(14)

「アル?」


 魔法の火しか使えない簡易キッチンから顔を出したララタは、アルフレッドがいないことに気づいた。ほかでもない、部屋の主がいないことに。


 先ほどまでアルフレッドの私室にあとから備えつけられた簡易キッチンに引っ込んでいたララタは、そこからアルフレッドといつものような会話を交わしていた。内容は北方のさる領地で新たな魔法書が発見されたらしい――というような事柄であった。


 しかしその会話がふつりと途切れる。ララタが言葉を発しても、リビングにいるだろうアルフレッドから急に言葉が返ってこなくなったのだ。


 はじめ、ララタはアルフレッドが寝入ったのかと思った。基本は真面目な彼が、他人と――それも、ほかでもないララタとおしゃべりしているときに眠ってしまうかと問われれば、疑問符を提示せざるを得ないが。まあ、そういうこともあるときはあるだろう、というのがララタの答えだ。


 アルフレッドは忙しい。王子として国内外を忙しく飛び回ることは珍しくなく、特に社交に最適な気候が続くとなれば、なおさらだ。気温の変動が激しく、予測がつかないこの世界にも、安定期と呼べるような平穏な時期はある。今がちょうどそういう時期にあたる。


 だから疲れて寝落ちでもしてしまったのかとララタは思った。


 不快感はない。付き合いは長く、気心が知れた仲だ。平素のアルフレッドが失礼にも会話の途中で寝てしまうような輩ではないとわかっているからこそ、どちらかといえば母親のような気分になって、彼の様子を見に行った。


 が、いない。


 どこにもいない。


 アルフレッドの部屋は王子の私室らしくそれなりに広いものの、かといってひとを捜すのに苦労するほど広大ではない。隠れられる場所だって限られている。


「ちょっと、アル?」


 豪奢なソファの陰を覗きつつ、ララタはアルフレッドの名を呼んだ。しかし、返事はない。


 次いでララタはリビングと同じくらいの広さがある衣装部屋に入ったが、そこは薄暗くひとのいる気配はない。実際に、アルフレッドの影も形もなかった。


 アルフレッドが部屋から消えた――というのは早い段階でララタは理解していた。ひとにはそれぞれ、固有の魔力の流れがある。そして魔力はどれだけ抑えていても少しずつ体内から流出して行く。もちろんそのぶん、また体内で魔力が製造されるのだが。


 つまりはその自然と発せられる魔力を追えば、アルフレッドの場所など悠々とわかる――ハズであった。


 しかし、いないのだ。ないのだ。少し前までごく普通に感じられたアルフレッドの魔力の流れが、さっぱりわからなくなっていた。


 その代わりと言ってはナンだが、甘い香りが周囲に立ち込めている。どちらかといえば人工的な、もったりとした甘ったるい香りだ。嗅いでいるだけで舌の根が甘くなってくるような、そんな匂いが滞留している。


 ララタは鼻を動かして甘い匂いのもとをたどって行く。なぜそうしたのかは、ハッキリとはわからない。


 ただ、アルフレッドが消えたことと、急にこの甘い香りが漂ってきたこととは、なにかしらの因果関係があるような気がしたからだ。……それはしょせん、「気がした」からにすぎない程度の発想であったが、果たして。


 素直に香りの元をたどって行くと、着いた先は寝室――の奥の壁に取り付けられた扉だった。


 この扉がなにか、ララタは知っている。隣の王子妃の部屋の寝室に繋がっている扉だ。王子の私室と王子妃の部屋とは左右対称になっている。ちょうど、寝室が隣り合うように。そういう風に元から造られているのだと、アンブローズおうに聞いた。


 なにせ、「お試し妃」を引き受けたものの、王子妃の部屋へ入るのをララタが拒んだ理由が、これだ。忘れようハズもない。


 理由は簡単で、「心臓がもたないから」。好いてる相手が壁一枚どころか、扉一枚隔てた場所にいて、いつだって入ってこられるなんて、ララタは己の心臓が耐えられる気がしなかった。


 しかも、アルフレッドはララタのことを勘違いでなければ好いているようなのだし――。


 まあとにかくそういう――他人からするとくだらない――理由でララタは王子妃の部屋に入ることを拒絶し、アルフレッドとは今まで通り別居状態で暮らしているのであった。


 アルフレッドは時折そのことで文句を言う。もちろん、本気の文句ではないのだが、「引っ越さないか」と実に気安く提案してくる。アルフレッドがララタの胸中を察しているのかいないのか、彼女には計り知れなかった。


