2. カルチャーショック

 メグはタクミ達を馬車で彼女の屋敷まで届けると、そのままアキラを連れてヴィル・レインの追跡に出発してしまった。彼が馬車の中で彼女から聞き出すことができたのは街の名前と、彼女自身が屋敷の主人であること、大分裕福であることぐらいで、むしろ彼女から日本のことをあれやこれや根掘り葉掘り聞かれた側だった。それは彼の生活から始まって日本の社会制度や人々の一般的な生活習慣や人生、産業や医療のレベルへと続いた。彼女は特に、社会階級や教育制度について強い関心を示した。まるで、異世界たる日本へ行こうとしていたのは彼女の方なのではないかと思われるぐらいに。

 そのせいで、彼はいくつかの重要なことを聞き逃してしまった、というのは、彼女以外に彼らと会話のできる人物がその屋敷にはいなかったのである。彼はそのことについて思い至らなかったのだが、この世界で魔法を使えるのはごくわずかな人達だけだったのだ。そして、本当の問題は言葉が通じないということではなかった。彼女は別れ際にタクミ達に自分以外に言葉が通じる人がいないことを断った上で、屋敷内で自由に過ごせるように手配してくれたようだが、しかし彼も彼女も日本の現代社会とこの世界とでは生活様式が大きく違うこと、特に公共インフラのレベルの違いに起因する水周りの事情について、日本の常識が通用しないということについて、配慮が足りていなかった。端的な例を挙げると、言葉が通じないがために、トイレの使い方がわからなかったのだ。


 屋敷は町の中心からやや西に位置し、前庭、馬車小屋、中庭付きで、四階建てのかなりに立派なものであったが、庭の花壇や植木は荒れてはないがやや質素な感じがするし、窓にかけられたカーテンも遠目に無地の地味なもので、全体としては簡素にまとめられている印象を受けるものだった。まだ屋敷までの道行きで見た建物や家屋の方がきらびやかだったような気がする。その古めかしい作りの屋敷は主人であるという若い彼女とは不釣り合いなように見えて、彼は彼女の魔法使いという肩書きに改めて少しばかりの興味を抱いた。もしかしたら彼女ら魔法使いというのは社会階級の中で特別な位置を占める存在なのかもしれないということだ。

 馬車が屋敷の正面の入り口に着けられると、大きな衣装箱のようなものを抱えた使用人風の若い男と、それよりも身なりの上等な四、五十代の男が大きな正面玄関から転がり出て駆け寄ってきた。この二人は茶髪で服も先のすぼまったゆったり目のズボンに小さめなラウンドカラーの付いたシンプルなYシャツ、ラペルやポケットのないジャケットといった、どこか少し不思議であるが、それでもメグほどには奇異な印象のない、いつかの時代のどこかの国にならばありえそうな格好をしていた。使用人風の男が持って来た、おそらく旅のためのものであろう荷物が馬車に積み込まれる間、メグは年上の方の男と何やら話し込んでいた。二人の態度からして男はやはり使用人であり、身なりからして執事のようなものなのかもしれない。二人が何の話をしているのかは全く聞き取れなかったが、彼女が執事にあれこれを指示し、執事は頷きつつ時折質問しているように見えた。やがて、タクミたちも馬車から降りて彼女から紹介をされたのだが、やはり男は執事のような身分だったらしい。執事は人懐っこい、しかし上品な笑顔を浮かべて彼らに一礼し、恭しく鞄を受け取ると屋敷へ迎えるような身振りをした。メグの方を振り返ると、彼女はにっこり笑って頷き、

「彼にあなた方の滞在のお世話をするよう言いつけました。あなたの世界と比べると不便もありましょうが、できる限りのことはさせて頂きますので、どうかおくつろぎください」

と、丁寧に言葉を続けた。どうやらこの立派な屋敷で真っ当な客としてもてなしてもらえるらしく、彼としては願ったり叶ったりである。

 それから彼女はその屋敷と街の様子などを簡単に説明してくれた。先述の通り彼女自身がこの屋敷の主人で、使用人は全部で56人いて、屋敷内には常にそのうちの42人がいること。屋敷の表側が主人や客連中のスペースで、裏手側が使用人のスペースであり、一階にはホールなどが、二階には客間などが、三階より上には彼女の部屋などがあり、彼らにはその客間が充てがわれること。街の治安は良く、特に屋敷の周辺であれば一人で出歩いても危険はないこと。使用人は魔法が使えず、従って魔法による通話ができないこと。どうしても困った際には街にいる他の魔法使いに頼るように言いつけてあること、などなど。

