冬に見た、夏の夢

さく

第1話

 これは夢だ。取り返しが付かない選択を迫られ続けたあの日の夢だ。


「知らない土地のお祭りにきて、調べるのって楽しいだろ?」

「お前はこの状況でも余裕だな」

「余裕はないけど、調べれば助かるって思うと気合が入るよ」

「気合があっても、方向音痴は治らないんだな」

「酷いな、僕だってグーグルマップを使えば問題ないよ」

 俺は彰久あきひさを軽く見上げて、手にした『九華市きゅうかし観光帖』と書かれた地図を叩いた。

「なら俺がいて良かったな」

「まさか圏外だなんて想像できなかった」

 そうだろうな、と同意しながら地図から顔を上げると、賑わう屋台がもう目の前だった。

 俺と彰久が調べている祭は『華降祭はなおりまつり』という。

 朝から十三台もの山車が出て、大きなかねと太鼓を叩きながら街を練り歩く。その終着地点になるのは、今俺たちが到着した九華神社だ。昼過ぎには山車と人ごみで身動きが取れなくなるだろう。その前に情報を集めて、桜井夫婦と大鳥居の前で待ち合わせをしている。

 俺は携帯で時間を確認しようとして、真っ暗な画面に舌打ちする。節電の為に電源を落とした事をすぐに忘れる。

 改めてメッセンジャーバッグに括り付けてある玩具を探る。時間が分かればいい、と屋台で適当に買った子供向けの腕時計だ。時刻を確認すると、まだ待ち合わせまで余裕がある。

あき、持ってろ」

 俺は片手に持っていた地図を彰久に押し付ける。素直に受け取った彰久は、それを丁寧に畳んだ。

「なんか屋台で買ってくる。お前もなんか食べるか?」

「僕はいいや」

 小さくなった地図を片手に、彰久は控えめに笑顔を作る。

「そうか。なら、この鳥居のところで待ち合わせでいいか」

「分かった」

 振り返って、合流が容易になるように彰久の服装を確認する。

 半袖Tシャツにジーパン、黒のリュックを背負った短い茶髪の青年。夏場のどこにでもいるような背の高い男性だが、ちょっと抜けた顔立ちと表情で大半の人と打ち解ける事が出来る。

 一方の俺といえば『ゆう』の名前とはかけ離れた人間だ。

 服装こそ彰久と同じ様なものだが、細身で不機嫌な猫の様な目、身長は男性の平均程度。小さい頃から『リーダー格の不良になりそう』と言われてきた。同族と勘違いした不良に絡まれてきた。それも彰久を真似た笑顔を覚えてから大きく減った。

 後でな、と言いかけると彰久が俯いた。

「優は凄いな」

 彰久の意図を計りかねて、黙って見ていると右手で左腕を抱くように身を縮めた。

「僕、今の状況で食事とか無理だよ」

「でも食わないと動けない。また襲われた時に、動けないと困る」

「化け物の話はしないでくれ!」

 彰久の声は恐怖で塗りつぶされている。滅多に大きな声を出す事のない彰久の叫びに、恐怖が伝染する。化け物の姿を思い出し、夏の日差しを忘れる様な寒気がする。

 息をついた彰久が顔を上げた。

「ごめん、優」

「俺もごめん。考えなしだった」

 ちょっとした諍いに、神社へ向かう人が何事かと視線を投げる。人目を気にして、俺は彰久を鳥居の影に引っ張った。そのまま付いてくる彰久は、力の無い声で俺に聞く。

「なぁ優。あの化け物は何なんだ?」

「分からない」

 俺たち4人は中型犬の様な大きさの真っ黒な生き物に襲われた。形としては犬だが、毛並みを感じられず黒い厚紙を切り取った異様なモノ。行動は四足の猛獣と似ているが、現実感が無さ過ぎてゲームかアニメで出てくる敵キャラの様だった。

