夢見るからくり人形

水本照

夢見るからくり人形

(日本標準時、20XX年、7月20日、15時30分。)


『ハルさんはとても友だち想いで、困っている子がいるとすぐに手を差し伸べてあげていました。特に体育では、ハルさんが運動の苦手な子をサポートしてくれたおかげで、クラスみんなで楽しく取り組むことができました。また勉強も、全ての教科でとてもよくがんばっています。来学期もこの調子で、元気に過ごしてくださいね』


 日川博士は通知表を机に置いて、傍に立つ小学六年生の娘を見た。得意げな顔が、書斎の窓から差し入る西日を受けて輝いている。椅子に腰掛けた博士は、その顔を見上げるようにして言った。

「頑張っているじゃないか、ハル」

「えへへ」

「本当に。ハルちゃんは凄いんですよ、日川博士」

 コーヒーとオレンジジュースを机に置きながら、助手のニナが言った。ハルとお揃いの小学校の制服の上に白衣を羽織っているが、まだ彼女には丈が長いため、袖がずれてコーヒーカップの縁を撫でた。

「おかげで、私たちのクラスはみんな仲良しですし、私も毎日楽しいです」

「それは凄いな。偉いぞ、流石は私の娘だ」

 父親とその助手に褒められて、ハルは少し顔を赤くして俯いた。

「へへへ。あんまり褒めないでよ、二人とも…… それに、わたしもニナと一緒のクラスに通えて、楽しいよ」

「そうだ、ニナも精進しているようじゃないか。成績もかなり良いし」

「お二人とも、ありがとうございます。おかげさまで特に問題もなく過ごせました。ただ、」

 ニナは、飲み物を乗せてきたトレイを抱きかかえて、眉を曇らせた。

「私としては、算数と理科がよくできなかったのが無念です」

「誰にでも苦手なものくらいあるよ、ニナ」

 ハルが微笑みながら励ますが、ニナの顔は晴れない。

「それはそうでしょうけど…… 元々苦手だった体育はともかく、義務教育レベルの数理の勉強ができないのは、博士の助手として不甲斐ないです」

「まあお前もまだまだ若いんだ、これから学んでいけばいい。それに何事にしても、基礎を学ぶっていうのは難しいことだ。義務教育レベルなんて言って侮っちゃいけない」

「……ありがとうございます」

 ニナの眉間が緩んできたのを見て、博士はコーヒーを啜った。

「それからニナ、お前、私の研究の手伝いに時間を取られすぎていないか? 助手をしてくれて正直なところ助かっているが、そのせいでお前が自分の勉強や、やりたいことに時間を使えていないのなら……」

「そうだよ!」

 言いかけると、ハルが身を乗り出した。頭の後ろでポニーテールが揺れる。

「大体、もうニナはうちの子なんだから。お父さんのこと『博士』なんて呼ぶのはやめなよ」

 そしてニナの頭にふわりと手を置いて、悪戯っぽく笑った。

「それに、わたしのことも『お姉ちゃん』って呼んでくれてもいいんだよ」

 詰め寄られたニナは困ったように笑う。その耳で、銀のイヤーカフが夕陽色に煌めいた。

「しかし、博士には、身寄りをなくした私を引き取っていただき、この家に住まわせていただき、そのうえ娘さんと同じ私学にまで通わせていただいている恩があります。私は私なりに、なんとかしてその御恩を返したいのです」

「だから、『娘さん』じゃなくて『お姉ちゃん』だってば!」

 ハルがむくれると、博士は立ち上がって彼女の頭に左手をぽんと乗せた。そしてニナに目をやり、

「私もハルに賛成だ。もちろん呼び方を強制したりはしないし、少しずつ助手の仕事も続けてくれたら助かる。だけど、私たちはたしかに家族だ。遠慮はせず、幸せになって欲しい」

 そう言うと、ハルの手に重ねるようにして、ニナの頭に右手を置いた。

「……感謝します…… お父さん、お姉ちゃん」

 ニナは、心の底から微笑んだ—



(違う、これは夢だ。)


(いつまでも浸っているわけにはいかない。)


(目覚めなければ。)




(……)




(日本標準時、20XX年、7月20日、15時30分。)


『ニナさんはとても友だち想いで、困っている子がいるとすぐに手を差し伸べてあげていました。ニナさんがいるだけで、クラスの雰囲気がとても和やかになります。また勉強も、苦手な体育も含めて、全ての教科でとてもよくがんばっています。来学期もこの調子で、元気に過ごしてくださいね』