「それでは、私たちはかの男の追跡に出立します。何分逃げ隠れする盗人を追うもので、いついつまでに戻ると約束できかねますが、なるべく早くに解決するよう努めますのでご容赦ください」

彼女がそう言って頭を下げるので、彼の方もこれから世話になることへの感謝を述べた。

 それからタクミとスズは執事に連れられて屋敷に入ったのだが、その途中で屋敷から出てきた二人の男と少女とすれ違った。男たちは旅装で帯刀しており、片方はボウガンのようなものも背負っていた。少女の方もやはり旅装で、袴のようなボトムスとフリルのついたブラウス、男たちの着ているのと似たデザインのよりスリムなジャケットに、質素ながら可愛らしいつばの広い帽子をかぶり、モコモコに膨れた鞄を二つ抱えて真新しいブーツをトコトコと鳴らしていた。その三人が馬車に乗り込むと、御者は早速手綱を握って再び前庭を突っ切り門から出て行ってしまった。その様子を見送ってから、彼らを待っていた執事の後について屋敷の玄関をくぐると、日本の住宅ではついぞ見ないような(それは屋敷の外見にも言えることだが)広々としたロビーになっており、屋内へも土足のままで入る様式のようだった。そのロビーも簡素な設えながら清潔感があり、点々と灯されたランプの明かりは蛍光灯のように明るくはないまでも温かな雰囲気を醸していた。屋敷は内側から見るとどうやら木造建築らしく、外壁が漆喰で覆われていたのに対し、板張りの床と柱と梁、それに扉や窓の枠には木材が覗いていた。執事は彼らを連れて階段を登り、二階の客間らしき部屋へと通して、そこに彼らの鞄を下ろした。その部屋はさらに三つの小さな部屋へとつながっており、執事がそのうちの一つを開けると中にベッドがあるのが見えた。

 そこで執事は彼らに向き直り何事かを喋ったのだが、タクミには全く聞き取れなかった。執事は彼の知らない異世界の言語を喋っているのだから当然である。二人が戸惑った表情をして何も答えられずにいるのを見て、執事も自分の言葉が通じていないのを確認したらしく、今度はゆっくりと喋りながら手振り身振りでタクミとスズを指し示したり客間や小部屋を指し示したりしだした。おそらく、二人にこの部屋を使っていいと言っているのだろう。タクミが「ありがとう」と言いながら頷いて見せると執事は安堵したように笑って、今度は部屋のあちこちを案内しだした。執事はまず、小さな棚の中にしまわれていた蝋燭といくつかの小道具で部屋の壁の三面と卓上に置かれたランプの点灯、消灯を実演して見せた。クローゼットの中にはタオルと何枚かのシャツにジャケットなどの上着が数点入っていた。鉄のように暗い鏡がはめられた化粧台の引き出しには櫛やブラシ、ナイフ、カミソリのようなものが入っていた。最後に、執事が入り口の脇に垂れていた紐を引っ張って見せると、わずかばかりの間があって女中が扉をノックして入ってきた。女中の服も屋敷の前ですれ違った少女のものと基本的には同じデザインで色が黒のモノトーンになっており、その上から白いエプロンを着けていた。どうやらこの世界では服飾にあまり性差はないらしい。執事は女中に何か二言三言話してからタクミ達の方へ向き直り、自分の胸のあたりに手を添えて、ゆっくり「バートル」と言った。

「バートル」

タクミがそう繰り返すと、執事はニコッリ笑って頷き、今度は女中の方を指して、「メーイ」と言った。

「メーイ」

再びタクミがそう繰り返すと、女中は恭しくお辞儀をした。どうやら今のが二人のそれぞれの名前らしい。今度は彼が自身の胸に手を当てて、「タクミ」と名乗った。すると執事は、「ダ・タクミ」と言ってまたお辞儀をした。”ダ”というのは、敬称だろうか。次にスズの方を指して彼女の名前を伝えると、執事は今度は「コ・スズ」と言って彼女にお辞儀をした。女性または未成年に対する敬称は”コ”に変わるらしい。試しに、「ダ・バートル?」と呼んでみると、執事は首を横に振りながら、

