栄光の手 3

 犯人逮捕の一報を聞いたその足で向かった先は、伯爵城の入り口だった。遠目に見ている時は優美で開放的にすら見えた城門は、こうして近くで見てみると、重く巨大で厳めしい。

 時間が惜しいと急いで出て来てしまったが、せめてルネがくれた服に着替えてくればよかったかもしれないと、ジョゼは海老茶色の野暮ったいロングスカートを摘まんでは落とし、また摘まんでは溜息を吐いた。隣のルネが肩を竦めて、「だから言ったじゃないか」と言わんばかりに笑うのが、心底憎らしい。


 兜から日焼けした顔を出し、のんびりと欠伸などしていた門番が、ジョゼたちの姿を見て目を瞬いた。見るからに城下町の庶民である子供二人組が、一体伯爵に何の用なのかとでも言いたげな視線を浴び、ジョゼとルネは目を見合わせる。

 二人が会いに来たのは、もちろん伯爵ではなく、その一人娘だ。ジョゼは門番の方へとずんずん歩み寄り、アンナにもらった絹のハンカチを懐から取り出した。いつかの「願い事」を込めた、アンナ手ずからの刺繍が施されたそれは、この世に二つとない一品である。

 訝しげに布を広げていた門番は、端に刺されたアンナの署名を見つけるなり、ぎょっとしたように目を見開いた。


「し、失礼しました! 姫のご友人の方でしたか」

「はい。……あの、取次ぎは、姫がご多忙でなければで構いません。調香師のジョゼ・ルブランと、その友人のルネ・クラメールが来ているとお伝え願えますか?」


「取次ぎは結構ですよ。私がご案内いたします」


 きびきびとした女性の声に、三人揃って門の中を見る。

 柱に付いた扉から、ピンと背筋を伸ばしてこちらを見ていたのは、アンナの侍女だった。


 深々としたお辞儀は、相変わらず姿勢が良い。

 そちらに駆け寄り、ぎこちない礼を返した少年少女に、侍女は少しだけ笑みを浮かべて言った。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ、



◆◇◆



「……まあ! ジョゼ! ルネ!」

「アンナ様、お久しぶりです」

「ええ。二人とも、お変わりないようで安心いたしました」


 愛用のスコップを花壇の縁に置いて駆け寄って来たアンナが、そう言って笑う。これまで深窓の令嬢としてのアンナばかり見てきたため、鼻の頭に泥を付けて、汚れても構わないような格好で土いじりに精を出している姿はなかなか衝撃的だったけれど、考えてみれば王太子との馴れ初めも植物から始まっているのである。むしろ、これが自然な彼女の姿ということなのだろう。

 大きな麦わら帽子を脇に置き、軍手を外して。アンナは改めて、二人に向き直る。


「今お茶を用意してくれていますから、少しお待ちになってくださいね」

「はい、ありがとうございます。……アンナ様、あの花壇は?」

「わたくしの、個人的な庭ですわ。ご覧になります?」


 ふふ、と頬を染め笑うアンナは、自慢の「庭」を誰かに見せられることが嬉しくて仕方ないのだろう。そんな彼女に手を引かれ、ジョゼとルネは小さな小さな「庭」へと足を踏み入れた。


「これは薔薇、こちらも。それにね、実はこれも薔薇なのよ」

「これもですか? 花の形が全然違うんですね。ぼく、こっちの薔薇しか見たことなかったや」

「そうですわね。この島の花壇では、今はこちらが一般的だもの。あちらの薔薇は、古い品種なのですよ。シンプルだけれど、香りがいいの。ジョゼ、気に入りましたか?」

「えっ、あっ……!」


 声を掛けられたまさにその時、件の「古い品種」にくんくんと鼻を近づけていたジョゼは、パッと顔を赤くして振り向く。アンナは可笑しそうにくすくす笑っていて、きまり悪げに頬を掻いたジョゼの思うことなどお見通しのようだった。