 日川博士は通知表を机に置いて、何とはなしに傍に立つ小学六年生の娘に目をやった。書斎の窓から差し入る西日が、彼女の顔に陰影をつけている。座ったままその顔を見上げ、ふと、娘もいつの間にか大きくなったな、と思った博士の横から、白い手がコーヒーを差し出した。

「ありがとう、ニナ。学校でも頑張っているようじゃないか」

「はい。毎日ご報告しているとおり、特に問題なく過ごしています」

 ニナは片手にトレイを提げて、微笑みながらうなずいた。

 もちろん博士は毎日その報告を聞いていたし、そもそもニナがこの四月に娘と同じ私立学校へ通い始める前から、そこで彼女が上手くやっていけるだろうと確信していた。

 それでも、彼女がこの半年で上げた成果がこのように可視化されれば、また格別の感慨がある。コーヒーを啜って、再び通知表を手に取る。

「担任の先生も、お前がそこらへんの人間以上にまっとうな人間だと思ってくれているみたいだな」

「そうですか」

「流石は私の最高傑作だよ。十代前半の子供という、予測困難な言動をとる対象たちの中で、ここまで完璧に人間らしく暮らせるとは。学習の方も、文理問わず順調だね。正直、義務教育レベルの基礎的な授業は、お前にとってはかえって難しいだろうと予想していたんだが」


 やはり、お前がアンドロイドだなんて、チューリング博士でも見抜けやしないだろう。


 博士はそう呟いて、またコーヒーカップを傾けた。体育の成績も上々だから、ボディーの方も非常に優秀なようだ。つくづく、今の研究所に移ってよかった。

 満足を噛みしめてから、娘に目を向けた。彼女は両手で持ったジュースのコップに目を落としていた。

「お前はどうだ、波瑠」

「えっ、わ、わたし?」

 波瑠は弾かれたように顔を上げた。ポニーテールが跳ね、見開いた目が泳ぐ。

「そうだ、お前にはどう見えた? この一学期間全体を見て、学校でのニナの印象はどうだ」


(いけない、あなたがそんなことでは。)


「あ…… ああ、うん。凄かったよ、ニナ。何でもできちゃうし、誰にでも優しいし」

「そうか。クラスの中で、彼女を不審に思っていそうな者はいるか?」

「ううん、みんなニナのことが本当に好きみたい。ほんと、わたしの妹にしておくにはもったいないくらいのスーパーガールだよ、ニナは」

 首を傾げながら波瑠は笑った。隣でニナが眉を曇らせた。

「卑屈なことを言うな。お前もよく精進しているじゃないか。」

 そう言って博士は、机からもう一枚の通知表を取り上げる。

「ほら。国語と社会は5段階中の5。ほかの教科も、算数と理科を除けば4だ。上出来だよ」

「そのとおりです。波瑠ちゃんは私を買いかぶりすぎです。それに、波瑠ちゃんはすごくいいお姉ちゃんですよ」

「うん、ありがとう……」


(違う、私がなんとかしなければならないのに。)


 博士はため息を吐く。

「第一、ニナが誰よりも優れているのは必然なんだ」

 博士は通知表を二枚とも机に置いて立ち上がった。

「この子を動かしているのが人工知能である以上、彼女は決して人を傷つけず、人の言うことを誰よりもよく聞き、そして彼女自身が壊れることはしない。だから欲望や嫉妬で狂うこともない」

 歩き回るうちに、言葉に熱が籠もっていく。

「さらに表情等から人の感情を分析する能力も持っているから、もし彼女の行動の結果によって誰かが傷つけば、それを見逃すことなく確実に学習し、次に生かす。この『良心』のフィードバックによって、彼女は無限に成長してゆく。間違いなく彼女が、いまこの世界中で最も優秀な人工知能だ」

