(13)

 ララタはアルフレッドの「お試し妃」というものになったので、王宮で働く人々からの呼称が「魔女様」から「妃殿下」に変わった。


 が、もちろんそんな畏れ多い呼び名にすぐさま慣れるわけがない。


 今でこそこの国の王室とは親密な関係のララタであるが、元の世界では一般庶民。そこらの民草なのであった。


 そういう意識が今でも――こちらの世界にきてからの方がすでに長いのに――抜けないからこそ、おいそれと「妃殿下」などと呼ばれても反応できないのであった。


 これにはアルフレッドにだって原因の一端はある。と、ララタは半ば責任転嫁する。


「『お試し妃』になって」というアルフレッドの懇願にララタが折れた形であるが、肝心の当人であるアルフレッドの態度がほとんど変わらない。変わった点のもあるにはあるが、あまりにも些細で、微細だ。


 だからどうにもララタは「お妃様」なるものに期間限定と言えどなっている、という意識が薄いのである。ともすれば忘れかけることすらある。


 これはいけないとララタは思ってはいるものの、しょせんは思っているだけだ。慣れる方法なんて時間の経過ぐらいしかないとララタは思っている。それに恐らく慣れるころには「お試し妃」なる期間限定の奇習も終わっているハズだと、高を括っている部分がある。


 つまり、ララタはさほど深刻には捉えていない、ということだった。


 その日もララタは週に一度の王宮詣で、といった感じで顔を出した。実際は一昨日もアルフレッドのところへ顔を出しているのだが、それはそれ、これはこれ。


 実態は今取りかかっている魔法書の解読に難航していて、その息抜きのために「週に一度の王宮参り」を利用して顔を出したというのが真相だった。


「お試し妃」と言えども、アルフレッドの私室の横にある王子妃の部屋は住人がいない。ララタがそこまではしないと宣言したせいだ。なぜなら王子の私室と王子妃の部屋は内部が扉ひとつで繋がっている。そんな部屋の住人になっては、ララタの心臓はすぐに破裂してしまうだろう。


 別居している形となっているのも、己がかりそめの夫婦ごっこをしている意識が薄い原因だと、ララタは気づいてはいた。気づいてはいたが、アルフレッドの私室のすぐ隣に四六時中いるなんて生活は、ちょっと――心臓が――耐えられそうにない。


 ――仕方のないことなのよ。死んだらおしまいだもの。


 そんな言い訳を心の中でしていたララタに、「妃殿下」という声がかかる。


「ん?」と思ってララタは振り返った。しかし王宮の白亜の渡り廊下には、だれもいない。ひとっこひとりいなければ、ひとの気配すら感じられない。


「気のせいかしら?」そう思ってララタはまたテクテクと歩き出したが、すぐにまた「妃殿下」という声がかかる。どこか面白がっている風な声音だった。


 ララタはその、「面白がっている風な声音」を聞いて、びっくりした。


 あまりにもアルフレッドが面白がっているときの声にそっくりだったからだ。


 含んだ部分がありながら、嫌味な感じがしない、上品な笑い方。まさしくアルフレッドがちょっと面白がっているときに出す声そのものだ。


 ララタはびっくりしてもう一度振り返った。


 しかしそこにはだれもいなければ、なにもいない。ひとっこひとりいないし、ひとの気配もしない。


「ふふっ」


 今度はララタの目の前で笑い声がした。アルフレッドの声に違いないが、それはアルフレッドが発したものではなかった。


 これは――「声マネ」だ。そういう、魔法現象だ。


 どういった過程を経て「声マネ」が現れるのかは謎に包まれているが、ごくまれに発生する魔法現象である。ララタは『世界の珍魔法現象!』というような、ちょっと俗っぽい本でそういうことが書かれてあったことをありありと思い出す。


 当時は眉唾だったが、まさか実在する魔法現象だったとは……。ララタはちょっと感慨深く思った。


 一瞬だけアルフレッドがいたずらをしているのかと思ったが、彼の魔力が放出される気配は感じられなかった。


 そもそも、アルフレッドは基本的に真面目なので積極的にこのようなイタズラをするとは思えない。


 そもそも、そもそも、ここのところのアルフレッドはかなり忙しいハズ。


 そもそも、そもそも、そもそも、人間が透明になれる魔法なんてものはおとぎ話の中だけのハズ。


 そういうことを一瞬にして弾き出し、総合した結果、ララタはこれはアルフレッドではなく、アルフレッドの声マネをする魔法現象なのだと看破した。


 そして心配になった。例の『世界の珍魔法現象!』なる本では、「伝説であるが」という前置きをつけていたが、この「声マネ」はマネする人間の声を奪うことがあると書かれていたのだ。


