夜更けのアリア

藍沢 紗夜

第一話 白い髪の少女

「ああ、恐ろしい! 白い髪だなんて、あの子供は呪われているに違いないわ!」

「全くその通りですわ、お母様。可哀そうなフランツ、どこの馬の骨もわからない小娘に騙されて……」

 自分とその娘の悪口に夢中になっている義母と義妹の横を、マリーは無表情で通り過ぎた。由緒正しい家柄を誇張するような、仕立ての良い豪奢な服を纏った二人に対して、マリーの服はひどくみすぼらしく、まるでぼろ雑巾のようだった。二人は蠅か何かを見つけたように鬱陶しげに顔を顰めたが、マリーは何も気づかないふりをしてその場を去った。


 このような扱いに、マリーはもう慣れっこだった。娘のアリアが雪のような白い髪で生まれてからずっと、夫の親族らはまるで人でなしを相手にするように二人に接してきたのだ。昨年夫のフランツが亡くなり、迫害はひどくなる一方だったが、他に身寄りのないマリーは幼い娘を養うため、やむを得ずこの屋敷に居候しているのだった。

 だが、ここが娘を育てるのにはあまりに劣悪な環境であることに、マリーはすぐに気が付いた。家の者たちは彼女を奴隷のごとくこき使い、マリーは娘の面倒を見ることさえままならなかった。赤子のアリアは狭く暗い屋根裏部屋に、ろくに世話もされず閉じ込められていたのである。


 マリーは埃っぽい階段を上がり、屋根裏部屋に入ると、すぐさま愛娘を抱きしめた。

「アリア、世界中の誰が何と言おうとも、あなたの髪は美しいわ。笑顔はこんなにも愛らしいし、あなたは絶対に呪われてなどいない。私もあなたのお父様も、あなたが生まれてきたことを心から喜んだし、誰より何よりあなたを愛しているのよ」

 アリアはこくん、と小さく頷いた。彼女の顔は三歳の少女とは思えないほど蒼白く、やつれて衰弱しきっていた。彼女がマリーの言葉を理解しているかは怪しかったが、マリーは意にも介さず続けた。

「――アリア、ここでの暮らしはあなたには良くないわ。私、あなたを幸せにしたかった、だけど、私じゃ……私じゃ無理なの……。ごめんなさい、ごめんなさい、アリア」

 マリーは繰り返し腕の中の娘に謝りながら、ぽろぽろと涙を流した。

「でも、これだけは忘れないで。お母さんはあなたを愛しているわ、アリア……。大好きよ」

「ママ、わたしも、ママが大好きよ!」

 啜り泣き始めたマリーを見て、何が起こっているのかわからないまま、アリアはそう応えた。そして彼女は釣られて泣き始め、そのうちに疲れ果て眠ってしまった。


 その日の真夜中、マリーは大きな荷物と眠るアリアを抱え、大きな屋敷を抜け出して、町外れの小さな館の前にいた。

「ナディア、この子を頼みますよ」

「マリー、本当にいいの? こんなことする必要……」

「いいえ、これが一番いいのよ……あなたならこの子を任せられますから……」

 まどろみの奥で、微かにそんな会話が聞こえてくるのをアリアは感じた。しかし、また眠りの中に落ちていった。

 そしてマリーは娘をナディアに預けて遠くに去って行ってしまった。その後マリーがアリアに連絡を取ることは、二度となかった。


 翌朝アリアが目覚めると、そこは清潔なベッドの上だった。見知らぬ風景に驚いて飛び起きると、ナディアが笑いかけた。

「目覚めたのね。よく眠れたかしら?」

「ここはどこなの? ママはどこ?」

 顔を強張らせて訊くアリアに、ナディアは諭すように言った。

「今日からここがあなたのお家です。さあ、朝ごはんの支度をしましょうか。よく食べて栄養を摂らなきゃいけないわ」

「そう、ママは朝ごはんの支度をしているのね! ところで、あなたはだあれ?」

 綻んだアリアの顔を見て、ナディアは悲しそうに微笑んだ。

「アリア、よく聞いてちょうだい。……ママはここにはいません。あなたのお母さまは、あなたをここに預けて行かれました。あなたは今日からここで暮らすのですよ」

 アリアの表情は凍りついた。幼い少女にとって、それは残酷すぎる現実だった。

「ママ……? どうして――」

  アリアの瞳から、ぶわっと涙が溢れ出した。どこにそんな力があったのかと驚くほど大号泣するアリアの背中を、ナディアはそっとさすろうとして思い止まり、気が済むまで泣かせてやることにした。今までこの子は、我慢ばかりしてきたのだから……。


