第七夜 初夜

 フェイスラインを伝う汗を、拭うことすらできずに立ち尽くしていた。息を殺して、滑る手で刀を握り直す。感じるのは――恐怖。


 ドミノマスクで顔の上半分と兜巾で頭が隠されていても、チラリと覗く金糸と碧眼、そしてその姿態から誰かなんて想像は容易い。対峙するのも初めてではない。けれど、何度相見まえてもその恐怖を拭い去ることをできずにいた。


 強い月光に彩られる銀色は、偽物でないことをありありと証明している。


 修練の時は、己の方が勝っているとさえ思うのに。許されるのならば、逃げ出したいと思う。真正面に立たれれば、勝てた試しが一度もなかった。


 唯一の救いは、最初の一手のタイミングと太刀筋が読めることだが、敵わないと分かっている以上、下手に動けばられてしまう。なのに刀を捨て、膝を折り、赦しを請うこともできない。



 兄はそんな、勝機のないこの状況をきちんと理解していた。だからこそ、微動だすることなく妹を直視していた。



 物静かな夜を、更なる沈黙が支配する。その重圧を断ち切るように、妹がタンっと床を蹴る——その刹那。

 まるで弓でも放たれたかのように、兄の目前に銀色が迫った。キーンっと、金属音がやけに大きく響く。

 一度目はイナせた。緩みのない二度目は、どうにか回避し後ろに飛んで距離を取る。それなのに、刃はまたすぐそこまで迫っていた。首元寸止めで、ピタリと止まる。


 どうやっても勝てない理由は明白。妹も兄の動向を知り尽くしているのだけのこと。純粋な力くらべなら男である兄の方が強いのに……武術になると力で押し切る前にスピードで劣る。


 勝負あり、だな。と微かに動いた妹の唇が綺麗な三日月を描いた。白刃が鞘に納められて、糸が切れたかのように兄は膝を折る。外すと同時に投げ捨てられたドミノマスクの立てた音が静夜に響いた。

 お馴染みの角度に首を傾げた拍子に揺れた金糸が、煌々と降り注ぐ月光に煌く。


「なかなか会いに来てくれない兄様あにさまのために、わたしから出向いてやったぞ? どうであった、父上の趣向は」

「故人を偲んで、良い趣味をされている……ってとこかな。父上も僕達の力差を知っていただろうから、ちょっとタチが悪いけどね」

「それは、我に陽の道、兄様に月の道を歩ませると決めた時からだろう」

「違いない――けれど、僕はそのことを後悔したことが無い」


 そう、兄の腕であればどうなろうとも良い相手なら、たとえ誰が悲しもうと切り捨てられる。兄が妹から一本取れないのは、その剣が妹を何者からも守るものというだけなのだ。そしてそれこそが、月の道を行く者の枷。


