2000年3月10日

「…おい、クスリ買わねぇのか?」


 明らかに視点の定まっていない男を追い払う。クスリ問屋の前は、派手な口紅を付けた売春婦に「みんなでいいことしましょうよ」と誘われた。


「ったく、どいつもこいつもオレのタトゥーが怖くないんスかね?」


 後輩坂下は立ち去っていく売人の背中に向かって呪詛を吐いた。しかしここはメルボルン午前2時である。生息している人種が違いすぎる。またしても声をかけてきた浮浪者風にも後輩坂下は盛んに吠えた。俺は指さして笑ってやった。


「なにが邪気を払う毒蜘蛛だ!おまえの膝のタトゥーのせいで変なヤツらばっかり寄ってくるじゃないか!」


 ほっといてくださいよと後輩坂下は膝を抱えて芝生の上に腰を下ろした。それにしてもようやくたどり着いたメルボルンでまさかの「野宿」とは想定外だった。



 アデレード発メルボルン行きを待っている時、ひとりの大学生が声をかけてきた。


「――これからメルボルンですか。それは大変ですねぇ」


 彼は少しも大変ではなさそうな表情で言った。東のメルボルンへ移動する我々とは逆に、彼はこれからエアーズロックへと向かうという。

 

「知らないんですか?明後日12日はF1オーストラリア・グランプリの決勝戦ですよ。今は世界中のF1ファンでごった返しているから、宿なんてどこも一杯でしょうね」


 ちなみにフェラーリのミハエル・シューマッハが優勝候補みたいです、などと彼はどうでもいい情報を付け加えた。俺と後輩坂下は顔を見合わせると、バスが出発するギリギリまでメルボルンの安宿に片っ端から電話をかけた。ところがどこも答えは一緒で、「Sorry, we are fully booked(満室でございます)」という答えのみだった。着いたら何とかなるだろうという絶望の中、俺たちはアデレードを出発した。



 メルボルンのバス停近くに、ゴシック様式の小さな教会があった。その教会裏の狭い芝生にリュックサックを投げ出すと、そこで朝が来るのを待つことにした。

 野宿など初めてだ。真冬でなかったことと交代の見張りがいることは不幸中の幸いだったかもしれない。それにしてもこの能天気な後輩はどうだ。夜の街に放り出されたというのに、「ま、しょうがないッスね」とリュックを枕にして背伸びをしている。


「それより先輩、F1グランプリっスよ!シューマッハに会えるかもしれないじゃないッスか!メッチャ興奮するわー!」


 彼のオプティニズムにはついていけない。


「――ところでおまえ、本気で美容師辞めるのか?日本に帰ったらどうするつもりだ?」


 「おっ?」と彼は声を上げると顔を持ち上げた。


「ウチの美容室にもいましたよ。二言目には、”おまえ将来考えてんのか”っていう先輩が」


 そいつは大きなお世話だったな。ところが彼は続けた。


「オレ片親なんスよ。ガキの頃両親が離婚してね」


 母親に引き取られた彼は、放課後は母親が立つ美容室でおとなしくさせられていたという。


「知り合いの美容室任されてたんですけど、毎日夜遅くまでよく働いてくれましたよ」


 母親のハサミの音を聞いて育った彼は、自然に美容師という将来を考えた。その後高校を中退し、タトゥーや改造車にハマった時期もあったが、結局母親の美容室に立つことになったらしい。


「けどね、風邪をひいても朝から晩まで働いているオカン見てたら、なんか全部が馬鹿らしくなっちゃってね。どんなに頑張っても天井は低いままなんだなって」


 彼にとっての人生とは増幅も分岐もないただの一本道なのかもしれない。だが人生を単純化するのも、複雑にするのも本人次第だ。天井の高さなど目線次第でいくらでも変わる。


「でもオレメッチャ嬉しいッス。日本にいた時は自分のこと気にかけてくる先輩のことうざったく思ってたんですけど、旅してやっぱ一人じゃ生きてけねぇって分かってきました」


 それが本心なら俺もうれしい。メルボルンの街を明るくし始めた太陽に向かって後輩坂下は大きく伸びをした。



「――オレやっと見つけましたよ。やりたいこと」


 ようやくオープンになったマクドナルドで、後輩坂下と横並びでモーニングセットを頬張っている。少しも寝不足を感じさせないハツラツとした笑顔で彼は続けた。


「オレ、ちょっとシューマッハに会ってきますわ。オレも元走り屋なんで、F1って聞いてなんか血が騒いだっていうか。先輩もどうスか?明後日のグランプリ見にいきませんか?」


 赤い皇帝シューマッハと長崎の走り屋では話にならないだろうが、案外と本質的な部分で通じ合えるのかもしれない。


「悪いが俺はシドニーに向かうよ。おまえは今夜もここで野宿するつもりか?」

「当り前ッスよ。あの教会の庭なら話し相手は向こうからいくらでも来るし、何とかなるんじゃないっスかね?」


 そのあと後輩坂下は、キャンベラ行きのバス乗り場まで俺を見送ってくれた。


「メッチャ楽しかったッス。日本に帰ったらメシおごってください!」

 

 最後までさわやかな野郎だった。


「とりあえず野宿は気を付けろよ。居眠りしてたら教会の庭でオカマにされるかもしれないからな」

「余裕ッス。毒蜘蛛のタトゥーが守ってくれますから!」


 昨晩それが虫除けにすらならないことを証明したはずなのだが、彼は自分の膝をポンポンと叩くと胸を張った。さらば後輩坂下。またいつかバカ騒ぎしようぜ――。

 やがてキャンベラ行きのバスは手を振る彼からどんどん遠ざかっていった。

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