一章 銀彩のエルフ

第一話 出立の時は近づき

 エルフはどの種族に対しても差別はしない。醜い子鬼ゴブリンにだって、彼らは他の種族と同じように接する。

 しかしそれは――彼らが高潔で誠実だから、という訳では決してない。彼らにとってはエルフこそが絶対で、他種族を皆等しく見下しているに過ぎないのだ。 


 ――吟遊詩人ウォル・アイアンサイズ/ドワーフ




*




 ……つまり、地上で文明を築いているヒューマンを羨んだ自然神と獣神が創造した存在、それがエルフなのです。

 ヒューマンに変わって地上を支配させようとしたのです。それ故エルフはヒューマンより優れた身体能力を持ち、長い寿命を持つ。

 まあ、その両神の野望が叶ったかどうかは……今の状況を見れば明らかですね。


 ――歴史学者エル・ハギラ/ヒューマン




*




 エルフは滅びゆく種族だ。

 

 ――ある酔っ払いの言葉




*




 ようやっと世界が明るんできた頃、少女はもうすでに身支度を整えて、干し肉を唾液でふやかしながら齧っていた。

 質素な寝床と年季の入ったテーブルと椅子。特筆するようなものは何もない、ただ食事をして寝るだけの、寂しい部屋だった。


 少女は干し肉が好きだった。「朝からそんなもの食べて胃が持たれないの?」。朝から干し肉を齧る少女の姿を見ると、彼女の姉はしばしば、眉をひそめながらそんなことを言った。


 しかしその姉も、もうこの家にはいない。少女の向かいには、今自身の座っているものと同型の椅子が、背もたれに衣類を引っ掛けられて寂しく佇んでいた。

 本来の用途で使われなくなって久しいことは見れば分かる。長い間手入れもしていないので、きっと勢いよく腰を降ろしたら壊れてしまうだろう。


 もそもそと、椅子を瞳に映しながら干し肉を噛み続ける。が、大好きな干し肉なのに、どうにもなかなか呑み込めない。肉が筋張っている訳でも、塩に漬けこみ過ぎた訳でも、口が渇いている訳でもないのに。


 ……しょうがない、少女は椅子の傍らに置いてあった雑嚢ざつのう(様々なものを収納する布製の鞄)から水筒を取り出すと、口を付けてほんの少しだけ傾けた。

 咀嚼を再開し――もう一度水を口に含んだ。味のしなくなった干し肉をようやっと飲み下すと、残りの干し肉は布にくるんで雑嚢にしまいこんだ。


「……ごちそうさまでした」


 他に誰もいないのに、少女は律儀に顔の前で手を合わせる。ふうと一息を吐いてから、今度は自らの髪に手を伸ばした。空気を含んで膨らんでいる銀の長髪を簡単に手ぐしで整えて、うなじのところで一つにくくる。

 本当は高い所で結びたかったが、そうすると長く尖った耳に引っかかってしまって、くすぐったいのだ。


 少女の姉は、少女の銀髪のことが好きだった。幼い頃はよく少女の髪を編み込んで、銀彩ぎんだみ――銀細工のようだと褒めてくれた。

 姉の髪色はくすんだ橙色で癖が強かったから、少女の美しい銀髪に、髪を弄ることに憧れていた、というのもあったのだろう。


 とおん――とおん。見計らったようなタイミングで扉が叩かれた。一回目と二回目にたっぷりと間を開けて、扉に軽く手を打ち付ける――その叩き方で、少女は来訪者を判別する。


「どうぞ」


 扉の方へと首を巡らせる。間もなく扉が開かれる。そこに立っていたのは長いあごひげを蓄えた老人だった。

 日の出のきらめきを吸って光る白髪を後ろで束ね、顎の下あたりまで垂れ下がった神に愛された耳(つまり人一倍長いということ)を持つこの老人は、この森中の村の最長老であるエトバルだった。

 エトバルは相当な老齢にもかかわらず、杖も使わず背筋を伸ばして歩く。彼は踵から足を地面につけて、足音をほとんど立てずに少女の家の敷居を跨いだ。


「行くのか」


 彼は短くそう言った。言葉としては訊ねる形になるが、ほとんど独り言のようなものだと少女は分かっていた。だから少女も「はい」と短く答えた。


「そうか」。エトバルは素っ気なく頷いて、少女の隣に立った。彼が少女の向かいの椅子に座らないのは、それが壊れてしまう恐れがあるということを知っているからではなく、自分の座るべき場所ではないと考えているからだった。


「見つからぬかもしれぬぞ」


「はい、承知の上です」


「かつてのように扱ってはくれぬかもしれぬぞ」


「はい、それも承知の上です」


「そうか」


 エトバルはまた口を閉ざして、じっと少女を見つめた。言いたいことを言い切ったら黙り、少ししてまた言いたいことを口にする。エトバルは常につぎはぎのような喋り方をする。


「そもそも、お前は何を目的に会い行くのだ?」


「……姉に、会いたいのです」


「会うだけなのか?」


「……」


「会ってどうする。説得をするのか?」


「それは、分かりません。会ってどうするのか、どうしたいのかは私にも分かりません」


「それでも会いに行くのか」


「はい」


「お前が“向こう”に行ってしまうということは?」


「……それも分かりません。その気はありませんが――」


「実際に会ってみないと分からない、と?」


「はい」


「そうか」


 そしてエトバルは目を細めた。

 少女は長老の次の言葉を待ったが、彼はそれ以上何も言わず、黙ってきびすを返した。


 ドアが閉まるのを見届けて、ふとテーブルの上に目を落とすと、使い古された布袋が置いてあることに気が付いた。


 エトバルの忘れ物だろうか。そう思って手に取ると、じゃら、という音と共に、その大きさに比較して相当な重量が少女の腕にのしかかる。思わず取り落としてしまって床の上にその中身がぶちまけられる。


 そこに有ったのは銅貨、そして木漏れ日を反射して鋭く光る――幾枚の銀貨だった。


 エトバルが忘れて行った訳ではない、ということは考えるまでもなかった。この村では貨幣なんてほとんど使わない。街との取引で目にすることもたまにはあるが、しかしそれでも銀貨が必要になるほどの取引を見たことはなかった。


「……」


 少女はその場にしゃがみ込むと、銅貨と銀貨を一枚ずつ拾い上げて布袋にしまい直した。テーブルやチ椅子の下も入念に確認してから立ち上がると、少女は胸元で布袋をぎゅうと握りしめて、扉に向かって頭を下げた。

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