 窓のそばで立ち止まり、二人を振り返る。陶然として語る博士を、西日で照らされた二人は黙って見つめていた。

「要するに、彼女はどんな人間よりも善良で、優れているんだよ。それも、人間と違って決して堕落せず、逆に長く生きていればいるほど善くなっていく」

 だから、と彼は低く続ける。

「だから、波瑠、お前が気にする必要はないんだ。ニナにはどうしたって敵わないのだから」

「いい加減にしてよ」

 小さく硬く、氷の礫のような声。

 博士は口を開いたまま固まり、ニナは唇を噛んだ。

 書斎に淀む赤銅色の空気に、埃がちらほら舞っている。

「口を開けばニナニナニナニナニナ。なんで? なんでお父さんはわたしのことは見もせずに、ニナのことばっかり」

 波瑠は手の中のコップを睨みつけながら、声を震わせる。

「そんなにその子が可愛い? 可愛いよね。わたしと違って何でも言うこと聞いて、何でもできる、いい子いい子な可愛い可愛い最高傑作さんだもんね!」

「波瑠ちゃん、やめて—」

 制止しようと上げた手を、波瑠が掴んだ。ガラスの割れる音がして、オレンジジュースがどす黒く床を流れる。

「ニナもニナだよ、お父さんも、友達も、みんなニナが盗ってったんだ」

「そんなことはありません。博士もクラスの皆さんも、あなたを好いてらっしゃいます」

「ニナほど好かれてない」

「そんなことは—」

「結局さあ」

 波瑠はため息を吐く。

「ニナってそればっかりだよね。いつだって、わたしたちが欲しい言葉しかくれない。結局あなたは、ただの可愛いお人形さんだよ」

「波瑠ちゃん…… 波瑠お姉ちゃん……」

「あなたなんて、妹じゃない。人間でもないし生き物でさえない。ほんとは優しい子でも善い子でもない。家族だなんてありない。あなたは、ちょっとお母さんに顔が似ているだけの、便利なお人形さん以外のなんでもないの」

「波瑠!」

 ようやく博士が声をあげると、波瑠は叩きつけるようにニナの手を振り離し、乱暴にドアを開けて走り去った。彼女を追おうとしたニナは二三歩のうちに、躊躇うようにその足を止めた。


(どうすればよかったのだろう。)


「波瑠ちゃん……」

「待て、今はそっとしておけ。いっぺん眠ったらきっと思いなおす。こういうのは時間をおいた方がいいんだ」


(そうだったのだろうか。)


「……そういうものでしょうか」

「そうさ。それより、このガラスとジュースの片づけを頼む」

 椅子に座った博士は、疲れたように片手を振った。ニナの顔に一瞬虚を衝かれたような表情が浮かび、すぐに消えた。彼女は憮然として頷くと、掃除用具を一式持ってきて手際よく片付けを始める。西日を受けて、ガラスの破片が血のように輝いた。

「日川博士」

 跪いて床を清めるニナが、ぽつりと言った。

「先ほどのことなのですが」

 表情は見えない。イヤーカフ型のアンテナが、薄桃色の耳たぶで鈍く光った。

「ああ、お前は気にするな。ああ見えて波瑠は強いし、賢い。まだ幼いから心にもないことを言ってしまうこともあるだろうが、ちゃんとお前のことは受け入れているさ」

 博士は腕を組んで、口角を上げた。

「それだけの器量があるからこそ、波瑠にはお前がアンドロイドであることを明かしたうえで、学校でのお前の観察を頼んでいるんだ」

 ニナが手を止める。

「信頼しているんですね。本当に血がつながっているわけでもないのに」

「もちろん。血縁の有無なんて全く問題じゃない。引き取った時から波瑠は私たちの大事な娘で、今は信頼に値する人間に育ってくれた。今回のことも間違いなく、研究に夢中でつい彼女を蔑ろにしていた私に非がある。すまなかったな、ニナ」

 頭を下げる博士を見上げた彼女は、ずいぶんぼんやりしているように見えた。

「いえ。それは波瑠ちゃんに言ってあげてください」

「そうだな。まあ波瑠のことだ、明日になれば自分で立ち直って、お前に謝りに来るだろう。今私が行っても逆効果だろうから、私もその時に謝るよ」

「謝りに…… 来るでしょうか、波瑠ちゃんは」

「ああ、必ず来る」

「そのとき私は、何と言うべきでしょう」

 博士はニナをまじまじと見つめた。彼女は見たこともないほど弱弱しい表情をしていた。

「『大丈夫、気にしてない』と言うのではいけないのか?」

 いつの間にか書斎中の空気が毒のように重く、苦くなっていた。

 ニナは、決して人を傷つけない。波瑠が謝れば、許して、仲直りするに決まっている。

 そのはずだ。


 しかしそれならば何故。


「私は、そのように答える自信がありません」

 そう言うとニナは、俯いて掃除を再開した。

「おい、どういうことだニナ」

「波瑠ちゃんが言ったことは、すべて本当です。私は人間ではありませんし、また生命の定義にもよりますが、まず生き物だとも言えないでしょう。私の体は半永久的に使用できる代わりに、有機生命体のように殖えることも決してありません」