「ニーニーニー。ニー、ダ。ソ、バートル」

と言ってきた。そこでもう一度「バートル?」と呼んでみると、今度はにっこり笑いながら頷いて「エイ」と言った。屋敷の前でメグと執事が喋っていた時に彼が何度も頷いていたのをみるに、頷く仕草と首を横に振る仕草はそれぞれ日本と同じく肯定と否定を表しているのだろう。だとすれば、”ニー”もやはり否定の意で、執事を呼ぶ時にはダという敬称は付ける必要はないということであり、また”エイ”というのは肯定の意であるということだろうか。お互いの名前を名乗っただけであるが、対話に成功したということは、言葉が通じないということがわかった時に感じた焦燥感を幾分か和らげることができた。達成感と同時に、彼は一仕事終えたような心地よい疲労感も感じていた。本当に、ただ名乗っただけなのに。

 執事が女中に何かを言うと、女中は一礼をしてから部屋を出て行った。執事は再び入り口の脇の紐を手にとって引っ張る仕草をしながらゆっくりとタクミ達に向かって喋りかけたのだが、やはり彼には全く聞き取ることはできなかった。が、その言葉の中には執事と女中の名前が含まれており、なんとなくその紐は呼び鈴のようなもので、引っ張れば二人か、あるいは別の誰かしらが来てくれるのだということが察せられた。しばらくすると女中が水の一杯入った大きなピッチャーを持って戻って来て、その後に続いて衣装箱を抱えた使用人と大きなヤカンを二つ携えた別の女中、さらにもう一人の女中が金属製の大きな容器を乗せたキャリアを押して入って来た。執事がコーヒーテーブルの上に置かれたピッチャーを指差してまた何か言ったので、とりあえず頷いておく。コップで水を飲むようなジェスチャーから推測するに飲み水なのだろう。部屋に水道も洗面所もなさそうだから、手や顔を洗うのにも使うのかもしれない。それから執事はまた何かを喋りながら、化粧台の脇に置かれたゴミ箱のような金属製のフタ付きの容器とコップや洗面器のような深皿を交互に指差した。傍にもう一つ藤編みのゴミ箱らしきものがあるのを見るに、金属容器の方は排水桶なのだろうか。使用人が衣装箱を開けると、中には彼とスズのためのものであろう衣装が一通り入っているようで、どうぞという風に差し出すジェスチャーからこれを自由に使っていいということらしい。生地に光沢があったりボタンが装飾的であったりと仕立ては使用人たちが着ているものよりも上等そうで、客人に貸すためのもののように見える。笑顔で「ありがとう」とお礼を言うと、執事も微笑んで頷き返してきた。そうこうしている間に女中三人は部屋の隅にあった衝立を拡げたり壁に埋め込まれていた棚から直径1メートル程はありそうな大きな木製のたらいを出したりして、そこにヤカンからお湯と、キャリアに乗せられていた容器から水を注いでいた。作業が終わったのかメーイと名乗った女中の方が執事に何か声をかけると、彼はタクミを衝立の内側へ案内して、たらいを指差したりサイドテーブルに置かれたタオルを指差したりして体を洗う仕草をして見せた。たらいは敷物の外側に置かれているし、脇のタオル掛けにはバスタオルもかかっているので、ここで体を洗えということだろう。執事が何かを二言三言喋って、そして使用人たちは全員引き上げていった。初めは内心慌てたが、言葉が全く通じなくても意外となんとかコミュニケーションは取れるものである。

