑顔が微かな音すらも立てずに突然消えた。生き物が死ぬときって、こんななのかな。

 そう考えた瞬間、水道水が南極の氷のように冷たくなって、食道が冷やされたゴム風船みたいにきゅっと縮まった。私はちょっとむせた。真っ暗になったテレビ画面には小刻みに肩を震わせる黒兎みたいな少女が映っていた。こっちから見る角度的に、いまソファでごろごろと寝返りを打っているお母さんは映っていなかった。そしてお母さん側から見たら、私のほうこそが映っていないのかもしれなかった。

「また眠れないの? お母さんがよだかの星の読み聞かせをしてあげようか?」

「いい。お母さん、ぜんぶ女の人の声で読むんだもの」茶化すように訊いてきたお母さんに分かりやすくむくれた。

「そりゃ、そうよ。だってお母さんは女だもの」

「……女が、濃い」

「え?」

 なんでもない、という小さな呟きと共に、コップに入っていた残りの水を捨てた。

 一瞬あげた頭を、また一瞬でソファにおろした。

「女は女の声しか出せないわよ。そんな、山ちゃんじゃあるまいし」

「……いや、その前に、僕は遠く遠くの空の向こうに行ってしまおう!」

「なに!」

「よだかは、カワセミとハチスズメの兄さんだもの」

 今度はちゃんと上体を起こしたお母さんは、三十七歳とは思えないまっこと憎々しき程の若々しさを張り巡らせたその顔に、ムンクもびっくりするような驚愕の表情を張りつけていた。

「いまの一節、ホープが読んだの? すごい。誰がどう聞いても男の子の声だったよ」

 すごいすごいと興奮して、とうとう拍手までし始めたお母さんにまんまと照れた。柔らかくなる雰囲気をごまかそうとして無駄にコップに水を注いで、飲み切れなくなってまた捨てた。もったいないことをしているのは私のほうだ。きっと、立派な主婦にはなれません。

 私は私の声をある程度までは自由に操ることができた。動物電子辞書から流れてくる鳴き声サンプルを真似するようになったのが元々のきっかけだった。どっちがより本物の鳴き声に似せられるかという、ほかのひとが見かけたらきっと頭の調子を疑いたくなるような奇怪な音の嵐の中で行われた幸一くんとの対決で、日に日に、私だけがけた違いに強くなっていった。

「すごい。ワオキツネザルそっくりじゃないか!」

 大好きな幸一くんの、そんなすなおなおだてが、私のやる気をぐらぐらと熱した。

 結果、いまの私は鳥類、哺乳類……その他色々な科目の動物はもちろんのこと、同じ属目である人間の声などは雄雌問わず物真似、超余裕だ。テレビ番組に出れるかしらん、と調子に乗った発言をしたら、いけるいける! と大真面目に頷かれて、反抗期に突入しつつあった私は、そんなわけないでしょ! と、またまた手のつけようがなくむくれた。

「いやぁ、才能ね」

「こんな役に立たなさそうな才能、あってもいらないよ」

「あら。才能は、役に立つか立たないかで決められるものじゃないのよ。才能は素質なの。つまり、良くも悪くもコントロールできないものなのよ」

「じゃあ、幸一くんは優しさの天才だね」

「……そうね」

 途端、お母さんの声が水に投げ入れた鉛みたいに沈んだ。幸一くんの名前を出すと、お母さんはたちまち沈んだ。私はそれに腹を立てた。なんとも消化できないような気持ちがぽこぽこと湧いた。そして悪夢にうなされるのだ。ああ、もう今夜は絶対に寝れない。

 どうして幸一くんと私は、ほんとうの兄妹じゃないんだろう。

 幸一くんは優しいから、跡を濁さないで立つ鳥みたいに町から出て行ってしまった。優しいひとは、貝の真珠のようなもの。とても綺麗だけれど、その優しさは外から来た悪いものでできていた。

 みんなが真珠見たさに貝殻をこじ開けようとしたりしたものだから、幸一くんは不要な争いが生じるのを防ぐために、いつでも優しい笑顔を振りまいていなければならなかった。そしてとうとうダメになった。今度は貝殻が完ペキに閉じて、もう誰も、真珠を目にすることが叶わなくなった。


 ──私たちは、幸一くんの真性の優しさに甘えていたのだ。


 私は口を開けたまま、心の中だけでそう怒鳴った。少しだけでもいいから外に音漏れしてくれたらいいのになぁと弱気に願って、お母さんのほの暗く光っていた二つの目玉を見つけて、そっと俯いた。

