銀彩のエルフ

ヤマナシミドリ/ 月見山緑

一部 銀彩のエルフと血脈のエルフ

プロローグ

 シラカバの樹というのは日当たりの良い場所を好むけれど、幹は細く、あまり欲張って枝を伸ばさないので、大地を陰で覆いつくしてしまうことはあまりない。

 それはこの森も例外ではなかった。白い樹皮が木漏れ日を吸い込み、鮮やかに光っている。シラカバの群生地とはつまり情緒あふれる美しい情景が保障されている。


 だから、その怪物の姿はとにかく目立った。

 その輪郭は遠目から見れば人間のそれに近かったが、少し近づいてみると、異常に縦に長いことが分かるだろう。大の大人二人分はあるだろうかという背丈、しかしその体躯はあまりにもひょろ長い。まるで縦に引き伸ばされたかのようだった。


 その身長を棒のような脚では支えきれないから、これまた棒のような腕を地面につけ支えにしながら、前傾姿勢で移動する。猿のような歩き方で、実際顔はそれに近いのだが、異常に巨大な目と牙が、ただの獣ではないことを物語っている。


 この怪物は、エルフの間ではジュヒカブリ樹皮被りと呼ばれている。その名前の通り、ひょろ長い身体に樹の皮を巻きつけ、樹木に擬態をして狩りをする。しかしいくら背丈が高いとは言っても、その程度では成木には遠く及ばないし、枝も伸びていない。更に樹皮を雑に繋ぎ合わせているから、たとえ擬態をしていたとしても、注意を払えば発見はあまり難しくはない。


 しかし、決して短くない森の道中、無数に生えている木々の中から、いるのかどうかも分からないこの怪物の姿を常に探しながら進む、というのは不可能に近い。この縦に引き伸ばした猿のような怪物は、そうして旅人が油断したところを襲うのだ。

 

 ただこのシラカバの森にいるジュヒカブリは、どうやら様子がおかしかった。纏ったシラカバの皮のほとんどが剥がれていて、黒い短毛に覆われた皮膚があらわになっていた。しかし傍らのシラカバの皮を剥がして纏い直すでもなく、ぎょろぎょろと血走った目をせわしなく動かしていた。


 くるるるるる。やがてこの怪物はいびきのような唸り声を上げて、苛立たしそうに身体の樹皮を剥ぎ取った。泥水のような濁った色の爪には、糸のような繊維が絡み付いていた。

 このジュヒカブリが獲物を逃しその姿を探しているというのは、狩人ではなくとも分かることだろう。


 後頭部を叩けばこぼれ落ちてしまいそうなほど巨大な目玉を、右へ、左へ。その表情には苛立ちと困惑が浮かんでいる。遠くへ逃げた様子はない、そもそも一瞬で姿が消えるなんて有り得ない、ならどこへ――?


 と、その時だった。

 怪物の顔に、葉っぱが二枚、ひらひらと舞い落ちた。黄葉だ。丸みのある三角形はしずくの様な形だが、で縁どられている。しかし怪物がそれを不思議に思うよりも先に、その肩に、背中に、首に、殴打されたような衝撃が襲った――否、落ちてきた――飛び降りたのだ。シラカバの樹上に身を潜めていたその人物は、ジュヒカブリ目掛けて飛び降りると、その首に組みついた。


 尖った耳と白い肌、すらりと背の高い容姿からエルフの少女だということが分かる。編み込まれた銀色の髪は、まるで銀彩――銀で彩られた彫刻のようだった。


 突然の衝撃に、地面に叩き付けらるジュヒカブリ。細い身体のあちこちからは、生物が鳴らしてはいけない音が響いた――ごきん、ぐちゃ。「――アァ!」。ジュヒカブリは裂けるほどに口を開くが、その喉からは声が漏れなかった。少女は怪物の首に、無表情に、無機質に、厚手のナイフを突き立てた。


「カ――カ、カ――」


 びくんと、棒のような身体が跳ねる。致命傷には違いないだろうが、しかし即死には至らなかったようだった。無理やり言葉に直すのならばそんな声を絞り出しながら、怪物は少女を振り落とそうと、立ち上がり滅茶苦茶に暴れ出す。


「ク、カッ、カ――」


 背中にしがみ付く少女に手を伸ばし、彼女の透き通るような肌に、淀んだ爪を突き立てた。「……っ!」。少女はわずかに苦痛に顔を歪めたものの、力を緩めることなく、さらに深く深く、柄まで首の中に押し込もうという程の力で、ナイフを押し込んだ。


 消して短くない間、少女と怪物は格闘していた。泥臭い、命の奪い合い。戦争や狩猟といった命のやり取りを神聖視する風潮は少なくないが、この光景を見てそんなことを口にできる者は皆無だろう。悲鳴すら上がらない。聞こえるのは、命を絞り出すうめき声と、落ち葉を踏む音、そしてたまに柔らかいシラカバが折れる音。


 そして――ようやく別の音が響いた。重いものが落ちる音だった。突然全身の筋肉が弛緩した怪物が土の上に倒れ込んだ。

 それでも少女は怪物から手足を話すことはなく、しばらくそのまま、全体重をかけてナイフを押し込み続けていた。……やがてジュヒカブリが本当に死んでいると確信すると、ふっと、怪物と同じように唐突に脱力し、その傍らに倒れ込んだ。


「はあ――はあ――はあ――」


 荒い呼吸を続ける少女の顔は今までの無機質な表情ではなく、わずかな達成感のようなものが浮かんでいた。

 しかし程なくして体を起こすと、今度は悔しさに目を伏せる。


「ジュヒカブリに不意を突かれるなんて、油断したかな……」


 背嚢はいのうに括りつけてあった弓を手に取る。見事な掘り込みの施された弓だったが、無残に、弦が切れてしまっている。それも磨耗してしまってという風ではなく、乱暴に、引きちぎられたようだった。少女は繊維の絡んだジュヒカブリの爪を恨めしそうに睨んだ。


「……っ!」


 怪物の爪についた自らの血を見て、少女は自らの背中の傷のことを思い出したようだった。しかし少女は、痛みを堪えながら、どこかほっとしたように今度は頬を緩めた。


「限だけで良かった。弓自体は……無事でよかった……」


 張ったばかりだけど、弦、治さなきゃな。背中の傷も、消毒しなきゃな。……染みるかな。これからの行動を思案しながら、少女は白目を向いた怪物の顔を見下ろし、それからゆっくりと足を動かした。

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