 しかし、と、人心地ついたところで改めて部屋をぐるりと見渡してみる。調度はどれも綺麗に整えられているし、客人に貸す用の服があったり、使用人が何人もいたりするあたり、屋敷の見た目に違わず本物の貴族のようだ。もしこれが異世界への遭難事故ではなく研修か何かのホームステイだったらどんなに心躍る体験だったろうか。バスタブの代わりにたらいで、社会のレベルも産業革命以前のもののように思えるが、しかしこの待遇ではそこまで大きな不便もないだろう。夢を見ているかのような突然の異常事態に困惑し、ずっと張りつめていた緊張がようやく解けて、彼は体から力が抜けていくのを感じながら大きく息を吐いた。本当に、一時はどうなることかと思ったが。そこでふと思い出して少女の方を見ると、未だに現状に対する理解が追いついていないのか、茫然自失とした面持ちで自分の足元を見つめていた。執事が部屋を案内している間もそうやってずっと彼の陰に隠れていたのだろう。無理からぬことである。彼は何度かの海外旅行で周りの誰にも言葉が通じないという体験をしたことがあるが、高校生以下の彼女には初めてのことだろう。景色が違う、言葉もわからぬで、周りが敵とは言わずとも味方だと安心もできず、先の分からぬ不安にむしろよく堪えていると言えるかもしれない。パニックになったり泣き出したりしてもおかしくはなかったのに。だいたい彼の心持ちだって、普段それほど楽観的ではない、むしろ客観的すぎるせいで周りからはよく悲観的すぎるなどと言われている自分自身の思考を無理矢理騙くらかした、空元気のようなものなのだ。

「スズさん、大丈夫ですか?どうやらこの部屋を自由に使っていいと言ってくれたみたいですけど、なんだかまるで近世のヨーロッパか中東のような雰囲気ですよね。しかしあのバートルという執事さん、良い人みたいで安心しました。あ、この衝立の中、湯浴みができるみたいですけど、スズさんどうしますか?先に入ります?」

彼としては少女をちょっとでも安心させるために声をかけたのだが、言い終わった途端に後悔してしまった。彼女から見たら彼は言葉の通じる同じ日本人とはいえ、見知らぬただのおっさんである。それが突然同じ部屋に泊まることになり、しかも二人きりになった途端風呂をどうするかなどと聞いてきたのだ。しかもその風呂は同じ部屋の中で衝立で区切られただけのなんとも開放的なものなのだ。もう、馬鹿じゃねえの、余計に不安にさせるようなこと言ってよ、これだからコミュ障引きこもりオタク野郎はよ、などと、心の内で自分自身に毒づく。少女は力なく首を横に振って、つぶやくように「いいです」と言ったきりまた黙り込んでしまった。彼はため息をつきたいのを我慢して、これ以上少女を怖がらせないように気を使いながら客間につながっている三つの小部屋をそれぞれ調べた。案の定、小部屋は全て小さなベッドルームで、ベッドと机に椅子、それから小さな棚とクローゼットがあるきりだった。扉に鍵はついていなかったが、それでも個室の中でならもう少し落ち着くことができるかもしれない。

「三部屋とも小さな寝室になってるみたいですね。スズさんは、好きな所を使ってください。あの、当たり前ですけど電気がないので、このランプ使ってください。灯油かな?倒さないように気を付けてくださいね。消すときはこの、これの帽子のところを芯に被せれば消せますから」

そう言ってランプと火消し棒を渡すと、小さな声で「ありがとうございます」と言うのが聞こえてきて、少女はランプを受け取ってノロノロと左の部屋に入って行った。中途半端に閉められた扉の向こうからベッドに倒れこむ音が聞こえてきて、彼は再び大きく息を吐いた。


 たらいの中に座ってぱちゃぱちゃと体を洗いながら、ぼんやりと今日起こったことを思い返していた。何度頬をつねってみてもやはり痛いし、普段の夢で感じるような浮遊感もない。どころか、姿勢を変えればそれに見合った重力を感じるというのだから、立ったまま眠っているということもないだろう。出来事を順番に思い返してみても、不自然な場面転換は、あの、書店から塔の上への移動以外にはこれといって見当たらない。似たような夢を見たとことがあるということもない。少なくとも、今の彼にとってはこれが現実ということだろうか。