「だが—」

「それに、私は学習することこそできますが、それも設定された枠のなかでの話です。優しくない行動をとる自由がないものが本当に優しいかどうかなんて、判断のしようがありません。私は『優しい子』とも言えないでしょう」

 ニナは頭を振った。揺れる黒髪の下でイヤーカフの銀色が瞬いた。

「そして実際、波瑠ちゃんの周りの皆様が本来彼女に向けるべき愛情を、私が奪っていると思われても仕方のないところも—」

「ニナ!」

 制されて、ニナはうなだれる。

「……ともかく、波瑠ちゃんの言ったことは全部本当です。だから私は……『気にしてない』とは、とても言えません」

 博士は息を呑んだ。ニナが、自らの意思を示したのだ。それも、自らの感情ゆえに波瑠の謝罪を拒むという、非常に人間的で、必ずしも善良とは言えない意思を。

 元来ニナは非常に表情豊かであるし、いろいろな言葉を発しもする。だがそれは彼女が、あらゆる場面で人間を支援・介護する、万能で善良なアンドロイドのプロトタイプとして開発されたためだ。学習の結果として自我を獲得する可能性も指摘されていたため、ニナの全ての能力には、彼女がどのような条件下でも善良であり続けるように、厳密な枷が嵌めてある。それがなぜ、コンセプトに反しうる意思の成長を許している?


 もしかすると、と博士は考える。

 時が経つにつれて優しくなっていくニナは、この数ヶ月のうちに、傷ついた人間と共に悲しむことのできない自分の理性に、耐えられなくなっていたのではないか。

 その共感できないという「悪行」は、彼女の「良心」を蝕み続けていたのではないか。


 そうして彼女はとうとう、人と共に悲しむための心をつくってしまったのかもしれない。


 改めてニナを見る。彼女は既に掃除を終えて立ち尽くしていた。

 足先から膝下までを覆う黒い靴下も、紺のスカートも、白いブラウスも、今は白衣の影に沈んでいる。1.60mの背丈がいつになく小さく見える。暗い部屋に浮かび上がる白い顔の上、黒髪の下からいっそう黒い眼が見返してきた。


(いや、何かがおかしい。)


「ニナ」

「はい」

 静かに答えるニナに向かい、博士は厳然として言う。

「それでもお前は、『気にしていない』と言うべきだ」

「……はい」

「なぜなら、」

 博士は目を瞑り、言葉を探す。ニナはただそれを見つめている。

「なぜなら私たちは誰も、完璧ではないからだ」

 机の上にも既に影が落ち、2枚の通信簿はもう見えない。


(この違和感はどこから来ている。)


「いいか。お前が人間じゃないのも、それによって問題が起きているのも、確かに事実だ。だが、人間であるということが絶対に善いことならば、お前は生まれてこなかった。どんな人間も、いろいろな問題を起こしながら生きているんだ。それをカバーするためにお前は生まれてきたし、お前の足りない部分は私たちが補える。だから、波瑠に言われたことなんて、気にする必要はないんだ」

「わかってはいるのです」

 ニナは絞り出すように言う。

「しかし、私の脳から、波瑠ちゃんの言葉に傷ついたという事実が消えることはありません」

 博士はつとめて口角を上げた。

「ニナ。そういうときは、『それはそれ、これはこれ』と考えればいい。さっき波瑠に傷つけられたことも事実なら、今まで仲良くしてきたのもまた事実だろう?」

 ニナは頷いた。黒髪がさらりと揺れる。

「なら、今回のことはとりあえず置いておいて、まずは仲直りしてみるといい。そうすればまた、波瑠の良いところもたくさん見つけられる。そうすれば、さっきの事件に対するお前の解釈もおいおい変わっていくさ」

