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 サニラが息を呑んだ。


「いやあ、怖いねえ。この町も人が増えてきたからね。最近じゃ、クジラを見るのにちょうどいい場所とかで、観光客も増えてきたじゃないか。新しいリゾート施設を建てる計画もあるらしいしね。

 こんどその件で、町長が町の広場で説明会をするんだろ? 森林を切り開くとかで。どんどん変わっていくね、寂しいこった。それにしても犯人が早く捕まることを願うよ。強盗犯がのんきにうちに魚を買いに来てると思うと、ぞっとするね」


「本当にそうざますねぇ。私も強盗犯が近くにいると思うと……」


 マトリはたるの間で音をたてないようにしながら一心不乱に話を聞いていたが、急にクロユリがこちらを見た。不意を突かれ、マトリはクロユリと目が合ってしまった。どうも嫌な感じだ。


「わたくしも枕を高くして眠れないんざますの。次はうちの番かもしれませんものね。まあうちは大したものは置いてないですし……」


 クロユリは宝石のついた指輪を、わざと口元に持っていったようにマトリには見えた。


「犯人が1日も早く捕まってくれるか、自首してくれるのを願ってますわ。犯人が捕まる日は、そう遠くないと思うんざますの」


 クロユリはたっぷりと含みを持たせたような言い方をすると、何も買わずに店から出て行った。


 マトリはほっとして樽の間から出ると、安くなってる魚を探した。しかし頭の中では、クロユリの発言が渦を巻いていた。


 強盗犯は道場まで来るだろうか。窓に板を打ち付けるべきか悩んだが、少しして考え直した。まさか強盗犯が、町外れの、金目のものは何もない道場に押し入って来るわけがない。


 サニラは首をふりふり、マトリのほうに向き直った。


「全く物騒な世の中になったものだね。マトリちゃん、あんたの家も気をつけなきゃいけないよ。今日は何をお望みだい? 全部、今朝水揚げしたものさ」


 マトリはおすすめの箱を見回した。ヒックスの好物はサーモンだったが、サーモンはどこにも見当たらなかった。プロックトンは、好き嫌いを言ったことは一度もない。


「サニラさん、今日はサーモンのいいのはないの?」


 マトリが聞いた。


「サーモンはダメさ、あるにはあるが安くできないよ。特に天然物のサーモンはもう手に入れるのは難しいね。タラなら安くできるよ。あとはムール貝もいいのが入ったよ」


「じゃあタラを1キロお願いします」


 サニラが新聞紙にタラの切り身を包んでいると、店の奥の扉がバタンと開き、痩せた、浅黒い肌の中年の男が飛び出してきた。暑いわけでもないのに、尋常じゃないほど汗をかいている。血走った目は、今にも飛び出しそうだ。


「ペスカードさん!」


 マトリは叫んだ。ペスカードは急いでいるようだった。樽の間の通路に立っていたマトリを吹き飛ばすと、謝りもせず、どこかへ走り去ってしまった。


「ちょっとあんた!! いい加減におしよ!」


 サニラがタラを持ったまま後を追いかけ、走り去っていくペスカードの後ろ姿に向かって怒鳴った。


「全く、救いようのない男だね、マトリちゃんごめんよ。怪我はないかい? お詫びにムール貝も入れておくから」


 マトリは樽につかまって立ち上がった。樽からあふれた魚臭い水がスカートについてしまった。洗ったばかりだったにと思いながらスカートを摘み上げ、臭いをかいでみた。


「ペスカードさん、何かあったんですか? 以前はもっと明るい人でしたよね」


「どうしようもないヒモ男さ」


 サニラは新聞紙を持つ手に力がこもった。


「以前はああじゃなかったんだけどね、最近は新しい商売の準備をしているとか言って、働きもしないであの調子だよ。困ったもんだよ」


「ちょっと痩せたように見えますけど」


「ああ、やっぱりマトリちゃんもそう見えるかい? どうも私に隠してることがあるみたいなんだけどね、私には分かってるさ。どうせまたなんかの賭けで負けたんだろうよ。もし返せないくらいの借金を抱えてるようなら、私はあの人と別れるよ。もう腹は決まってるんだからね!」


 サニラは太ったタラを丸々一匹つかみ上げると、まな板の上にのせて包丁を荒々しく叩きつけた。哀れなタラの頭が吹っ飛んで床をころころ転がり、表の通りまで転がって、どこかの猫が頭をくわえて走り去った。


「私も心配なんだよ、あの人は前から賭け事は好きだし思い込みの激しいところもあったけど、ここ最近の変わりようはちょっと異常な気がしてね。前はそれでも一緒に楽しく商売してたのに、最近は店にも出ないし、ひとりで何かつぶやいてたり、突然狂ったように庭の手入れをしだしたりするのさ。あの人がもう戻ってこないかと思うと……」


 サニラはタラをつかんだばかりの生臭い手のまま目頭を押さえた。


「サニラさん……」


 まだペスカードに笑顔があった頃、サニラとペスカードが二人で海岸沿いを散歩しているのを見たことがあった。


 そうだ、あの時二人はおしどり夫婦と呼ばれてた。


 マトリの記憶では、ペスカードは一年くらい前まで店に毎日出ていた。もっと陽気だったし、冗談を言っては客を笑わせた。サニラはそんなペスカードの様子を、嬉しそうに見守ってたっけ。


 マトリは目頭が急に熱くなり、鼻の奥がつんとした。きっと、どうにもならないことがペスカードの身に起こったのだ。ペスカードは本当は今でもサニラを愛しているけど、何か事情があって自分を見失っているに違いない。


 マトリは急いでサニラに近寄ると、生魚の臭いがぷんぷんするサニラの両手をしっかりつかんだ。サニラは驚いた様子だったが、マトリが鼻息も荒くまくしたてた。


「サニラさん、気を確かに持ってください。なんとかなりますって! 今までだってなんとかなってきたじゃないですか。お父さんも『信じていれば大抵はうまくいく』ってよく言います」


 サニラの目に、みるみる涙が溢れてきた。サニラは薄汚れた生臭いハンカチで思い切り鼻をかむと、うんうんとうなずきながらムール貝をひとすくい紙袋に入れた。


「ありがとう、ありがとうマトリちゃん。強く言ったところであの人が変わるわけじゃなし、信じて待つしかないんだよね。つまんない話を聞かせて悪かったね」


 サニラはそう言うと、ムール貝をさらにもうひとすくい紙袋に入れて渡してくれた。


 その夜はフィッシュアンドチップスに、鹿のローストと蒸したムール貝の豪華な食事になった。ヒックスは久々の肉に大喜びだったし、ラフィキは黙々と食べ続け、全部おかわりした。

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