 人通りの無い道で、化け物は5体で俺たちを囲んだ。まるで集団で狩りでもするように俺たち追い詰めその爪と牙で傷付けた。

 彰久がうわ言の様に質問を続ける。

「ここはどこ?」

九華神社きゅうかじんじゃだ」

「僕たちは2015年の8月にこの祭に来たんだよね」

「そうだ」

「どうして今日の新聞は1992年なんだ」

「分からん」

 心当たりは、今朝この九華神社の鳥居をくぐった時に感じた『眩暈と弾かれる』ような感覚だ。それは俺と彰久、桜井夫婦も体験している。

 眩暈が収まって周りを見れば、どこか古いデザインの同じ街だった。近くで新聞を買って、今は23年前の同じ日だと知った。

 最初は信じられなかったが、物価は目に見えて安く、また紙幣も一万円以外は全て『未知の紙幣』扱い。携帯が街中にも関わらず圏外になっているのは、この時代では接続できる回線が無いとなれば、認めるしかなかった。

 何が原因なのか分からないが、鳥居をくぐった時に『過去に飛んだ』としか思えない。どうしてこの土地に縁も無い俺たちなのか、何を切っ掛けにしたのか、何もかも不明だ。

「でも、他にも解ってる事はあるぞ」

 俺は無理に笑みを張り付ける。

「化け物は殴ったら吹っ飛んだ。実体があるなら、戦える」

 俺のメッセンジャーバッグを振り回したら運よく当たった程度だが、大きさよりも軽い手応えだった。きっと見た目を犬っぽく取り繕っているだけで、化け物の中身はスカスカなのだろう。

 日陰で彰久を振り返り、正面から両肩に手を置く。

「しっかりしろ。俺たちは元の時代に帰るんだろ?」

「かえる」

「そうだ。俺たちは何かに巻き込まれたんだ。手掛かりを探そう」

「帰りたい」

 小さな子供の様に彰久が言う。

「そうだな。俺も帰りたい」

「元の時代に帰りたい」

「あぁ。だから、その為に出来る事をするぞ」

 なるべく穏やかに話しかけると、彰久が小さく頷いた。

「だから……僕たちはお祭りについて調べてる」

「そうだ。で、俺はそういうのが苦手だから、なるべく体力つけて、化け物と戦う」

「でも危ないよ」

 俺の左上腕は応急手当がされており、白い包帯が痛々しい。

「そうだな。化け物は俺たちより強い。でもその分、俺たちをナメてる」

 絶対に殺せるから、今は獲物をいたぶって遊んでる様に見える。 

 だが、人間が束になって掛かれば、撲滅は難しくない程度の生き物にも思えた。あれほど危険なのに、野放しにされているのは理由があるはずだ。

 その仮説を深めるために、4人で聞きこみをした街の人たちは、口を揃えて『化け物なんか見た事が無い』と言った。それが事実だとするなら。

「確証はないが、住人が1人も襲われてないなら、化け物は俺たち『別の時代から来た人』を食ってるんじゃないか?だから化け物は隠れ続け、見つかっても直接の害がないものは狩られない」

 彰久を落ち着かせるために話し続けるが、反応が鈍い。

「今、その仮説を検討する為に桜井さんたちが民間伝承を調べてる。そこに『黒い影』の話が無ければ、アイツらは噂にならないように、地元民に手を出してない。だったら、この時代に来た原因に関わっているかもしれない。そうだろ?」

 彰久が頷くのを確認して続ける。

「知性がある。それも『不利になるから狩らない』と判断できる様な先を考えられる程度だ。もしくは、化け物を指揮してる頭の良い人間がいる」

 1つずつ、想像を資料で固めて、推測にしていく。それが現実とどれだけズレを生じるかは、賭けだ。


「お待たせしました」

 声を掛けられ振り返ると、眼鏡の男性と気が強そうな女性が複数のビニール袋を下げて歩いてくる。桜井夫婦だ。先導する女性は花梨かりん、半歩後ろをついてくる背の高い男性は直樹なおきだ。