 結局、私はお母さんも好きなのだ。十二歳の誕生日までは、私と幸一くん両方の、ちょっと破天荒で、たまにすごくとんちんかんだけど、でも……優しくて、とても真心あるお母さんだった。

 半端に優しい私は、これ以上深いところにまでお母さんを沈めたくはなくて、がらりんっと明るい声色で訊いた。

「お母さんにはどんな才能があるの? 私よりすごくはなくとも、そこそこのが一つぐらいはあるんじゃなくって?」

「ふふっ、急に大口を叩くわね。お母さんのは、そんな褒められた才能じゃないの」

「あ、そう……。ふうん」

 せっかく投げた和解のパスをすかされて残念だった。お母さんは千里眼を使って遠く遠くを見ているような目つきをしていた。目線の先にあるのは花火の写真がプリントされたカレンダーだったけれど、その意識は日付や曜日なんて退屈なことではない、もっと壮大なことに対して向けられているような感じがした。

「もう来月には阿波踊りが始まるのね。楽しみねぇ。ああいう言葉のいらない騒がしさ、大好きなのよねぇ」

「私はいつもの静かな町のほうがすきだけど……でも、まあ、ひとに紛れられるだけいいかもね。それじゃ、おやすみなさい」

「待ちなさい、希望」

「なに?」私はドアの手前で振り向いて訊いた。声色はシリアスだったけれど、体制は寝っ転がったままでどうにもだらしがなかった。熱いブラックコーヒーに冷たいガムシロップをたらたらと注ぎ続けたような締まりの悪い夜の空気が、うるさいぐらい静かな居間に埃と共に漂っていた。

 お母さんが意を決したように、やけにハッキリとした口調で訊いた。

「お母さんは、希望が嫌な思いをしないで済むのなら他の子はどうでもいい。だけど希望は優しいから、そう言っていてもどうしようもないのよね。

 ねぇ、希望は気づいていないかもしれないけれど、最近の希望は小学三年生のあの頃と同じような暗い顔つきをしているわ。あのときは、掃除当番を他の子に押しつけてた男の子に怒鳴って、初めて見た希望の態度に驚いたクラスの子たちとの関係がちょっとぎくしゃくしちゃったのよね。なんだかお母さん、今回もそういうことが起こっているんじゃないかって気がしてならないの。

 小学校から中学校に上がるにつれて、みんながみんな大人びていくわけじゃないのよ。中には心は幼稚なまま頭だけが賢くなって、いわゆる、ずる賢い子に育っていく子もいる。それはひとえに親の責任だとお母さんは思うわ。親は子供をよく注意して見ていないとダメなのよ。

 お母さんは希望よりも長く生きてきたから、そのぶん、色々な種類の人にも会ってきたの。そしてね、希望のように優しい人は、環境によってはとても生きづらくなってしまうの。ごめんね。お母さん、いまちょっと飲酒した後だから、話にまとまりがついていなかったかもしれない。要するに、ね。もしも希望が望むなら」

「べつに平気だよ。おやすみ」

 私はぺたぺたと階段を上がって……ぺたたたたッ、と駆け上がった。部屋に戻って、布団の上にアシカみたいに腹ばいになった。

「あんなこと言われたら、ますます行かなきゃならなくなる……」

 自分の大切なひとが嫌な思いをしないで済むのなら、他はどうでもいい。自分の大切なひとだけを優先させてきたお母さんらしい意見だ。なんて汚らしいと思ってしまった。

 それに、親は子どもをよく注意して見るべきだ、なんてよく言えたものだ。幸一くんは私に口封じをして、お母さんの目を見事にかいくぐって町から出て行ってしまったじゃないか。それとも、自分の本当の子どもじゃないから、注意して見なくてもよかったってことなんだろうか。だったら酷い。最低だ。許せない。

 私はごろんと転がって、天井を仰いだ。

 幸一くんは、いま頃どこでなにをしているんだろう?

 希望はもう、グレそうだよ。希望がグレたら、それはもう絶望だよ。私は私が気に入る私でいたい。幸一くんに好かれる私でいたいから、グレてしまったらダメなんだ。だから、帰ってきて。

 ヒーローみたいに駆けつけてきて。

 私は布団の上で猫のように伸びて、くぅ! と、いつの間にか眠っていた。



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