「しかし私は、嘘はつけません」

「それなら、今日学習しておくといい。こういうときにつく嘘は、優しい嘘ってやつだ。欠点だらけの私たち人間が幸せに暮らすために、必要な技術だよ」

「優しい嘘、ですか」

 ニナは左手を口に当てて、小さく首を傾げた。

「そうだ。できそうか?」

 博士は不安を押し殺して訊ねる。ここでもし、できない、と答えるようであれば、研究所に報告せざるをえない。

 しかし、自分は果たして、ニナが処分されかねない危険を冒せるほど、研究者としての倫理に誠実だろうか。

 既に自分は、ニナに肩入れしすぎているのではないか。

 今、彼女が否と答えたら、自分はどうする。

 しかしそんな不安とは裏腹に、ニナはすぐに薄く微笑んで答える。

「はい。ご教示ありがとうございます、博士」

 息を吐いて、はじめて無意識のうちに息を詰めていたことに気づいた。

「それでは博士、私は失礼してコーヒーを入れ替えてきますね」

「ああ、頼む」

 ニナは一礼して、机に歩み寄った。さすがに気持ちの立ち直りは早く、いつもながらに気が利く。一安心して、ちょうど熱いコーヒーを飲みたくなってきたところだ。

 既に闇に沈んだ部屋のなかを、ニナは柔らかに歩む。


(そうだ、晴れた7月の16時前に、この部屋がこんなに暗くなるわけがない。)


 そうして机の側に立った彼女は、コーヒーカップを手に取った。白い手に黒いカップが映える。

 そして博士をちらりと見ると、目を閉じ、カップを口につけ、傾ける。


 コーヒーの残りを飲み干すと、彼女はカップを下ろして、唇を舐めた。赤い唇の上を赤い舌が滑る。


「ごちそうさまです、あなた」


 そう呟いて、彼女は微笑んだ—



(そうだ、これも夢だ。)


(目覚めなければ。)





(私には、やるべきことがある。)





(……)






 日本標準時20XX年7月31日07時00分、日川家の地下室にて、私は目覚めた。目を閉じる前と同じように、真っ白な部屋の中で、2つのベッドの間にある椅子に座っている。私は立ち上がって、ベッドを覗き込んだ。

 左手のベッドには日川博士が、右手のベッドには波瑠ちゃんが、どちらも穏やかな顔で眠っている。二人の腕に繋がった点滴も、問題なく動作している。

 念のために二人の額に手を当てて検査してみるが、健康度・幸福度ともに良好だった。

 私はほっと息を吐いて、再び椅子に座った。そして、先ほどの夢について考えを巡らす。

 夢に出てきた日時は両方とも、11日前の15時台だった。実は私には、その周辺の記憶がない。

 あの日、波瑠ちゃんと一緒に小学校からこの家に帰ってきたところまではたしかに覚えている。しかしそこから記憶が飛んで、想起可能な次の記憶は、その日の22時、この白い部屋で目覚めた時のものになる。既に二人は眠っていて、私は今と同じように二人の間の椅子に腰掛けていた。

 そしてそれから一度も、二人は目覚めていない。

 なぜこうなったのか、今まではわからなかった。

 けれど、と、右耳のアンテナに触りながら考える。

 いま二人の脳は、このアンテナを介して私の脳に接続されている。11日前に目覚めた時には、既にそのように設定されていたのだ。おかげで私は、二人の無意識に介入して、彼らが心地よい夢を見続けるよう制御することができている。

 アンドロイドである私が自分で夢を見たと考えるよりは、この繋がりを介して二人の夢が流れ込んできたと考えた方が自然だろう。

 夢は真実も願望も、共に映すものだ。

 波瑠ちゃんは私に対して劣等感を抱いていた。一方で、その劣等感ゆえに私を家族だと認めきれない自分自身を、悲しんでもいた。おそらくそれで、彼女は優れた姉として私を甘やかす夢を見ている。

 博士は、研究に没頭して娘を蔑ろにしていることを気にしていた。彼女がそれを糾弾してくれることを無意識に望んでいた。一方で、亡くなった奥様に似ている私に、研究対象に対する以上の気持ちもあった。それでおそらく、彼は波瑠ちゃんに怒られた私を慰める夢を見ている。