 十数分ほど泣いた後、アリアが落ち着いたところで朝食を取らせてから、ナディアは孤児院の子供たちにアリアを紹介した。

「彼女は私たちの新しい家族、アリアよ。仲良くしてちょうだいね」

 赤子から青年までの十人ほどの子供たちは、新しい仲間の登場に賑わっていたが、アリアを目にした途端、水を打ったように静まり返った。

「白い髪……悪魔の子だ! 呪われる!」

 十歳ほどの、そばかすだらけの栗毛の少年が金切り声を上げた。その言葉をきっかけに、その場は不穏なざわめきに包まれた。

「あんな真っ白い髪は初めてみたわ……八百屋のお爺さんより真っ白よ!」

「まるで幽霊みたいだ……」

「どうしてこんなところに来たんだ、僕らに何をしようとしているんだ!」

「おだまり!」

 ナディアの一喝で子供たちは萎縮して口を噤んだ。眉を吊り上げてナディアはきびきびと言った。

「この子はただの人間の子供です。見た目で人を判断するのはおやめといつも言っているでしょう! この先この子を侮辱するようなことがあれば、夕飯抜きの罰ですからね。

 さあ、アリア、お辞儀なさい。じきにこの子が普通だと皆わかるでしょう……ダリア、サリー、リーザ、エリス、フィーネ、あなたたちの女子部屋にアリアを入れます。ダリア、監督をよろしく頼みますよ。

 この子はこの場所のことを何も知りませんから、皆で教えてやりなさい。それでは昼まで自由時間にしますから、新しい家族との交流を楽しみなさいな」

 解散、とナディアが宣言して仕事に戻ると、アリアの周りにはどっと子供たちが押し寄せた。

「やめなさい! 怖がらせないで!」

 声を張り上げてダリアが言った。

「まずは女子から話しましょう。部屋を案内してからでも十分話す時間はあるはずだわ」


「今日からここがあなたの部屋よ。この空いているベッドを使ってちょうだい。シーツはあとで私たちが敷いておくわ」

「うん……」

 心ここにあらずといった様子のアリアに、ダリアは屈んでアリアの顔を見つめ、そっと微笑んだ。

「まだ来たばっかりで不安よね。私はダリア。お姉さんだと思って、頼ってちょうだい。他のみんなも紹介するわ。

 まず、サリー。あなたからよ」

 サリーと呼ばれた短髪の少女がアリアに近づいてきて、太陽のように笑った。

「やあ、アリア。あたしがサリーだよ。気軽に頼っておくれ! 勉強は苦手だから、そういうのはこっちのリーザに聞くといい」

 リーザは少し照れたように笑った。おさげのお淑やかな女の子だ。古びた本を大切そうに抱えている。

「リーザは読書家なのよ。たくさんのことを知っているわ。

 それから、エリス。あなたの二つ上よ」

 ダリアに紹介されたエリスは、アリアと目が合うとにっこり笑った。アリアは戸惑いながら小さく笑みを返した。

「そしてこのおちびちゃんがフィーネ。あら、寝ちゃってるわね」

 二歳前後の小さなフィーネは、ベッドの上で天使のような寝顔でぐっすり眠っていた。

「まだお昼寝には少し早いと思うのだけど、まあいいわ。起きているときにお話してあげて。あなたの一つ下で、一番歳の近い子だから」

「うん」

 アリアが小さく頷くと、ダリアは優しく彼女の髪を撫でた。アリアは全てを理解しているわけではなかったが、それでも話を聞いて少し警戒が解けた様子だった。

「急にたくさんの人に囲まれて不安でしょうから、しばらくここでゆっくりしましょう」

「うん……」

 安心したのか泣いた疲れが出てきたのか、アリアはそのまま昼食まで寝てしまった。


 昼からのアリアは、ナディアが思っていたよりもすんなりと場に馴染んでいた。急にたくさんの人の中に入って行って大丈夫か、ナディアは不安だったが、ダリアたちの対応が功を奏したようだった。