「あっついね。優くんと彰久くんはバテてない?」

「平気です」

 俺が返事をすると、花梨は笑ってビニール袋を突き出した。

「なら食べよう!お昼だよ!」

 袋の中身を軽く覗きこんで絶句する。境内の屋台を回ってきたのだろう、お好み焼き、焼きそば、たい焼き、肉巻きおにぎり……全て食べ物だ。この量を4人で食べきれると思っているのだろうか。

「花梨さん、やっぱり多かったんだよ」

 困ったように直樹が言う。

「そうかー。23歳男子2人がどれくらい食べる生き物なのか分からなくて」

「僕は止めたよ」

「ま、足りないより良いかなって思ったのよ」

 この夫婦は揃いも揃って、俺たちが腹を空かしていると思っている。

 先ほどは『何か食べる』なんて言っていた俺も、食欲なんて全くない。緊張と恐怖や不安で食欲などあるはずがない。

 でも、食べなければ、負けてしまう。それだけは嫌だ。

 俺はずっしりと重たいビニール袋を受け取った。

「いただきます」

 花梨は気前よく渡してくれたが、良く考えれば数時間前に知り合った人に奢ってもらう事になる。

「あ、お金」

 慌ててメッセンジャーバッグに手を伸ばすと、花梨が止める。

「いいのよ。若い子は気にしなくて。ね」

 花梨が夫の直樹を振り仰ぐ。直樹は人の好さそうな顔に笑顔を浮かべる。

「えぇ、構いませんよ。私たちも頂きましょうか」

 俺は頭を下げ、彰久に声を掛けつつ邪魔にならない場所へ移動する。

 4人で現況と関係のない話をした。もう何を話したのか思い出せない。


 ここから先は見たくない。

 悪夢へと転がるのを止められないまま、目覚めることを忘れて夢は続く。


 日が傾いた午後6時。

 神社に集まり神事を行った山車は、各区域へ散っていく。

 その山車の一台と共に俺たちは歩いている。

 4人で決めた方針は1つ。狩られない為に『人と山車から離れない事』だ。これは黒い化け物が人の多い場所では襲ってこない事から、一時の安全を確保するためだ。

 また大抵の祭りと同様に、華降祭の起源に魔除けも関わっている。効いてくれる事を願って、鳴り物を叩き続ける山車と移動することにした。

 俺は隣を歩く彰久をそっと伺う。俺と花梨は気丈に振る舞っているが、彰久と直樹は平静を保つのが難しそうだ。せめて落ち着くための猶予が欲しかった。

 今日を乗り切れば、改めて人の減った華降祭の記念館で学芸員から話を聞き、古い資料を出してもらう約束も取り付けた。

 まだやる事がある。それは『俺たちにまだ出来る事がある』のと同義だ。


 山車の後ろについて歩くのは俺たちだけでは無い。

 夏祭の為、子供たちの姿も多く、10歳くらいのガキが何を間違ったのか、見知らぬ俺に楽しそうに話しかけてきた。

 曰く、山車が家の近くを通るから一緒に行くんだ、とか何とか誇らしそうにしている。

 俺が扱いに困っていると、花梨が代わってくれた。さすが女性だ、と感心してさっさと丸投げする。花梨は楽しい様で、他愛ない会話が後ろから聞こえてくる。

「ありがとうございます」

 不意に直樹から話しかけられる。人の好さそうな顔に笑顔を浮かべると、教師と相対した様な気持ちになる。

「そんな礼を言われるような事してない」

「花梨さん、疲れていたようでしたので。気晴らしになると思います」

「それは良かった」

 少し間を置いて、直樹が聞く。

「優、何か思い付く事はありますか」

 俺は顔を少し考えて、口を開く。

「俺はこのまま山車といれば、襲われることは無いと思う。だた、今日中にもう一回、キツい襲撃がある気がする」

「どうしてそう思うのですか」

「化け物は狩りをしている。でも俺たちはまだ1人も狩られてない」