 ララタはそれを頭から信じていたわけではない。その本自体、テキトーなことが書いてある部分も多いと、成長してから知ったこともある。


 しかしもし例の本に書かれていた「伝説」が、本当だったとしたら――。


 ララタはアルフレッドの執務室へ急行した。


「ちょっとアルに用があるんだけど!」


 大急ぎで駆けてきたのでバリバリのインドア派で、普段から「鍛える」などという言葉からは程遠いララタは、息も絶え絶えだ。


 普段であれば顔パスで通してくれる近衛兵は、顔見知りのララタを見て気安げに答える。


「ああ、殿下でしたら今は休憩しに私室へ戻られていますよ」

「ありがとう!」


「こっちじゃなかった!」とララタはまた大慌てで王宮の廊下を駆けて行く。それを不思議そうに見送る近衛兵の視線などお構いなしだ。今ばかりは「魔女様」だとか「お妃様」だとか言ってられる場合じゃない。


 アルフレッドが心配だ。そういう気持ちだけでララタは洗練されていないフォームで走った。


「アルのそばにいたいな」


 そうやってたどりついたアルフレッドの私室の扉をノックしようとしたところで、女の声が聞こえてきた。だからララタはびっくりした。それこそ地上から五センチほど浮いてしまいそうなくらい、仰天した。


 え? 浮気? ……そんな言葉が即座に頭に浮かんで、ララタはまたおどろいた。


 たしかにララタは今はアルフレッドの妻だ。……かりそめの。しかし王とその男児に限っては一夫多妻が認められているこの国において、お試しにしろなんにしろ、王あるいはその男児の妻は、夫の浮気は見逃すものなのだ。それが妻としての度量ってやつなのだ。……異世界人のララタにはまったく理解できないのだが。


 しかし郷に入りては郷に従え、というのはそれなりに理解できる。理解できないものを頭から否定にかかるのは「なんか違う」ともララタはわかっている。それでもまあ、「浮気を見逃す度量ってなにさ」と思ってしまうのがララタだった。


 閑話休題。とかくそのような関係のない思考がララタの脳裏を駆けめぐったが、言いたいことはひとつ。


「散々お妃様の気分になれないって思っておいて、アルフレッドに女がいるとわかると『浮気』だと思うってどういうこと?!」――だ。


 たしかにララタはアルフレッドのことが好きだ。けれどもララタはアルフレッドの本当の妻でもなければ、恋人ですらない。


 なのに「浮気」と思う自分の精神構造はどうなっているんだ――。というのが、ララタがおどろいた理由である。


 ララタは血の気が引いた指でアルフレッドの私室のドアノブを握り、ゆっくりと、音を立てないように扉を開いた。


 そこには――


「ねえ! 今度は『アル、大好きだよ』って言ってみて!」


 と、興奮気味になにもない中空へと話しかけるアルフレッドがいた。


 ……ララタは一瞬にして己の間違いを理解し、そして場の状況を悟った。


 自分の声というものが他人にどう聞こえているか、録音技術がなければ、己には一生知るすべがないものなのである。


 だからララタは先ほどの声が、自分の声をマネたものだとは微塵も気づかなかった。


 だから女の声というだけで、短絡的に「浮気だ」などと世迷言を繰り出してしまったわけである。


「アル……」


 ララタの口から、地獄の底で凍りついた悪魔が発するような地を這う声が出た。


 アルフレッドはそれが瞬時に「声マネ」から発せられるものではないと気づいたらしい。そういうところは、敏いのだ。アルフレッドは。


「あ……ララタ?」

「……なにやってんの?」

「……あはは」


 笑って誤魔化そうとするアルフレッドに、ララタは盛大なため息をついた。


 ……結局、あの本に書いてあったことは伝説にすぎなかったのだ。そう思うと脱力するしかなかった。アルフレッドに対しても、自分に対しても。



「え? ララタのところに僕の声が?」

「そう」

「へー。なんて言ってたの?」

「別に面白い話はないわよ。『妃殿下』って呼んでくるだけだった」

「なにか言わせた?」


 きらめかしいアルフレッドの目を見て、ララタは「バカじゃないの」と言いそうになって、さすがにやめた。


「アルみたいなことはしてないから」

「そうだよね」

「……え?」

「だって僕に言えばどんなセリフだって言ってあげるもの」


 アルフレッドはそう言うや、ララタの耳元に自身の顔を寄せてささやく。


「ねえ、なんて言って欲しい?」


 アルフレッドの声にララタの背はゾクゾクとしてしまう。不快な感覚ではなかった。むしろ、快感が伴うものであった。


 だからそれを打ち消すようにララタはアルフレッドの顔を押しのける。


「耳元でしゃべるなっ!」

「えー……」

「えーじゃない!」


 そうやって痴話喧嘩にも満たないじゃれあいを繰り返しているあいだに、ララタの「声マネ」はどこかに行ってしまったのだが、ふたりの言い合いはなかなか終わらないのであった……。

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