2000年2月28日

 オーストラリアに来る直前、東京に出張に来ていた”北京の姉”こと于春麗ユー・チュンリーから「(ちょっと中国語の反応遅くなったんじゃないの?)」と小言を食らっている。中国外務省の外郭団体である「北京国際友好協会」の代表として来日している于春麗ユー・チュンリーを取り巻く環境は、それでなくても専門用語にあふれている。


「(わたしにはあなたが必要よ)」


 こちらの密かな好意を知った上で、于春麗ユー・チュンリーはそういう言い方をする。その誘惑はともかく、近頃は専攻である中国語を後回しにし、英文科への聴講を増やしている。そういう流れもあって今回の留学につながっているのだが、その語学研修もそろそろ修了証書をもらう日が迫っている。

 今日の「TOEIC模擬試験」はある意味卒業試験だった。英検準1級とTOEIC700点以上が留学費用返済免除の条件であり、今日の760点にはそれなりに満足している。帰国後に改めて受験することにはなるが、とりあえず出発前に両親と交わした約束は何とか果たせそうである。

 TOEIC公式サイトによれば、スコア730以上をレベルBとし、「どんな状況でも適切なコミュニケーションができる素地を備えている」と公開している。しかし実態はそれほどでもなく、先日シドニーまでのバス旅行を予約するために旅行代理店を訪れたがそこでも大汗をかいてきた。


「それでもよくがんばったよ。さすがだよ!」


 アヤコは明日パース空港から東京に向けて出発する。

 午前中にレンタル家具屋がソファやベッドを引き取っていったという。今夜はどうやって寝るのと聞くと、「じゃああなたのベッドにもぐりこもうかな」とアヤコは俺の脇腹を突いた…。


 殺風景なフローリングの上で交わるのは痛かった。

 その後アヤコは俺の腕枕に頬を乗せていたが、やがて静かに寝息を立て始めた。その華奢な背中に手を回しアヤコの体温を味わっていた。このまま朝を迎えたい――。目を閉じてそんなことをぼんやり考えていたら、突然玄関でベルが鳴った。


「…アパートの管理会社かな?」


 俺のシャツを胸に押し当てたままアヤコは玄関に向かったが、すぐに顔を赤くして戻ってきた。


「ジョニーだ!どうしよう!」

「…ったくどこまでも間の悪い野郎だな。いいよ、野村沙知代なんか放っておけ」


 そのままアヤコを部屋の中に引き込むと、壁に押しつけて唇をうばった。


「…やめてよ。聞こえちゃうから」


 アヤコは口を押えながら首筋を吸わせていたが、やがて胸に当てていたシャツを落とすと、「もうどうなっても知らないから」と笑いながら背中をこちらに向けて壁に手をついた…。



 1時間ほどして髪を乾かしながらミネラルウォーターをあおっている、ふたたびドアの向こうで呼び出しベルが鳴った。


「…ジョニーのヤツくどいな。アヤコさえよければ中に入れてもいいよ」


 アヤコは”何でアタシに押し付けるのよ?”という顔をしたが、結局彼女は玄関に向かった。


「(――1時間前にもここに来たんだけどもしかして出かけてた?ほら、明日アヤコは帰っちゃうでしょ。だから…)」


 例のボソボソとした英語が壁越しにしばらく聞いていたが、思い切って顔を出した。


「男ならもっとハッキリしゃべらんかい!」


 ジョニーはギョッとし、そして故障した。彼は無意味に部屋の中を見回すと、何やらうめき声に近い声を上げて俺とアヤコを見比べた。そして壊れたロボットのようにカクカク動きながら、回れ右をすべきか慌てている。


「――もういいよ。みんなで飲もうぜ」


 面倒くさくなって声を上げると俺はジョニーの肩を揉んだ。


「飲むって何を飲むの?」


 相変わらず間抜けな質問を返してくる。この期に及んで硫酸なんか用意していない。


「…そうだね、最後だもんね。飲もう」


 アヤコはこぼれてきたものを薙ぎ払うと、無理やり笑顔を作った。

 キッチンに残っていた白ワインを紙コップに分けると、3人で鳴るはずもない乾杯をした。ぶらさがった裸電球の下、それぞれが壁にもたれて最後の夜を祝った。特別な思い出話などいらない。胸がいっぱいなのはそれぞれ同じだった。

 ところが無言のまま3人で過ごす時間を壮絶に感じたのか、「みんな暇してるかな?」とジョニーは勝手に携帯電話を持って外に出て行った。


「…野村沙知代にはこの状況は高度過ぎたらしいな」


 閉じられた玄関を見つめながら俺はアヤコの手をとった。


「あなたがそういう事をいうからジョニーの顔真っ直ぐ見れなくなったじゃん」


 アヤコは苦情を言いながら紙コップを近くに置くと、立ち上がって玄関に鍵をかけた。戻ってくると、俺をあわただしく奥の部屋へと引っ張っていった。


「チャイナタウンの旧正月に戻りたい…」


 アヤコは俺の頬を両手で包みながら独り言をいった。その言葉を染み込ませるように彼女は白ワイン味の唇を俺のうなじに当てた。気忙しくシャツのボタンを滑る指先を見ながら、その八方美人のせいで二人の男が泣いたことを忘れるなよと思った。


「ジョニーと俺とのことを気を遣ってくれてありがとう。あとはこっちで何とかするから」


 アヤコは手を止めることなく、視線をフローリングに落としたまま小さくうなづいた。


「…あなたとジョニーがうらやましい」


 どういう意味?と聞く間も与えず、アヤコは力強く素肌を寄せてきた。

 そしてふたたび玄関のベルが鳴るまで、ふたりは何度も唇を重ねた…。

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