 おまけにララタは素直じゃないので毎度毎度、これまた気安い調子で断ってしまう。そのあとで少しだけ罪悪感を抱くのは、もはやルーチーンと化していた。


 ……そんな複雑な思いを抱かざるを得ない王子妃の寝室に繋がる扉から、強く匂いが漂ってきているようなのであった。


「アル?」


 ララタは扉の先にだれもいないだろうことを確信しながらも、礼儀として扉を軽くノックした。コンコン、と木材を叩いたときと同じ音がする。


 ララタはしばらくのあいだ、扉に彫られた見事な草花のレリーフを眺めたあと、意を決して金属製のドアノブをつかむ。


 使っていないから開けにくいかと思えば、そんなことはなかった。当たり前だ。使っていないとはいえ、王子妃の部屋。王宮に勤める女中たちが毎日のように隅から隅まで掃除をしていることは、想像に難くない。


 とすると、この扉も毎日のように開け放たれているのだな、と思うと、ララタはなんだか奇妙な気分に陥った。


 まあそれはともかくとして、と気を取り直しララタは王子妃の部屋に上半身を入れる。足はまだアルフレッドの寝室にあった。


 顔を出してみれば甘ったるい匂いがさらに強まって、その強さが目に見えるような気になった。


 呼吸をするのも少し苦しい。鼻腔から体内へ、甘ったるい香りが入ってくるたびに、ララタはなんだか体に悪いものを摂取している気になった。


 王子妃の部屋は暗かった。鎧戸が閉じているのだろうか? しかし、それにしたって妙に暗い。


 いよいよ気になったララタは、王子妃の部屋に足を踏み入れた。


 途端にパッと周囲が明るくなって、ララタの視界が白飛びする。思わず固く目を閉じて、しばらくしてから開けば、そこは陽光差し込む王子妃の部屋が広がっていた。


 ……が、ララタは王子妃の部屋を見たことがないので、そこが本当に彼女が思うような場所なのかは疑わしかった。


 なにより部屋は書物で埋まりかけている。あっちを向いても、こっちを向いても、魔法書が山と積まれていた。調度品の類いは豪勢なのに、それらは見た目はボロのような魔法書たち――それでもその価値は高い――の中に埋まっていた。


「あら?」

「え?」


 ララタはキョロキョロと周囲を見るのに必死だったせいで、だれかが部屋に入ってきたことに気づかなかった。


 彼女は赤毛を家庭教師ガヴァネスのように地味に束ねていて、同じように地味なドレスが覆うそのお腹は、ぽっこりと膨らんでいる。そしてララタと同じ目で、ララタを見ていた。


 ……というか、同じ、だった。髪の色も目の色も――顔のつくりも。部屋に入ってきた彼女はララタと同じだった。


 だからララタは彼女を見た瞬間に「あ、自分だ」と思ったのである。それはやってきた彼女も同じようだった。


 しばし気まずく視線を交わしあったあと、ララタよりも幾分か老けた顔をした彼女は、「ま、座って」とソファとカウチが置かれた一角を指した。


「思うに、過去や未来の縦軸の移動と、異世界と異世界の横軸の移動ではそれぞれ使う部分――つまり、魔法式とか魔力の方向性とか――が違うのよね、きっと」


 彼女の名前はララタ。まだ小娘のララタよりずっと大人びて見える――実際に大人である彼女は、推測が正しければ未来のララタだろう。……というところに早々に落ち着いたふたりのララタは、なぜこの邂逅が実現してしまったかについて話し合っていた。


 本人同士、ということもあって口調は気安い。ポンポンと会話も進む。なぜならば、同一人物だからにほかならない。大人のララタは年月を経てそれなりに性格や考え方は変容しているようだったが、根っこの部分は少女時代からいくらも変わっていなかった。


 それは喜ばしいことなのかは、小娘のララタにはわからない。ただ、自分はそれなりに年月を重ねても、変わらないという事実だけが、今目の前で動いている。


「それで、わたしは元の時間軸に帰れるの?」

「わからない。突発的にきたのなら、また突発的に帰れるんじゃないかしら」

「その……縦軸の移動に関する魔法書とかは――」

「あるにはあるけれど、実現できるかどうかはまた別。この世界とわたしのいた世界の魔法体系って完全に同じものじゃないから。――知ってるでしょ?」


 なんだか大人のララタの態度がドライだなと小娘のララタは思ったが、他人からすると平素の自分はこう見えているのかもしれない。そう思うともう少し常から愛想をよくしておくべきなのかも、と小娘のララタは自らを省みた。


