2000年3月24日

 朝シドニーを出発した観光バスは、10時過ぎにブルーマウンテンズ国立公園の玄関カトゥーンバに到着した。


「――こんな近場になっちゃってゴメンね」


 ツアーバスに乗り込んでからもサキは同じことを繰り返した。先日体調を崩したため、2連休がばらけてしまったことを言っている。


「何度も言っているが謝る必要なんかない。むしろあの時サキのお世話ができて嬉しかった」


 帰国便まであと4日となった。ふたりにはそれほど時間が残されていない。よってそれを悲観している暇もない。短い間に色々ありすぎたが、これはほんの始まりに過ぎないのだと言い聞かせるしかない。残り時間を悲嘆するには時間がなさすぎる。今日のツアーバスも帰国前の思い出作りというより、気晴らしに来たという認識だ。

 シドニーから西に70キロ。ブルーマウンテンズ国立公園の見晴らし台の向こうには、青い霧に覆われた森がどこまでも続いていた。


「ユーカリの森で深呼吸して帰れば、少しはクソ上司からのウケもよくなるかもしれないな」


 ブルーマウンテンズの森を一望しながら、俺はサキの横で両手を空高く伸ばして背伸びをした。


「そうだよね。リュウにもいつも突っかかってばかりで、少しも可愛いカノジョじゃなかったもんね」


 サキは俺の肩に頬を寄せて寂しそうに微笑んだ。今までなら売り言葉に買い言葉だったが、お別れの日がせまっていることがサキから普段の勢いを奪っている。だが空港で手を振らなければならない日が迫っていることよりも、こうしたお互いへの妙な遠慮のほうがよほど寂しい。

 サキはブルーマウンテンズの森を青く霞ませているユーカリの香りを深く吸って目を閉じた。俺もそれに倣って深い香りを吸い込んだ。


「あれがスリー・シスターズだね」

 

 サキが指さした先に3本の奇岩がすくっと立ち並んでいた。あの3本の岩にはアボリジニーの言い伝えがあるんだって、とサキは楽しそうに言った。


「――昔々、ここブルーマウンテンズの森に3人の美しい娘が住んでいたとさ。ある日そのうちの一人が散歩の途中で森の奥深くで眠る魔王をうっかり起こしてしまった。眠りの邪魔をされた魔王は娘たちをさらいに追いかけてきた。そこで娘たちの父親は、彼女たちに魔法をかけて3本の岩に姿を変えて魔王の目を欺くことにした。父親も自分に魔法をかけて鳥の姿になって魔王から逃げることにした。ところが逃げている最中に魔法の杖をブルーマウンテンズの森に落としてしまった。こうして娘たちを元の姿に戻すことができなくなった父親は、今も落とした魔法の杖を探してブルーマウンテンズの森の上を鳥になって飛んでいるのだとさ。おしまい、おしまい…」


 まるで小さな子供に読み聞かせるかのように、サキはスリー・シスターズにまつわる悲しい伝説を聞かせてくれた。


「ってガイドブックに書いてあった。今日はちゃんとリュウのガイドさんになろうと思って昨日リュウが寝ちゃった後に勉強したんだよね」


 その優しさに頭を撫ぜて褒めた。


「それにしてもその魔王は随分短気だな。睡眠を妨害されたぐらいでいちいち人をさらっていたら、サキなんか命がいくつあっても足りないな」


 寝不足が続いているのはセックスのしすぎが原因ではない。サキは絶望的な寝相が悪い。一昨日も隣で目を閉じていたところいきなりヘッドロックをかけられ、体がくの字に曲がるほどの膝蹴りをお見舞いしてきた。寝言もかなり過激だ。いきなり大爆笑したり、ゾッとするような叫び声をあげることもある。


「そこは何度も謝ったじゃん!」

「今度安眠中の俺に膝蹴り入れたらブルーマウンテンズの森に捨てるからな。一晩中魔王と鬼ごっこでも楽しんでこい」


 サキは笑いながら、俺の脇腹にゲンコをぶつけてきた。

 そう。それでいいんだ。妙なしおらしさなんてサキには似合わない。



 シドニーに戻り、食事や買い物をして部屋に戻ったのは夜の7時過ぎだった。

 バスタオルを撒いてシャワールームから出てきたサキを手招きした。


「もうしたくなっちゃったの?」


 サキはニヤニヤしながら俺の横にちょこんと座った。


「それはまだお預け。ベッドにうつぶせになって」


 お土産に買ってきたユーカリのマッサージオイルの箱を開けた。寝相はともかく、少しでもサキが熟睡できるならと思う。


「アタシのために買ってくれたの?うれしい!」


 サキはキャッキャ喜んでベッドの上で飛び跳ねた。その反動で体に撒いたタオルが落ちた。


「おい野生児!ブルーマウンテンズの森に捨ててくるぞ!」


 その後、肩甲骨周りをゆっくりとほぐしてやると、サキはすぐに寝息を立て始めた。毎日ヒールを履いて立ち仕事をしているサキはふくらはぎの痛みをよく訴える。たっぷりと手にオイルを取ると、すりこむようにしてふくらはぎを揉みはじめた。

 いくら恋人の前とはいえ、全裸のまま眠ってしまうとは相変わらずだらしがない。しかしこうした時間に代えがたい幸せを感じる。会話もない静かな部屋に彼女の存在が広がっている。サキのために何かをしている1秒1秒を味わう。

 ふっとおかしさがこみあげてきたが、何故か頬を伝うものがあった。陳腐な表現だが、時よ止まれと心の中でつぶやく。そっと毛布を肩にかけてやる。俺はサキの隣に座ったまま、いつまでも彼女の黒髪を撫でた。

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