「亀谷! ちょっといいか?」

 昼休み、何の用も無く、ふらふらと廊下を歩いていると、前方から名前も顔も知らない教師から声を掛けられた。

「はい、何でしょうか?」

 教師から声を掛けられて、結果が良かった試しが少しも無い。俺は無意識に身構える。

「お前、野球部に入ったって、本当か?」

 黒縁の真四角の眼鏡から覗く眼は、確実に不快の色を示していた。

「本当ですが……、どうしてですか?」

 体罰が禁止されている昨今、このような人目のある場所で、急に殴られることはないとは思うが、その可能性が無いとは言い切れないと思えるほどの雰囲気を、目の前の名も知らない教師は醸し出している。

「どうしてなんだ⁉ 俺は、お前がここに入学すると知って、ずっと待っていたんだぞ‼ それが野球部なんて……、訳を聞かせてくれ‼」

 周りにいる多くの生徒の目が、こちらに向けられているのを感じる。それらの好奇の目は、俺たちからピントを外さず、静かに様子を探っている。俺は一刻も早くこの場から逃走を図りたかったものの、目の前の教師が、それを簡単に許してくれそうになかった。しかし一方で、自分を欲してくれる嬉しさも、少なからず感じていた。こんなにも求められるなんて、初めての経験かもしれない。

「先生からのお誘い、正直凄く嬉しいです。でも今の自分は、野球にしか興味が無いんです」

「どうしてそんな急に⁉ 剣道を嫌いになったわけじゃないんだろ?」

「……はい」

「じゃあどうして⁉ どうしてそこまで野球にこだわる? 今までの剣道に費やした時間はどうなるんだ? 全国大会にまで出場できるほどの腕前もあるのに! これまでの努力を全て無駄にするのか⁉」

「…………」

「な⁉ お前もそう思うだろ⁉ 今までの努力を無駄にするのは止めろ。お前には剣道の才能があるんだ。高校では俺たちと共に、全国大会優勝を目指そう‼」

 剣道から野球に鞍替える、それを決心するために、俺は悩みに悩みぬいてきた。そのダイヤモンドなんかよりもずっと固い決心が、一教師の誘い文句なんかで揺るぐはずもない。俺は、どう断れば角が立たないのかを考えていた。

「すみません。どれだけ言われようと、この気持ちは変わりません。俺は野球がしたいんです」

「わ、わかった‼ じゃあ掛け持ちでどうだ⁉ 野球部の方をメインでやってもらって構わない‼ 週に二日! いや一日でいい‼ 剣道部に顔を出してくれ‼」

 教師は思いの丈を言い終えたのだろう、最後に頭を垂れた。

頭頂部の、白髪交じりの髪が視界に入る。それが切っ掛けだろう、父の顔が、ふっと思い浮かんだ。

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