 大人のララタが淹れてくれたハーブティーを口にする。小娘のララタがいつも淹れるものと同じ味がした。


 ちなみに大人のララタの前のローテーブルにはカップもソーサーもない。近頃は飲む気が起きないのだ、と彼女は言っていた。恐らく、妊娠しているからだろう。


 大人のララタの手足はやっぱり細い。小娘のララタの手足が枝のようなみすぼらしさであるが、大人のララタの方はそれなりに肉がついている。それでも太っているようには見えず、お腹がぽっこりと膨らんでいるのは、妊娠しているからに違いなかった。


「ねえ……そのお腹について聞いてもいい?」

「いつ聞いてくるかと思ってた」

「じゃあ――だれとの子なの?」


 小娘のララタはドギマギしながら答えを待つつもりであったが、大人のララタはほとんど即答する。


「アルよ」

「……やっぱり?」

「わかっていたでしょう?」

「まあね。むしろアルじゃなかったらだれなのかと……相手が気になりすぎるわ」

「ちなみに一人目じゃないからね」

「え?」

「仕方ないのよ。わたしが后になっちゃったから。たくさん産まないとうるさいのが湧いてくる」

「た、大変ね……」

「そうでもないわ。助けてくれるひとがいるし、お金の心配もないから。わたしは恵まれてる」


 大人のララタの言葉に、小娘のララタはちょっと虚を突かれた。


「自分が恵まれている」と小娘のララタはあまり思ったことはなかった。両の親がいないから貧乏で、元々の知識も希薄で、それで常にいじめっ子の標的にされていた。せめて貧乏でも貧乏なりに親が揃っていれば……なんて詮ない考えを幼いララタは抱いたこともある。


 けれども今、大人のララタはなんの気負いもなく「わたしは恵まれている」と言った。そこには自慢げな様子もなく、ただ淡々と事実を述べているだけのようだった。


 ……そういえば、そうだよなと小娘のララタは思う。


 王宮から給金も出ているし、この世界で魔法は珍しいものだし、魔物退治は正直に言って命の危険を感じることもあるが、感謝されて「魔女様」なんて崇められるし。


 目からウロコが落ちる、とはこんな感じなのかもしれない。


「ただいま帰りました! 母上!」


 扉の外でそんな声が響いてくる。内容から察するに、ララタの子――つまり、アルフレッドとの子供だろう。そう思うと小娘のララタは不思議な感覚に陥った。


 同時に、ふわりと例の甘ったるい香りが漂ってくる。なんとなく、ここにいられる時間はあとわずかのような気がした。


「ねえ、アルと結婚したのよね?」

「そうね」

「どうして?」

「秘密」


 大人のララタは立てた人差し指を唇にあてた。


「カンニングはよくないわ。それにここはパラレルワールドかもしれないし……。どんな結果になるかはあなた次第。そうでしょ?」


 小娘のララタは、なんと答えればいいのかわからなかった。


 そうしているあいだに扉の外がにわかにさわがしくなってくる。小娘のララタは、未来の自分はどんだけ子供を産んだのだ?! と思った。


「ねえ、代わりに開けてくれない?」

「え? いいの?」

「いいの」


 小娘のララタには、本当にそうしていいのかどうかよくわからなかった。大人のララタを小さくしたような自分を見て、アルフレッドとの子たちはなんと言うだろうか? そう考えると思考の渦に放り投げられたような気になる。


 しかし考えていても仕方がない。扉の外の声は大きくなって、もう勝手に開けられそうだった。


 小娘のララタは「えいやっ」と扉のノブを回した。


 その瞬間、ドンッと小娘のララタの腹のあたりになにかがあたった。たぶん、ララタとアルフレッドの子だ。それだけはなんとなくわかったララタだったが、幸いと言うべきか残念と言うべきか、彼だか彼女だかの顔を見ることは叶わなかった。


 気がつけば例の甘ったるい香りはなくなっていて、ララタは王子妃の寝室の扉の前に立っていた。寝室の扉と言ってもリビングとを出入りする方ではなく、アルフレッドの寝室と繋がっている方の扉だ。


 つまり、ララタは元の場所に帰ってきたのだった。


 背後の扉の向こうでは、なぜか興奮した様子のアルフレッドの声がする。必死にララタの名前を呼んでいるようだったが、肝心の彼女はしばらく王子妃の寝室でぼんやりとしていた。


 あまりにも衝撃が強すぎた。


 そして――余韻に浸っていた。どういった類いの余韻なのかはララタにはわからなかったが、それは「余韻」としか言いようのないものだった。


 そうしてアルフレッドがララタを見つけるまでのしばらくのあいだ、彼女は先ほどまで大人の自分が座っていたあたりを眺めていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る