 脱力したように足を投げ出して腰を床に下ろした兄の後ろへ回った妹は、同感だと呟いて背中合わせで腰を下ろした。我たち二人だけの秘密の誓いを再び立てよう、そう言って。

 望むままに、と兄は妹の想いに応えるべく握られた手を強く握り返す。


「凰 陽華へ誓う、共に月の道を歩む事を」

「凰 華月に誓う、共に陽の道を歩む事を」

「凰 陽華と誓う、全力で守り抜く事を」

「凰 華月も誓う、全力で闘い抜く事を」

「凰 陽華が誓う、総てを疑う事を」

「凰 華月が誓う、総てを信じる事を」

「凰都という国の健やかな発展のため」

「そこに住まう民の幸福のため」

「偽りを誠にするために」

「ただ前だけを見据えて」

「「二人で一つであることを誓う」」


 静かに、まるで呼吸かのするように呼応する。紛うことなく、惑うことなく、怯むことなく。

 この兄妹のこの誓約は、違う道を歩めど向かう先は同じなのだと認識を強固にする為の儀式。

 けれどそれは、各々が人生を無に帰する程の制約に他ならない。

 否、既に生まれながらに国に捨てられる運命さだめだったのだから、与えられた道を歩むことこそが生きる術といえるかもしれないが。

 そんなことはもはやどうだっていい、とばかりに固く握られた手は二人のそれぞれの覚悟の強さを物語っていた。


「これで内親王襲名の儀は終わりだね。、せっかく一緒にいるんだし偶には直接情報共有したいんだけど?」

「そうだな、我もちょうど先の国議について報せたかったところだ」


 国の定めに背いた咎事を抱えるこの兄妹が二人きりでいられるのは、ただの兄妹でいられるのは、ほんの一瞬のこと。次の瞬間には、一国の王とその臣下に切り替わる。


 王はまず、国王を補佐する官吏のなかで最高位である宰相を置かないことを決定したと告げた。その代わりに宮廷内の秩序維持の役割を持つ判官ほうがんの地位にその者を据えたと。


「打ち合わせ通りだけど、不満でたでしょ」

「まぁな。宰相がいないということは、我とサシで相対するということだからな。けれど、あの古老達が何と言おうと宰相の登用は王が決めるもので、その王は我だ」

 

 片方の口角を上げて、王はニヤリと笑った。うわー悪い顔、と声に出した内親王もすこぶる楽しげだ。

 本当のところは、病死だと報告された前王の死の原因に納得していないと、怒りをぶつけると共に睨みを効かせたのだが。王はそのことを告げずに内緒にした。


 そして、現国軍官長を世襲交代させたこと。他官の決定は、司召徐目つかさめしのじもくにて行うこと。前王の代ではその殆どが執り行われていなかった宮廷行事を復活させたことを立て続けに告げた。

 これらもすべて、事前に打ち合わせ済みの事項。そっくりな顔が、笑みを深くする。


「じゃあ柊親衛隊長はそのままなんだ」

「左京の腕は確かなものだが右京を側近にする以上、瑛家の者は二人も置いておかない。だからその強さは外へ向けて貰う……それに維嗣も腕は立つし、柔軟だ」

「あー……あの堅物には分かんないだろうなぁ、そんな裏事情」

「あぁ、すぐに部屋まで押しかけてきた。右京もな。途中で伊織と巳織に乱入されたが、適当にあしらっておいた」

「そういうところは、兄弟だね。ところで、母上の九ノ一達は何しにきたの?」


 始終愉し気だった内親王の声音が、ワントーン低くなった。ぴくっと、王の肩が小さく揺れる。動揺を隠すように一呼吸おいたものの、背中を合わせて座っているため内親王には勿論伝わるのだが。

 沈黙を守る内親王に、王は母上していた頼み事を届けに来た、とため息をついて答えた。次に我がしたいことを、陽華はもうわかっているだろう、と。母上でも見通してることなんだから、とも。

 

 間もおかずに、呉越ごえつ公国だね、と音が宙に浮いた。


 呉越公国は凰都国の王都である緑翠から幾分か西南西へ下った先にある同盟国。れっきとした独立国家だが、鉱山がある為に小国の割には豊かであり、それを狙う近隣諸国に嫌気がさして国を閉じてしまったのだ。


