2000年3月9日

 膝だけだと思っていた坂下君のタトゥーは、背中や二の腕にもバラや蛇が踊っていた。短パン一枚になった彼は、ホテルの中庭のプールに奇声をあげながら飛び込んだ。


「あれはジャパニーズヤクザか?」

「その通りだ。よく見てみろ。彼の小指はなくなっている」


 俺の言葉を真に受けたイギリス紳士は眉をひそめると、プールサイドで日光浴をしていた奥様を呼び戻し、さっさと自分たちの部屋に引き上げていった。

 坂上君はエアーズロックの後、北部ダーウィンに行く予定だった。ダーウィンは大戦中日本軍に空爆された街である。”長崎県民としてはそういう慰霊碑は無視できない”などと高尚なことを言っていたはずだが、「やっぱダルいっす」という一言で片付け、俺と一緒にアデレード行きのバスに乗り込んだ。


「今日から『先輩』って呼んでいいっスか?」

「じゃあ俺は『後輩』って呼ぶからな」


 一応年上の俺に気を遣ってというより、「名前で呼ぶよりもセンパイって呼ぶ方が楽ッス」だと素直に白状した。

 ともかくエアーズロックからアデレードまで1600キロ。さすが日本の22倍の広さはとてつもない。バスでの17時間をくだらないおしゃべりと居眠りで潰した。



「――暇っスから行ってみましょうよ?」


 早朝、アデレードの宿にチェックインを済ますと、後輩坂上がカウンターの横に積んであったパンフレットを差し出してきた。

 バロッサバレーは、アデレードから北55キロにあるオーストラリア最大のワイン畑である。19世紀に移り住んだドイツ人たちが始めたブドウ畑には、今では約160軒ほどのワイナリーが立ち並んでいる。

 

「あのなぁ、俺は下戸なんだぜ」


 すると後輩坂下は「先輩ノリ悪いッスわ」と嫌味を返してきた。仕方なしに彼が持ってきたワイナリーツアーのパンフレットを見ると、朝9時に出発し、昼過ぎには戻ってくるツアーが載っていた。こうして悪ノリだけで決まったワイナリーツアーだったが、後にけしかけてきた後輩坂下のほうがよほど下戸であることを知る。


「――ここのワイナリーは、オーストラリアを代表するシラー種をたくさん取り揃えているんだとさ」


 英語がわからない後輩坂下のために係員の説明をいちいち訳してやったが、そもそも下戸の俺たちには日本語で言われてもピンとこない。


「先輩、もしかして適当に訳してませんか?」

「うっせぇなぁ。黙ってそれらしい顔してりゃいいんだよ」


 他のツアー客は、「この白は何度で保存するべきか」などと酒に縁のない俺たちにとって死ぬほどどうでもいいことを真剣に聞いている。ところが遠慮の二文字を知らない後輩坂下は、襟付きシャツでツアーに参加してきた白人紳士たちを指さしてゲラゲラ笑っている。結局”ワインでございます”というこの空気になじめず、我々2匹は次第に「クラスの不良」と化した。文化的な側面など微塵もない、飲むというより浴びるに近い飲み方を始めた。後輩坂下は買うつもりもないくせに「セーム、セーム!《同じのよこせ》」とバカの一つ覚えを繰り返し、襟付きシャツの白人から、”なぜここにチンパンジーが混ざっているのか”という顔をされている。


「先輩、目が血走ってますやん。メッチャ怖いっスよ!」


 難しい顔をして舌の上でワインを転がしている白人たちなど気にも留めず、後輩坂下は陽気な声をあげている。その顔は赤を通り越し、すでにドス黒く濁りはじめていた。


 こうして不運な白人ツアー客たちに最後まで睨まれ、ようやく泥酔バスツアーから解放された。どこかでアデレード午後3時を告げる鐘が鳴っている。振り返ると後輩坂下は道端で膝を抱えてダウンしていた。


「おい、しっかりしろ!寝るんじゃない!」


 ここは雪山ではない。真夏の太陽が照り付ける南オーストラリア州アデレードである。どうにか重たい体を引きずりホテルに戻ると、2匹ともそのままベッドに倒れ込んだ。

 気が付くとすでに日は落ちており、後輩坂下はまだ顔をしかめていびきをかいていた。


「おい後輩!晩飯の買い出しに行くぞ!」


 野郎を無理やりたたき起こすと、近所のスーパーに出かけた。

 ホテルのキッチンを借りて肉を焼き、ついでにバロッサバレーで買ったフルボディーも開けた。他のバックパッカーたちが質素にパンをかじっている横で、俺たちのテーブルだけは、まるで何かの儀式でも始まるかのような豪華さだった。


「――どうだ、うまいか?」


 塩コショウを振って焼いただけの肉に後輩坂下はがっついた。


「作ってもらっておいてアレなんすけど、ちょっと固いっスね」


 こういうハッキリいうヤツは嫌いではない。


「なるほどカンガルーの肉ってのは焼いたら固くなるのか」


 カンガルー!?と後輩坂下はバカみたいな声を上げた。


「ちなみにさっきお前さんがうまそうに食っていたのはラクダの肉だ」


 チキンやポークと並んで陳列されていたのを興味本位で買ってみたが、カンガルーの愛らしい顔はともかく、適した料理法を知らないものはかごに入れるべきではなかった。


「ほら。肉がつかえたらコイツで流せ」


 バロッサバレーで買ってきた赤ワインを注ぎ足してやった。

 明日はいよいよオーストラリア第二の都市メルボルンに向けて出発する。早めに休まなければならないが、分厚いステーキ肉と赤ワインに2匹とも夜を忘れてはしゃいだ。ただ、次のメルボルンでとんでもない事態が待ち受けているとはこの時少しも知らなかった――。

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