 薔薇の香りは香水の定番だけれど、この薔薇は少しそれより野性味のある、良く言えばスッとした、独特の香りがした。この香りを香水に取り入れれば、きっとまた一味違った香りを生み出すことができるのだろう。

 そう告げれば、何やらにんまりと口の両端を持ち上げて、アンナは頷いた。


「ふふ、そうでしょう? ただ、株の数は、あまり多くはないのです。元は野生の薔薇でしたから、森が拓かれるにつれて数を減らしていってしまって。ですが、近頃お父様が、数を増やそうと思っていらっしゃるみたいなの。……あのね、”ヴィエルジェの花嫁”の香りに触発されたのですって」


 アンナが今日も身につけている、アンナのために作られた香り。その不思議な芳香に「香水」というものを見直した伯爵が、ヴィエルジェならではの香料を生み出せはしないかと目を付けたものの一つが、この薔薇だったらしい。

 アンナが育てた花々は、どれもこの島の固有種や、数の減ってしまった原種の株を保護して増やしたものだった。けれど、アンナはもうすぐ海の向こうへ嫁いでしまう。王都まで庭を運んでいくことなどできるはずもなく、アンナにできることと言えば、アンナの知るありとあらゆる植物の生態と育て方を記した「植物図鑑」を、父の為に残すこと。


「……文字はともかく、絵はあまり得意ではないのですけれど。それでも何とか、形にはなってきたのですよ」


 近頃は、夜遅くまでそうして書き物を続けているのだと、アンナはくすくす笑って言った。大変な作業ではあるのだろう。けれど、それもまた楽しいと思えるほどには、嫁いでいくその日のことも待ち遠しく思っているのだと彼女は言う。


「この薔薇だけではありませんわ。クチナシに、ピオニー。それから……」

「この『スズラン』、ですか?」

「ええ。花がこんなに小さくては、香料を取るのは大変かもしれませんけれど。これは、わたくしの……『愛情の証』なんですもの」


 控えめな白鈴を愛おしそうに眺め、アンナは言う。その横顔は、いつもの可憐な乙女でありながらもどこかに甘さを含んだ、ハッとするような美しさだった。

 眩しげにジョゼを見上げて、アンナはゆっくりと口を開く。


「わたくしの育てた花で、いつかジョゼに恩返しができれば嬉しいと思うのです。あなたが……あなたたちが、わたくしを救ってくれた。……トマさんのことは、お聞きになりましたか?」

「……はい。今日、見つかったんですよね」

「ええ。今は、兵士たちの取り調べが行われているそうですわ。……中の様子は分かりません。わたくしには、近づかないようにとだけ」


 アンナが見つめる方向には、高い塀に囲まれた塔がある。そこで行われているのだろう尋問により、誰がどういった結論を導き出すのか、ジョゼたちには分からない。悪魔の催した遊戯に敗れた男が、今一体どのようなことになっているのかだって、想像もつかない。

 けれど、ヴィエルジェを襲った『花の獣』の脅威は去り、町には平和が戻って来た。それならば、これがこの事件の――アンナ姫の物語の、一つの結末だ。


「わたくし、きっと『幸福な花嫁』になってみせます」


 いつだってふんわりとしていた笑みは、愛する故郷を象徴するヴィエルジェ・ブルーの眼差しにスズランの香りを纏って、凛と輝いている。


「アンナ様、お嬢様方。お茶の支度が整いましたが、どういたしましょう?」


 侍女の声に、三人は顔を上げた。今度こそはアンナから離れず、王都までお供しますと道すがら話していた彼女の声は、いつも通りに生真面目だけれど、ほんの少しだけ楽しげに弾んでいるように聞こえる。


 ……本当は、あまりいいこととは言えないのだろうけれど。

 三人は、顔を見合わせてくすりと笑い合うと、侍女に揃って手を振った。


「お庭でいただきましょう! あなたも一緒に、ティーカップは四つ分で!」

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