「守るのは良いが、閉じてしまっては育たぬ。我が国としても完全な従属国にしたいわけでもないからな、他国が動く前に手を打つ」

「その為の樢魏とぎ国ってわけだね」

「それもお見通し、か。そう、樢魏が動けば大公は必ず同盟国である我が国に助けを求めてくる、凰都と樢魏が手を組んでいるなんて知らずに……な」

「燕雀安んぞ、かぁ。いや、この場合関わってるのは公子の方だから逆? どっちにしろ、エゲツない」


 クスリと笑った内親王の声音はもう元に戻っていた。その外交は、一歩間違えれば大きな戦争になりかねないというのに……である。

 勿論、その余裕にはきちんとした勝算がある。王には樢魏国にも呉越公国にも信用のおける友人がいるのだ。


 だから、いうなれば茶番。


「そんなくだらないことに民を巻き込まない為の頼み事、というわけだ」

「ってことは立ってるのも精一杯の状態なハズの兄上に、僕は手も足も出なかったってことか」

「身体に残る毒薬モノだと意味がないし、そもそも既に抜けているさ」

「相変わらず、自分が傷つくのは厭わないね」

「陽華がいるから、我は己を勘定にいれなくて済むだけだ……後は任せた」

「御心のままに」


 王は国妃が用意した薬を服用したことを、否定しなかった。

 言われてみれば、王はまだどこか少しおぼつきのない足取りで内親王の前に回ると、まだ内密に、と言って懐から取り出した書簡を差し出す。

 内親王は片膝を付いて姿勢を正し臣下としての礼を取ると、書簡に目を通すことなく懐に仕舞い込む。そしてそのまま、王の手の甲に唇を寄せた。


「無茶しないで、なんて言っても無駄だね。大丈夫、必ず守りきる」

「期待している。それから、最後にもう一つ伝えておこう。暁を娶った」

「………………ハァァァァッ!?」

「顔は伏せさせたが、既に堅物共にも紹介した」


 まさに寝耳に水とばかりに、今まで余裕だった内親王が発した叫び声に、王はしたり顔でニヤリと笑った。


 王が妃にと選んだのは、王宮神殿にて神官を務めていた者だった。その素性は、友好国である紋波もんは帝国からの留学生だ。また、王が顔を隠させたのはその者がもつ紫暗の瞳は帝国の皇族である印であるからに他ならなった。


「仲睦まじかったとはいえ、葛藤があっただろうに……よく落ちたもんだね」

「玉座に居座ることなど億に一つも無い身だからこそ相応しい、と正直に告げたまで」

「告白というよりは寧ろ失礼だね、ソレは」

「それすらも受け止められるからこそ、妃にしたのだ。それに帝国にいてもその知識も武術も発揮し切れまい。その上、使者として動いている朱鳥は暁の護衛でもあるから、これで更に情報を得やすくなった」


 めでたしめでたし。

 事務報告、といわんばかりに告げる抑揚のない声には新婚にもかかわらず一欠片の甘さもない。いわゆる、政治的判断であるいうことを全く隠してはいなかった。


 虚空な王座に座ると決めた王にとっては、誰であっても全て自分の手駒でしかない。

 情報を選択し、人員を差配する。それに間違いを生じさせれば、しっぺ返しを喰らうのは王自身に他ならないのだから。妃選びでさえ、リスク回避の一環になるのは仕方のないことだった。


「それで? その義理姉あねうえ様はもう一人ぼっち?」

「正体不明の妃が、一人ぼっちなわけないだろう。特別に激しいプレゼントを用意したさ」


 娘を持つ官吏なら王の寵愛をその娘が得られれば権力を持つのに近道になる為、王が選んだどこの骨とも知れぬ妃など、邪魔でしかない。となれば、密偵やら刺客やらが送り込まれてくるのは必須。


 それを見越して王は、事前に出仕していたという理由で、後宮の兵だけはそのままに官吏達を全員下がらせた。

 勿論、腕に覚えのある妃本人に王宮に来た刺客を誰にも知られずに片付けさせる為である。


「真っ白いのは、衣装だけだね」

「暁にも言われたが……だからこそ、陽華は真っ黒い衣装に身を包むのだろう?」

「違いない」


 まぁ、やってられないよね、そうじゃなきゃ。声にすらならなかったけれど口は確かにそう動いて、内親王は諦めたように微笑んだ。


 何にでも染まれる白色こくおう、と。

何にも染まらない黒色ないしんのう


 国のためにそれぞれの道を歩む出発の準備は整った、と最後まで同じ輝きを秘めた碧眼を合わずことなく別々に立ち去った。

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