 彰久が震える声で問う。

「今度こそ仕留める為に来るって事か?」

「そうだ。それなら一晩置かずに当日中に来る、と考えた方が自然な気がする」

 直樹は考え込んでいる。俺は軽く肩を竦める。

「ま、こんなの当てずっぽうだ。化け物の考えてる事なんか分からない」

 合わせるように彰久が笑ってくれるが、すぐに俯く。

 停滞したような空気の中、不意に後ろから押し殺したような子供の悲鳴が聞こえた。

「やめて!」

 振り返ると、花梨が道を逸れて路地へ向かおうとしている。慌てて直樹を先頭に止めに行くと、路地に1匹の化け物がいた。その口元には先ほどの子供が銜えられている。肩口を齧られた子供は、恐怖で顔が引き攣る。涙と血がアスファルトを濡らす。

 化け物の光を反射しない目が、俺たちをゆっくり見据えたように思えた。捕まえた子供を銜えたまま軽く顔を上げ、見せつける様に揺らしながら踵を返す。

「待って!」

 花梨が駆け寄ろうとするが、直樹が肩を掴んで引き止める。

「いけません」

 化け物は路地の奥、人気のない場所へ子供を引きずりながら歩いていく。

「どうして!」

 花梨が自らを掴んだ直樹を睨む。直樹は感情抑えた声で告げる。

「これは罠です。アレは……私たちが考えていた以上に、狡猾です」

「だから何?」

 花梨が冷たく手を振り払った。

「危険だ、と言っているのです。山車から離れない方が良い」

 直樹の説得に花梨は俯くが、すぐに顔を上げた。表情は直樹の影になって見えなかったが、その声は強い。

「それでも私は、あの子を見捨てられないわ」

「花梨さん、彼は先ほど出会っただけの、他人の子だ。助けに行く必要は無い」

 直樹が花梨の手を取る。

「戻りましょう」

「直樹さん」

 被せるように、花梨が愛する者に向ける声音で言った。

「今までありがとう。私は見捨てられないの。あとはお願い」

 俺が花梨の行動に驚いていると、横を彰久が抜けていく。

「彰!」

「優、僕も行くよ。花梨さん1人に出来ない」

 俺は舌打ちをして、2人を追うべきか考える。

 これは罠だ。子供を人質を取り、俺たちが助けに行けば他の化け物が待っている。このまま全員で助けに行けば、食われてお終いだろう。

 誰も帰れない。

 ふと、昼間に彰久が子供の様に言った『帰りたい』が聞こえた気がした。

「帰してやりたい」

 戦う覚悟を決めている俺が行けば、少しでも罠を抜けて帰れる可能性が上がるだろうか。

 歩き出しながら、直樹の背に声を掛ける。

「あんたは無理するな。安全な所に居てくれ」

 直樹は俺を振り返って泣きそうな顔で言う。

「私も」

 俺は手を伸ばして直樹の肩に触れる。

「俺は、決めた事があるから行く。でも、方針転換を俺や花梨さんの行動にしたら、後悔するんじゃね?」

 息もつけない直樹を前に、俺は笑う。

「あんただけでも生きてくれ。全滅したら、誰も帰れなくなっちまう」

 もう一度、直樹の肩を軽く叩くと、前に進みながら適当に手を振った。

「またな」

 走り出す。今なら、二人に追いつけるはずだ。


 路地が太くなり一方通行の道になる。

 ビルの谷間に挟まれた交差点から、悲鳴が聞こえた。先ほどの子供の声だ。

 人がいないのか、苦痛の声に誰かが駆け付ける様子はない。


 俺が交差点に1匹の化け物を蹴り込んだ時には、もう子供は半分になっていた。そうとした形容が出来ない状態だった。座り込んだ花梨が、立つ足の無くなった子供を抱えている。子供の靴が転がり、そこに半ズボンが重なった。花梨の膝を大量の灰が汚している。その灰は後から後から増えていき、花梨の足元へ零れ落ちていく。