 だが、その日の夕方、大広間でまた騒ぎが起こった。孤児の少年ニックが、アリアに向かってこう話しかけたのだ。

「お前も捨てられたのか? 白い髪なんかで生まれて苦労したろう」

「わたしは――捨てられてなんか――ない!」

 強く否定したものの、アリアは確信が持てなかった。本当に母は自分を愛していたのだろうか? 自分が要らない子だったからこそ、母は自分を手放したのではないのか?

「あ、ご、ごめん……」

 ニックは困ったようにあたふたし始めた。親切心から来る言葉だっただけに、この反応には驚いてしまったのだ。実際ニック自身を含み、この孤児院の子供の大半は捨て子で、その他は事故などで身寄りを失った孤児といったところだから、ニックがこう言ってしまったのも無理はなかった。

 だがこの言葉は、泣く泣く母と別れた小さな子供には残酷な言葉だった。泣き叫ぶアリアの声を聞きつけたナディアが、驚いて駆け寄ってきた。

「何があったんです?」

「ぼ、ぼく、悪いこと言っちゃった……傷つけちゃった!」

 ニックが涙目で訳を話すので、ナディアはなるほどね、と苦笑いして、ニックを撫でた。

「先にアリアと話すから、終わったら少しお話しましょうね、ニック」


 アリアはナディアの部屋に移動して、少し落ち着いた後、ナディアに顛末を話した。

「ねえ、わたしはほんとうにいらない子だったの? だからママは戻ってこないの?」

「いいえ、そんなことは神に誓ってありえないわ。あなたは愛されていたのよ。あなたのお母さまは何よりあなたのことを心配していらっしゃいました。あなたがここに来たのは、あなたが健やかに成長するためですから、捨てられたわけではないのよ」

「ほんとうに?」

「ええ、だから自信を持って。あなたは愛されている、これだけは絶対に忘れちゃだめ。わかった?」

「わかった、先生」

 アリアは曖昧に笑ってナディアの部屋を出た。


 その晩、アリアは眠れなかった。母は自分を愛していた。それならなぜ、会えないの? ……夜ごとに聞かせてくれたあの優しい歌声が聞こえない、そのことが彼女の寂しさを際立たせていた。

 アリアは記憶をなぞるように、その子守唄を小さく歌い始めた。ゆったりとしたその歌は、温かくもどこか物悲しくあった。

「歌っているの?」

 不意に聞こえた声にアリアは驚いて歌を止めた。声の主の方を向けば、昼間にエリスと呼ばれていた少女がアリアのベッドの側まで来ていた。

「なんの歌?」

「ママの歌、いつも歌ってくれたの」

「そう、大事な歌なのね」

「うん」

 数秒の沈黙の後、エリスがまた口を開いた。

「もう歌わないの?」

「え」

「あなたの歌声、とってもきれいで、わたし、すきよ」

 その言葉にアリアは頬を染めた。もっと聴きたいな、と微笑むエリスに、アリアは頷いてまた歌い始めた。


 そうしているうちに二人とも眠くなって寝てしまったらしい。翌朝目覚めたダリアは、この二人が仲良く同じベッドで寝息を立てているのを見つけて微笑んだ。

「仲良しだこと! 二人とも天使のような顔で眠っているわ」

「んん、本当だ、いつの間にこんなに仲良くなったんだ?」

 同じく目覚めたサリーが首を傾げた。

 幼い二人が眠る姿があまりに可愛らしく、なかなか起こすことが出来なかったダリアたちはナディアに怒られてしまったのだが、かくいうナディアも実際に二人の様子を見ると起こすに起こせなくなってしまったので、この話はその後長年にわたって語られる笑い話になったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る