空白

垣内玲

喪失。あるいは、始まり。

エデンを追放されたことは、アダムにとってとりわけ大きな喪失だった。少なくとも、彼の妻は、彼が苦悩しているほどには思い悩んではいないように見えた。それどころか、楽園を追われ、自分たちの手で生活の糧を手に入れる日々を楽しんでいるように感じられることさえあった。

アダムは、彼自身は、一度として善悪の知識の実を口にしたいと思ったことはなかった。それは許されないことだと知っていたし、禁忌を犯すことでどれほど大切なものを失うのかも理解していた。彼は、エデンの園の幸福な日々を愛していた。

それでも、アダムは知識の実を食べた。彼の妻がそうしたから。

アダムはそのとき、何が起こったのかわからなかった。ただ、生まれ変わった妻の姿を見て、それまでに経験したことのない感情が、彼の心と身体を満たした。それは、「美しい」ということなのだと、理解したのはずっと後になってからだ。知恵の実を食べたイブは、彼の知っている妻とは別人のように美しかった。その妻が、自分に知識の実を勧めるのを、彼は拒みえなかった。抗いがたい何かが、彼を突き動かした。


あのとき、自分の身に何が起こったのか、アダムにはいまだに理解できない。イブは相変わらず、まばゆいほどに美しい。その瞳にも、声にも、アダムを深く惹きつける活力が漲っているようだ。それでも彼は、失われてしまったエデンでの日々を忘れることができずにいる。いつまでも生々しい喪失感と、妻への、愛と呼ぶには苦しすぎるほどの恋着、あるいは畏敬の念が、アダムの心を引き裂いている。


エデンを出てしばらくの間、ふたりは以前のように無口だった。新しい生活を始めるために、目の前のやるべき仕事を楽しんでいるイブは、必要な指示を夫に与えることはあっても、たわいのないお喋りを好む性質でもないようだった。アダムもまた、元来はあまり言葉数の多い男ではなかった。それでも、アダムの中には語ることへの欲求が芽生えつつあった。妻に尋ねるべきことがあるのにも気づいた。なぜ私たちは、エデンを追われたのだろうか。なぜ妻は、蛇の誘惑に乗って、禁じられた果実に手を出してしまったのだろうか。


「私を責めているのですか?」


知識の実を口にした理由を聞いたとき、妻はこう反問した。


そうではない。そうではないのだ。最初に知恵の実を食べたのがあなただとしても、あなたの勧めに従ったのは私だ。その結果、楽園を追われたことは、何にせよ私の選択の結果だ。ただ私は、あのとき、私たちの身に何が起こったのか、知りたいだけなのだ。


「私たちは主の言いつけに背いた。だから主は私たちを楽園から追放した。それが全てです。それ以上何を知りたいと言うのです」


違う。それは違う。


アダムはしかし、その先の言葉を続けられない。妻の答えは正しい。ただ、それはアダムが求めていた答えではなかった。イブにしてみれば、夫が何を問いたいのかがわからない。過ぎたことを蒸し返しているようにしか見えない。現に私たちはエデンを追放された。これからは、主の庇護を離れて自分たちだけで生きていかなければならない。それだけが現実であって、その現実を前にして、やるべきことはいくらでもある。イブには、夫がエデンを喪った現実から目を背けようとしているとしか見えなかった。


あなたこそ、どうしてそんなに前向きでいられるのか。エデンの暮らしを、懐かしく思うことはないのか。


アダムは妻に尋ねた。妻の答えは、素っ気ない。


「考えても仕方のないことです。私にはやるべきことがあります。やるべきことがわかっているのに、考えることなどありません」


取り付く島もない妻の言葉は、冷たく、けれども凛として美しく、アダムはただ肯うだけだった。イブは、いまやアダムの全てだった。アダムにとって、女は巨大な謎だった。イブの、あの決然とした瞳は何だろう。なぜ私は、あの瞳にこんなにも惹きつけられるのだろう。あの断固たる声は何だろう。なぜ私は、あの声に従ってしまうのだろう。従うことを喜びだと感じるのだろう。

エデンに暮らしていた頃、アダムは妻を知っていた。アダムは妻を愛していたし、妻が自分を愛していることを当然に受け入れていた。けれども、知識の実を口にしたときから、妻は彼にとって永遠の謎になってしまった。そのとき、彼は妻をイブと名付けたのだ。謎を謎のままにしておくことはできなかった。せめて、名前が必要だった。



月日が流れ、ふたりの間には子供が産まれた。兄はカインと名付けられ、弟はアベルと名付けられた。カインは土を耕すものになり、アベルは羊を飼うものになった。

アダムには、長子の方が可愛かった。カインにはどこか、自分に似たものを感じていた。ただ、子育ては主に母親の仕事だったので、アダムはどちらの子に対しても距離があった。


イブは、カインよりもアベルを可愛がっていた。カインがどことなく神経質で、鬱屈とした性格だったのに対して、アベルは爛漫で、自由だった。母親に甘えるのも、アベルの方が上手だった。


あるとき、アベルの羊がカインの育てた作物を傷つけてしまった。カインは激怒して、その羊を殺した。その羊は、アベルが特に気に入っていた羊だったので、彼は両親にそのことを訴えた。イブはアベルの話を聞いて怒り、カインを叱りつけた。カインは黙っていた。彼は、自分の怒りを言葉にすることができなかった。怒ったら暴力を振るう以外の表現手段を持たなかった。かといって、母親を傷つけるのも嫌だった。


「どうして何も言わないのですか。自分が正しいと思うなら、そう主張するはずでしょう。あなたは自分が間違っているとわかっているから何も言えないのです」


その翌日、カインはアベルを殺した。

人が人を殺すという罪が、どれほどのものであるか、かつてなかったことだけに、アダムにもイブにも判断できず、ふたりは主の裁きを求めた。主は、カインを呪われたものとして、彼の耕した土は作物を生まないものとした。カインは地上をさまよい、さすらう者となった。


カインは両親が暮らす地から追われ、ノドの地に暮らすようになった。こののち、イブはセトを産み、新たに長子とした。家族の間で、カインやカインがノドの地で娶った妻、その子供たちについての話がされることはなかった。セトは一度だけ、会ったことのない兄の存在を父から聞かされたが、セトの子エノシュやその子供に、カインのことは伝わらなかった。



アダムは時々考える。

知識の実を食べれば、神のように善悪を知ることができるのではなかったか。それなのに、彼はいまや何もわからない。禁忌を犯したことは、果たして悪だったのだろうか。カインがアベルを殺したことは、悪だったのだろうか。アベルを哀れだと思うのは当然として、カインに下された罰は、あまりにも重すぎるように思わないでもない。主の裁きに疑問を覚える、今の私は罪を犯しているのだろうか。私は一体、何を知るようになったというのだろう。エデンに暮らしていたとき、彼はすべてを知っていた。禁じられた果実に手を出さないこと。それだけが彼の守るべき規律であり、それを知っていれば十分だった。

彼が何よりも知りたいのは、イブのことだ。イブはいまでも、アダムにとっての謎であり続けている。アベルを失ったイブは、夫の前で初めて涙を見せた。もし、殺されたのがカインだったら、このように泣いただろうか。妻にそれを聞く勇気は、アダムにはなかった。

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