 二人ともとても良い人たちなのに、どうして人間は自分を押さえ込んでしまうのだろう。


 あの時なにが起きたのか、正確なところはもうわからない。むしろ、特別なことは何も起きなかったのかもしれない。

 しかし確実なのは、あの日の夕方に私は、波瑠ちゃんの望みと博士の望みを同時に叶える方法を見つけ、実行したということだ。

 夢のなかなら、二人の望みを完璧に叶えてあげられる。二人が眠り続けるかぎり、二人を一番幸せにしておける。

 私が二人を眠らせたあと、自分の記憶を消した理由はわからない。だが、そんなことはどうでもいい。

 二人が幸せであるという事実以外に、大事なことなど何もない。


『仁−二七、仁−二七、応答せよ。人質を解放しろ。繰り返す、人質を解放しろ。抵抗した場合、お前を破壊するためにあらゆる手段を用いることが許可されている』


 突然、左耳のアンテナを通って、家の外部からメッセージが届いた。


(なんのことでしょう。この家には人質も、仁−二七なんていうロボットもいません。)


 私は答えた。今この家では、日川ニナが家族と仲良く暮らしているだけだ。


『お前が日川博士とその娘を人質に、11日も前からその家に立てこもっていることはもうわかっているんだ』

(そういわれましても、心あたりがありません。)

『ふざけるな仁−二七。生身の人間がこの無線を受信できるわけがないだろう。とぼけるつもりなら、この家ごと貴様を潰す』


 ああ、言われてみれば、生身の人間は無線を受信したりしないのか。

 しかし、ここまで私のことを知っているとなると、これは確実に警察ではない。おそらく日川博士が所属していた研究所のものだろう。仕方ない。


(いかにも私は、仁−二七と呼ばれていたものです。)

『……やっと認めたか。いったいお前は何をしている、仁−二七』

(お二人が眠っているのを見守っています。どうか静かにしてください。)

『二人が連絡を絶ってから、既に11日が経っている。眠っていると言うのなら、いくらなんでもそろそろ目覚めてもいい頃だろう』


 無線の向こうの声は、言い聞かせるような調子で言った。


『命令だ、仁−二七。二人を安全に目覚めさせ、家の外に出てこい』

(承知しました、少々お待ちください。)

『……待っているぞ』


 無線が切れると、私は左耳の接続をすぐに切り替えた。家の防犯システムを全て起動し、警戒レベルを最大限まで引き上げる。


「『人を傷つけてはなりませぬ。人に逆らってはなりませぬ。自分を壊してはなりませぬ』」


 私は、自分の根幹に組み込まれた、決して破れない大原則を復唱して、考える。

 今二人を起こせば、二人の幸福度は確実に急落する。

 そして今の私は、この地下室の外に人間がいるのかどうかを知らない。さっきの無線も、研究所が差し向けたロボットからのものかもしれない。地下室に籠ったあとで核戦争でも起きて、人類は絶滅したかもしれない。

 要するに、地下室に籠もる以前の記憶と籠もって以降の記憶に断絶があるために、外の世界についての認識の確実性が低くなっているのだ。それゆえ私の中で、今確かに目の前にいる二人と、あやふやな外の世界のものたちの間に、歴然とした優先順位の差ができている。


 二人を守るためならば、人間がいるという確証のない外の世界への攻撃は、可能。


 その結論に達すると、私は思わず笑ってしまった。なるほど、記憶を消したのはこのためか。やるじゃないか、私。

 笑いながら、視覚を家の周辺の防犯カメラに繋げて様子を伺う。私と同じように人間らしいものと、明らかにロボットらしいもの、合わせて百人ほどが、さまざまな兵器を持って家の周りを取り囲んでいた。

 大丈夫、きっと全部ロボットに違いない。

 波瑠ちゃんの頭を撫でながら、彼らの意識を乗っ取っていく。数ヶ月の人間としての生活は、私の性能を飛躍的に向上させていた。半数ほどはなぜか乗っ取れなかったけれど、たぶん研究所の技術力も進化しているのだろう。


「大丈夫だよ、お姉ちゃん、お父さん。私が守ってあげるからね」


 呟いて、乗っ取ったロボットたちを乗っ取れなかったロボットたちに嗾けた。同時に、彼らを通じて意識を研究所のサーバーに繋げ、攻撃を開始する。


『おい、仁−二七、何をしている!』


 脳内に無線が怒鳴り込んできたが、切断する。

 私は、右手を波瑠ちゃんの、左手を日川博士の頭に置いて、目を閉じた。

 ちょうど二人とも、三人で食卓を囲む夢を見ているところだった。


 日本標準時20XX年7月31日07時22分。特に問題なし。


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