「何だこれは」

 子供が灰になって崩れ落ちていくのだ。

 苦痛を訴える悲鳴だけが、崩れる子供が現実だと俺に突きつける。受け入れられないまま、その悲鳴が途切れて消えても、俺は身動きが取れなかった。

「優……?」

 彰久の声に我に返り、姿を探す。

「彰?」

 花梨が泣きながら首を振る。

「彰、どこだ」

 ふらふらと声がする方へ行くと、花梨に背中を預ける形で彰久が座り込んでいた。

 彰久も崩れかかっていた。顔をしかめながら、俺を見上げた。

「優だけでも、逃げてくれ」

「出来るかよ」

 逃げろと言うのなら彰久を抱えて花梨と逃げる。

 化け物は遠巻きに囲んでいるだけだ。その網を抜ければ、ここからは逃げられる。

『逃げて、こんな彰をどうするんだ』と思うが、頭を振ってその考えを払う。

 花梨に手を貸して立ち上がらせ、小さくなった彰久を背負い、メッセンジャーバッグで安定させる。

 片手で軽くなった彰久を支えながら、化け物を蹴り飛ばす。花梨もどこかで拾った傘で、化け物を殴り付ける。何度も殴りつけると、柔軟性が無くなり手や足、首がもげていった。黒い破片はアスファルトに落ちると、そのまま空気に溶けるように消えていく。

「もう少しだからな、彰」

 話しかけると、奥歯を噛みしめたような音が背中から聞こえた。苦鳴を漏らさないように、押し殺した彰久が囁く。

「優、正面のビル。二階から誰か見てる」

 俺は顔を上げる。確かに、そこに人影がある。

 同時に、勢いをつけて化け物を殴り倒していた花梨が転倒した。

 俺の足元には灰にまみれた花梨の靴が転がっている。肘で体を起こした花梨が、苛立った声を上げてアスファルトを殴りつける。

 理由を認められなくて俺が呆然としていると、彰久の声がした。

「ありがとう」

 背中から重さが消え、彰久を支えていた手から大量の灰が滑り落ちた。


 その後、散々蹴散らして残った化け物はあと3匹。

 息が上がり、視界を滲ませる涙を拭う。灰になる条件が分からない。化け物を全て退治したら止まるのか?それよりもビルの上の人物を何とかしないといけないのか?

