第2章 うわさ話

2-1

「あれはわしがこの道場を買って、プロックトン式格闘術が世に出始めたばかりのころじゃった……」


 プロックトンは再び目を閉じて仙人顔になった。ヒックスが「世に出る?」とつぶやいたが無視された。マトリは人差し指を口元に当て、シーとヒックスを注意する。


「およそ十五年前の話じゃ。朝稽古を終えたわしは井戸の水をむため裏口から外に出た。ちょうど朝日がのぼったばかりで、辺りには朝靄あさもやが立ち込めておった。裏庭はまだ単なるやぶじゃった。その藪から一羽の巨大なモアが現れたのじゃ」


「モアとは……あの伝説の鳥のことですか?」


 ラフィキが聞いた。


「そうじゃ。しかしモアは実在するぞ、わしは確かにこの目で見たのじゃ。身の丈は三メートル以上あった。あのモアは金茶色の毛並みをしておったな。驚いたぞ、朝靄の中からモアが現れたときは。

 そのモアはくちばしに白い包みを加えておった。長い首を下げてきてな、わしに包みを受け取ってほしいようじゃった。わしはその包みを受け取った。中には生まれたばかりの赤子が入っていたのじゃ。その赤子こそマトリじゃった」


「まさか……モアが人間の子どもと関わりを持つ機会などあるのでしょうか? 僕は四年ほど白狼山はくろうさんに住んでいますが、一度もモアを見たことがありません」


「実は俺も、フェツの大森林にはよく入るけどモアは見たことないんだな」


 ラフィキの言葉に、ヒックスも同意した。


「私も、実は一度も見たことがないの。ほんと、不思議よね」


 マトリが言った。マトリは自分をプロックトンの元に運んだというモアに会ってみたくて、モアについて調べ、森を歩き回るときもモアの痕跡を探していたのだが、出会えたことは今まで一度もなかった。


「うむ……実に不思議なことじゃ。モアはマトリをわしに託すと、森に帰って行きおった。マトリの身元を証明できるような物は何も見つからなかった」


 四人はしばらく沈黙した。


「マトリよ、前も言うたがな……」


 プロックトンが沈黙を破った。


「もし本当の両親を探したいというのであれば、わしは本気で探してやるぞ」


 マトリはプロックトンを見つめた。


 自分が何者で、両親が誰なのか、もちろん興味はある。しかしマトリは今まで一度も本気で両親を探しまわろうと思ったことがなかった。


「いいの。私にはお父さんがいるから」


 マトリはいつもと同じ答えをプロックトンに告げた。マトリからしてみれば、見つかったとしても赤の他人にも等しい両親を探し回ることに力をそそぐよりも、プロックトンやヒックスとこの道場で生活することの方がよほど大切だった。


 むしろ、今実の両親のことなど心配している場合なのか? ジャドソンにこの道場を奪われてしまえば、それこそマトリにとって一大事だ。


「それよりお父さん! ジャドソンは私に『もう厄介ごとに片足を突っ込んでいる状態』って言ってたわ。お父さん、何か心当たりあるんじゃない? お父さん、町の人に嫌味言われてもすぐ忘れちゃうし」


「ぬう……むむむむむ」


 プロックトンは腕を組んで考え込んでいるようだったが何も答えない。


「わからないなら無理しないほうがいいぜ、じじい。ただでさえ頭弱いんだから」


 ヒックスが言った。


 プロックトンの顔がみるみる赤く染まり、体がプルプルと震えだした。


「な! ヒックス、今なんと申した! わしから見ればお前の頭こそひよっこ同然じゃ! ヒックス、今から修行じゃ! 外で『風を感じる修行』をするぞ。強い人間になるには心と体両方を鍛える必要があるのじゃ! ついてこい!」


「何言ってるんだよ! まだメシの途中じゃんか!」


 ヒックスは逃げようとしたが、ラフィキに捕まった。


「師匠……お供いたします」


「ラフィキ、やっぱりじじいの味方かよ!」


「お父さん、それに二人とも、夕飯までには帰ってきてね」


 三人が裏口からフェツの大森林に入っていくのを、マトリは道場で見送った。


* * *


 マトリは夕飯の魚を買うために、カイコウラ町の商店街に来ていた。


 春の柔らかい日差しが降り注ぐ、気持ちの良い午後だった。日差しは暖かく、しかし海から吹いてくる風はまだ冷たい。プロックトンたちはこの風を感じながら修行をしていると思うと、マトリは隠れてひとり笑いした。


 町はのどかな雰囲気だ。海にぷかぷか浮かぶ漁船が商店街からも見える。

 

 パイプを加えた白髭の漁師が、底引き網らしきものを手繰り寄せていた。三角屋根の家々は石造り、鉄製の華奢きゃしゃな街灯、真っ赤な郵便ポスト、ほがらかな買い物客たちは皆春色のスカートや帽子を身につけて歩いている。町のどこからも、ジャドソンの悪巧みは感じられない。


 マトリは町の魚屋、ザ・フィッシュに近づいた。ザ・フィッシュでは二人の女性が忙しく世間話をしていたが、そのうちひとりがこちらを向いた。


「おや、マトリちゃん。最近どうだい? タラのいいのが入ったんだよ。今夜はフィッシュアンドチップスなんてどう?」


 声をかけてきたのはザ・フィッシュのおかみさん、サニラだ。恰幅かっぷくのよい、人の良さそうなおばさんで、いつも買った魚とは別にイワシをおまけしてくれる。


 その隣にいるのは、町でも悪趣味で名高いクロユリだった。真っ赤な唇に、同じくらい真っ赤なコートを着ている。噂では、一週間で口紅を丸々一本消費するそうだ。


 黒い髪は、これでもかというくらい縦に巻いて肩に垂らしてあった。指には宝石のついた指輪をゴテゴテとはめており、首には本人いわく本物のダイヤモンドのネックネスをつけている。


 マトリはクロユリから距離をとって、魚と氷が山積みになった樽や木箱を見て品定めしているふりをした。クロユリに捕まると、プロックトンの生活ぶりを事細かに聞き出そうとしてくるか、さもなければ自分の悪趣味を棚に上げて、プロックトンの道場が町の景観を損なっているとケチをつけてきたりするのである。


 クロユリは愛用の角縁つのぶちメガネの奥から黒目をギラギラさせ、町民の粗探しをすることに人生の大半を費やしていた。


「じゃあライト家も空き巣被害にあったっていうのかい?」


 サニラの声だ。


「そうざますよ。それだけじゃないざんすよ、ホワイト家もそうざますし、ムーア家なんか強盗被害に会ったざます! もちろん犯人は黒ずくめで顔はわからないざます。ねえ、この町も物騒になったざますね。もちろん警察が動いていますよ。うちの旦那は町の自警団に参加してるし、警察とも交流があるざます。サニラ、それで最近分かったことがね……」


 クロユリはもったいぶって角縁メガネを外すと、わざとゆっくりレンズを拭き始めた。


「なんだい、もったいぶってないで教えておくれよ」


 サニラがクロユリに一歩近づく。クロユリがメガネをかけ直した。メガネの縁もごてごてしたみっともない飾りがついている。


「警察は一連の窃盗と強盗事件の犯人は同一人物という証拠をつかんだらしいんですの。しかもその犯人はこの町内に潜んでいるらしいざますよ」


「まさか!」

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