2000年3月23日

 サキの部屋を出た時、廊下の奥から声をかけてきた男がいた。


「――キミか。サキ君のカレシさんというのは」


 背の高い、髪をポマードで撫で付けた清潔感のある男だった。


「上司の山野辺だよ。キミのことはサキ君からよく聞いているよ」

「アイツがお世話になっています」


 下を向いて立ち去ろうとしたが、男はなおも話しかけてきた。


「あんな跳ねっ返りでもカレシが出来れば少しは落ち着くと思ってたんだが…。ま、キミもここにタダで泊まっているんだから、あんまりクレームが来るようなことはしないように」


 嫌味のこもった言い方に顔を上げた。


「君たちの声がうるさいってクレームが入ってるんでね。お盛んなのは結構だけど」


 そんなはずはない。この階はリネン室や倉庫として使われており、客室とは区別されているはずだ。こちらへの侮蔑に気付いたが、それ以上何も言わず頭を下げて通り過ぎようとした。しかしそのすれ違いざま、男はさらに独り言をつぶやいた。


「――アイツのケツには縦に並んだホクロが3つ…」


 ハッとして睨みつけたが、男は薄ら笑いを浮かべたまま従業員用の非常口に消えていった。



「…ちょっとどうしたの?ここじゃヤダよ。ベッドに行こうよ」


 夕方4時を少しまわって戻ってきたサキをいきなりドアに押し付けた。困惑するサキの唇を荒々しく奪うと制服の中に手を入れながら壁に手をつかせた。

 あった。今まで気づかなかったが、右のお尻の少し上、背筋がキュッと引き締まった辺りに、斜めに打たれたドットが3つ並んだいた。

 悲しみ、怒り、興奮、絶望――。

 今もあの男がドアの向こうで聞き耳を立ているのか。サキの華奢な腰を鷲掴みにすると、色々な感情で膨らんだものを突き立てた…。



 一日中むやみに街を歩き、あの男の言ったことをただの聞き違えだと思うことにした。少なくとも、サキが「クソ上司」呼ばわりするあの男と何らかのがあったわけではないと刷り込んだ。首を激しく振り、浮かんでくる疑惑を力任せに抑え込んだが、それでもパリでのハネムーンや海が見える丘に建てた小さなホテルが、泥色に崩れるのを抑えられなかった。


「…どうしちゃったの?バスルームのアタシの下着見てたらそんな気持ちになっちゃったとか?」


 サキは体を拭きながら無邪気を装った。俺はぎこちなく微笑んで「ゴメン」とつぶやいた。サキはふうんと頷くと、「着替えてお出かけしよ」とあっけらかんと俺の手をとった。

 曖昧模糊だからこそ保たれる平和がある。サキにどんな過去があろうと、俺が腹を立てるのは間違っている。俺もパース留学中は独りだったわけではない。しかしそんなものはクローゼットの奥にしまって、絶対落ちてこないようにするべきだ。

 問いただしたい衝動がないわけではない。過去のこともあっけらかんと明かすサキのことだから、聞けば「お酒の勢いで一回だけそうなった」と正直に告白するかもしれない。結局「そんなはずはない」と俺一人で飲み込むしかないのだ。


「――そういえばクソ上司が今朝廊下でリュウを見かけたっていってたよ。ハンサムなカレシさんだねって褒めてたし」


 サキは鏡の前でピアスを選びながら、こちらに背を向けたままつぶやいた。サキなりの詮索だということには気付いたが俺は無関心を装った。


「じゃあ、そのクソ上司とやらにも一度きちんと挨拶しなけりゃなぁ」


 サキは慌てて振り向き「そんなのいいよ。絶対やめて!」とわざわざバスルームから顔を出した。その慌てぶりに確信したが、それ以上は忘れることにしてゆっくり近づくとサキをギュッと抱きしめた。


「どうしたのリュウ?今日は何だか変だよ」


 サキは不安げに目をキョロキョロさせた。


「あと何回こうやってできるか考えていたら急に寂しくなった」

「…やめてよ。アタシも考えないようにしているんだから」


 サキは短く息を吐くと、許しを請うように俺の首に腕を回してきた。

 実際に帰国日も迫っている。やっと手に入れた幸せを噛みしめるようにサキを優しく抱きしめた。



 木曜日だというのに、街には人があふれていた。


「今日のリュウは無口だね。またエッチなことでも考えているの?」


 サキはスターバックスのキャラメルフラペチーノを吸いながら、上目遣いにこちらを見た。

 ――簡単に切り替えられるわけないだろ。そんな苛立ちが、「俺はコメディアンじゃない」というすねた返事になって出た。

 サキが包み隠さず過去のことを俺に話すのは、デリカシーの問題ではなく、ふたりの関係を単純に理解しているからかもしれない。経験値や知恵、そして財布の中身まで、単純な足し算として捉えているようだ。だが繋がり合うことは、決して単純な足し算ではない。結果がマイナスになることだってあり得るのだ。


「――あと1週間、」

 

 そう言いかけたサキは「ううん、まだ1週間もあるよね」と言いなおした。


「そうだ。まだ7日もある」

「朝も夜も7回ずつあるから14回は楽しめるね」

「夕方も入れれば21回だな」


 サキとの足し算はきっとプラスになる。過去も全部含めて、きっとプラスにしてみせる。


「どうでもいいが、そんなに冷たいものばかり飲んだらまた風邪引くぞ」

「その時はまたこの前みたいに優しくしてくれる?」


 それには答えずサキの手から透明なカップを奪うと、残りをわざとらしく飲み干した。

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