寝癖のついた父を、俺は一度も見たことが無い。

朝の早い父が、人知れず寝癖を直していたのか。それとも、徳川慶喜に倣い、幼少期に枕元の両脇にカミソリの刃を立てることで、寝相の悪さを矯正したために、そもそも寝癖が作られないのか。何にせよ、俺は、髪を整えた父の姿しか記憶に無い。

 いつの頃か、父の髪に白髪が目立ち始めたが、父はそれを隠そうとしなかった。嘘や偽りを最も嫌う父らしいと、子供ながらに俺は思った。

 父が誰かに頭を下げるところを、俺は一度も見た覚えが無い。

 きっと本当に無いのだろう。あんなにもプライドの高い人間を、俺は父の他に知らない。

 それでも、もしもあの時、俺が野球をやりたいと、父と面と向かって言った時、父が俺に「そんなことを言わないでくれ」と、頭を下げられていたならば、俺は野球を始められていただろうか。俺は、頭を下げた父を無下に扱えただろうか。

 今、目の前にいる教師を見て、俺は初めてその考えに至った。逆に、今までその考えに至らなかったのは、父が自分に頭を下げるわけがないと分かっていたからだ。改めて考えてみると、そんな父で良かったのかもしれない。なぜなら、野球を始められたから。


「先生、頭を上げて下さい」

 そう言った、俺の心の波は穏やかだった。

 そのことに気付いたであろう目の前の教師は、俺の気持ちを探るような上目遣いを見せた後、ゆっくりと頭を上げる。

「どうだ? 考えてくれたか?」

 その表情からも、自分の都合の良い方へ考えていることは一目瞭然だった。『待て』も、ろくにできない馬鹿犬のように、この男は俺に答えを求めた。

「先生、お気持ちは嬉しいです。でも俺は、そんな器用な人間ではありません。掛け持ちなんて、絶対にできません。野球一本で頑張ります」

 俺はきっぱりと誘いを断った。

 角が立たないように、と少し前までは考えていたが、このような人間には、そのような曖昧さが、後に命取りになるように思われたために、はっきりと気持ちが伝わるように言ってやった。

自分の思い通りにいかなかった教師はというと、みるみる顔を紅潮させていく。

「お前‼ これだけ俺がお願いしているのに駄目だというのか‼ 教師を馬鹿にしやがって‼ 剣道しか取り柄の無いお前を、せっかく俺が誘ってやっているというのに‼ 後悔してももう遅いからな‼ 消えろ‼」

 教師は吐き捨てるように言った後、そそくさと立ち去った。

 あの男には、怖いものなんて何一つ無いらしい。それとも、絶対に訴えられない自信があったのだろうか。

 エスパーには決して見えないが、あの男の思惑通り、俺に訴える気持ちはさらさら無かった。

 当然、腹は立ったが、あれだけ啖呵を切れば、もう二度と俺を剣道部に勧誘することはできないはずだ。静かに野球ができればそれで良い。そのためならば何でも我慢ができた。

 一方で、仮に剣道を続けるにしても、あのような顧問の下ではやりたくないと思った。そう思うのと同時に、見ず知らずの剣道部たちに同情した。

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