「優!」

 俺はため息をついた。

 この時代に、俺をそう呼ぶ人物は一人しか残っていない。視線を向けると息を乱して直樹が向かってくる。

「あぁ?マジか、お前まで来たのか」

 最悪だ。

 視線を外した俺に、直樹が思いがけない事を言う。

「新しい情報があります。皆は?」

 俺は左手の中にある花梨の結婚指輪を握りしめた。

「……彰と花梨さんはいない」

 努めて平静に言ったつもりだが、直樹がどう思ったのか分からない。

 わかりました、とだけ返事があった。俺は直樹を急かす。

「で、何がどうだって?」

「妙な人に会いました。元の時代に帰れるかもしれません」

「何?」

「詳しくは後で伝えます。今は逃げましょう」

 逃げましょう、そんな事を直樹が言うのか。

 今更そんな事を。

 反論しようとしたが、右足に激痛が走った。耐えられない痛みに膝を着く。

「優?」

 怪訝な顔で直樹が俺を覗き込む。

「クソ!!」

 遅かった。

 右足の感覚が無くなっていく。膝から下が痺れたように力が入らない。両手を後ろについて、足を放り出すように体勢を変えると、右足の裾から灰が零れ落ちた。

 どうして。なぜ。切っ掛けなんて無かったはず。

 魔法の様に右足のジーパンが、中の質量を失ってへこんでいく。

 この惨状や服の埋まった灰の山を見ているはずなのに、直樹の声は変わらない。

「抱えます。手を首に回して」

 直樹が俺を横抱きにしようと背中を支え、膝裏に腕を入れる。

 言われるままに手を伸ばすが、左手が動かない。無理やりに右腕でしがみ付くと一拍置いて体が浮く。人の体温だ。ついさっき背中から失われた温度。

 どうして2人も死んだのに、俺は逃げようとしてるんだ。2人とも骨さえ残らない。遺品を拾う間も無い。そもそもどうして俺たちなんだ。親友が死んだ。それでも無様に逃げるしかないのか。俺たちが何をしたって言うんだ。どうしてこんな知らない場所で訳が分からない死に方をするんだ。誰にも知られずに灰になり死んだ証さえ何も無いんだ。

 直樹の背中に爪を立てる。

「ふざけるな」

 怒りに目が眩み、直樹に抱えられていることも、足のことも忘れて叫ぶ。

「あのビルの2階だ!絶対にぶっ殺す!離せ!!」

 どうしてこの人は俺を抱えて、この場から逃げようとするんだ。

 どうして俺は根拠もない事を喚き続けているんだ。


 夢から覚める手前の俺は、鮮明に思い出す。

 俺の灰が散り、街灯に反射してキラキラと直樹が走った跡を彩る。

 直樹の背中越しに見覚えのある靴が片足分、落ちていったのを見た。


 けたたましい目覚まし時計の音に救われた。

 右手で叩いてから、大気の冷たさに手を引っ込めた。

 毛布を片手で掻き寄せて顔を歪めた。夢の残滓に無い右足が痛む。

 あの灰になる現象は交差点からかなり離れた所で止まった。理由は分からない。

 俺は生き残り、あの事件から約半年が経った。殆どを義足作成の為に入院していたので、この家で過ごした時間はまだ短いが『家』として整っている。

 それは直樹がこの家で、俺がいない半年間の生活をしたからだろう。

 この家や義足の工面などは『協力者』を自称する男性の支援だ。直樹が山車から離れないでいる時に、声を掛けられたらしい。胡散臭い事この上無いが、金銭的に助かったのは事実だ。

 だが直樹が言った『元の時代に帰れるかもしれません』とは、俺を逃がす為の嘘だった。本当の事を聞いた時は怒鳴り合いの喧嘩をした。

 直樹は後で諍いになると解っていても、俺を生かす事を選んだ。

 その直樹には、入院中から身辺の世話になっている。最初は喧嘩の後で気まずくて着替えの差し入れだけだったが、そのうちに俺の親戚の様な顔をして主要な選択に居合わせるようになった。有難い事には間違いないのだが、果てには一緒に義足の説明を受け、リハビリの見学に来る頃には、周囲では『謎の家族構成の人』と思われるようになっていた。

 痛みを紛らわす為に思い出していたが、枕元の時計を見上げ、分針の位置に観念して起き上がる。

 寝崩れた浴衣を直しつつ、左肘で体を支えながら右の腕力で隣接させてある車椅子に移った。右足が大腿部の半ばから無くなった結果、体重が減り持ちあがるようになった。その毎日が軽くて重い。

 車椅子のホイールを掴むのも右手だけ。片手で操作できる型を選んだ。後遺症が残り、左手も肘から先に上手く力が入らず、握力はほぼ無いに等しい状態だ。ゆっくりと片手で車輪を操り、物音がする台所へ向かう。


 台所への引き戸を開けると、ストーブで温まった空気に迎えられた。ガラスが入った戸は喧しい音を立て、気が付いた直樹が振り返った。ガス台の前で菜箸を片手にした姿はカッターシャツに黒のスラックスだ。温かそうなスリッパと人の好さそうな顔で、服装の硬い雰囲気が緩んでいる。

「おはようございます」

「おはよう」

 車椅子の角度を変えて引き戸に向き直り、暖気を逃すまいと急いで閉めた。

「今朝は良く冷えますね」

「そうだな」

 毎朝の事だが、俺は直樹を見上げて頼む。

「義足の手伝いをしてくれ」

「はい」

 直樹はいつもの様に快諾し、台所の端に寄せてある長椅子へ向かう。そこには義足一式と杖が寝かせてある。

 俺も車椅子を操り、長椅子の近くに進むと車輪のロックを掛けた。座ったまま浴衣の裾を適当に払う。本来であれば右足がある場所には、大腿部の半ばから先が存在しない。

 その断面に沿って覆う様に、包帯が巻かれている。

 圧迫包帯の処置は、俺の状況としては不要らしい。左手と断面も含め、残った俺の体はまるで欠損など無かったかの様に、健康体そのものだ。しかし余りも異様な傷口の為、入院中に騒ぎになる事を避けて包帯を巻き始め、今もその時の習慣で続けている。

 直樹が足に着けるシリコンライナーの確認をしている間、包帯を解いた。

 上から見下ろすと、途切れた足の肌色が2センチ程度が灰色に浸食されている。触っても崩れないが手触りは荒い。それは一山の灰を思い出す。

 直樹が両膝をついて俯くと、その首に細い鎖が見える。その先には、一組の結婚指輪が下がっている事を俺は知っている。

 思わずぽつ、と呟いた。

「もうこれだけしか残ってない」

 直樹が穏やかに否定した。

「そんな事言わないでください。私は、優が生きていてくれて嬉しいですよ」

「お前、よくそんな恥ずかしい事を」 

「どうぞ」

 抗議を無視した直樹に促されたので、黙って足を浮かせた。

 断面に裏返したシリコンライナーを当て、分厚いゴム状のタイツを履かせる様に着けた。それは幼児に靴下を履かせるようにも思えて、僅かにため息をついた。

「違和感はありませんか?」

 俺は適当に巻き取った包帯を長椅子に放り投げ、一通りの確認する。

「あぁ。ありがとう」

 礼を言うが、これで半分だ。

 直樹は続けて義足の本体を手に取り、接続部分同士を当てる。

 金具が噛み合う音が虚しい。安全を確認し、膝をついていた直樹が体を起こす。

「できましたよ」

「ありがとう」

 俺はバランスを取りながら車椅子から立ち上がる。

 浴衣を直していると、直樹が左手用の装具を手にした。

 痺れが残る左手はそのままにしておくと、手首の間接に悪影響を与えるので就寝時以外は固定する簡易ギプスを付ける事にしている。

 また礼を言って受け取ろうとするが、直樹が首を振る。

「今朝は時間があるので、手伝います」

「助かる」

 自分で装具を付けるのは、片手でカフスボタンを嵌めるようなものだ。やってくれるのは手間が省ける。

 俺が力の入らない左手を右手で差し出すと、直樹の冷たい手が装具に軽く押し込む。手のひら側の腕に当たる部分は板状で、装具全体は筒状になっている。圧迫して固定するのが目的なので、余裕のない作りをしている。手袋をはめる様なもので、指が動かないと皮膚が引っ掛かる。

「失礼しますよ」

 直樹が声を掛けてから、俺の左五指と直樹の右五指を組んだ。ぎゅっと握られる感触があるが、握力の無い俺から返すことは出来ない。直樹が俺の左手をうまく指と掌で握り、右手で装具と反対方向に引っ張ると規定の位置に収まった。

「直樹、すごいな」

 こんな簡単に出来た事に驚いて、直樹を見上げる。

 直樹は少し照れたように笑う。

「出来ましたよ」

「ありがとう」

 礼を言うと、どういたしましてと礼儀正しい返事がある。

 車椅子を畳んで長椅子の近くへ片付けながら、直樹に話しかける。

「今日は、寺に華降祭について聞いてくる」

「お願いします」

 歩けるようになってから、聞きこみを再開した。

 夢で見た彰久の笑顔を思い出しながら、俺は杖を手に取った。

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