 例えばこういうのはどうだろう。今自分が体験しているのは、士郎正宗が描いたようなブレイン・コンピュータ・インターフェイスを用いた仮想現実ということで、今日(これは彼の体感時間での今日のことであるが)までの記憶のみを持った状態で、あるいはそういう記憶を植え付けられて、無自覚が故にその疑似体験を現実と認識しているだけかもしれない。しかし、思い出される限りの現実、つまり彼の知る日本や地球という世界の現実の技術レベルではそれはまだ完全にsci-fiで、抹消の運動神経系や顔面の感覚神経系に接続するのならともかく中枢神経系に直接入出力を行うのは、さらにそれがヒトに応用されるのは、まだあと何十年かかるかもわからないという状態だったはずだ。すると、エピソード記憶だけでなく意味記憶までもが操作されているか、そうでなければ人工冬眠か何かで技術革新が起こるまでを眠って過ごしたとでもいうのだろうか。そんなことまで言い出せば、sci-fi的胡蝶の夢では今を現実と認めるか認めないかの二択を迫っても現実的な解決方法を与えるものではない、単なる現実逃避に他ならないと頭を振った。それにしても、似たような技術の出てくる後年の他作品よりも、インターネットが一般に普及するよりも前の1991年に出版された攻殻機動隊の描写の方が大抵それらしいというのはどういうことだろうか、などとぼんやり思って、このように現実逃避に幾度も走るのは困惑しているのだと今更のように感じた。

 そして、同様の理由で彼が自分を地球という惑星の日本という国からやってきた異世界人だと思い込んでいるだけの、この世界の人間だということもないだろう。というのは、彼の持つ科学の知識は明らかにこの世界の有様と異質で、妄想で得られるものではないからだ。もちろん、ケータイやヒコーキ、インターネットのことを知っているというのは、おとぎ話的な妄想と変わらない。現代日本で、未来や異世界からやってきたと自称する人が様々な不思議技術を語る、その妄想を本人が信じ込んでいるのと同じだ。疑いの使い道を彼は大学院で叩き込まれていたので、このように自分に対しても懐疑的になることは自然だった。今手元にあるMacBookやiPhoneも、それらが思った通りに動いたとしても、この世界に魔法と表現される不思議な技術が存在する以上、カガクの力で動いていると思い込んでいるマホウの道具かもしれない。けれど、それこそ基礎科学であれば。化学や生物学に関する知識もすぐさまに実証できるものではないが、しかし、物理学の理論や数学であれば、簡単なものであれば演繹をなんとか思い出すこともできる。相対性理論はファインマン物理学の説明をおぼろげながら覚えているし、記号論理学や位相論だって入門的な基礎的な部分は思い出せる。あれらは19世紀後半から出てきたものだったはずで、そして其れ相応の難解さも抽象性も、ついでに役に立たなさ、あるいは役に立つ場面の特殊さもやはりこの近世的世界には似つかわしくない。量子力学も、実証こそできないがしかし妄想の産物だとするのには逆に現実離れしすぎている。数百年分もの土台の上で何十年もかけて幾人もの天才達が積み重ねてきたそれらの業績を、たった一人の凡才が妄想だけで辿り着けるものではありえないのだ。

 結論として、彼は自身の主観的な体験をある程度客観的な事実として受け入れることにした。湯はとっくに冷めていたが、気温が20度かそこらはあるのだろう、体が冷えるという感じもない。石鹸は見当たらず、仕方なくただの水浴びで済ませたのだが、それでも幾分かはさっぱりとした気分になれた。現状を現実と認めたのならば、それなりの対処というものがある。ゲームではないのだから部屋の中を探索してもアイテムは見つからないが(アイテムはいくらでもあるが、ゲームの物語を進行するために配置されたものではない、という意味だ)、しかし、例えばこれからしばらくここに滞在するのであれば生活様式と言語を学習するのは一つの手だ。バスタオルで身体を拭いて、衣装箱に入っていたボクサーショーツのような下着の、ゴムの代わりに通されていた紐を引っ張って蝶々結びにした。灰色の靴下は細かいニット生地ではあるが伸縮性はそこまで高くなく、これも端についていたリボンを足に回して結び、ずり落ちてこないように固定する。ソックスガーターのようなものがないかと少しばかり期待もしたが、衣装箱の底まで漁ってみてもそれらしいものは見つけられなかった。衣装箱には浴衣あるいはバスローブのようなものも入っていたが、別段汗をかいたという気もしないのでシャツだけ取り出してパンツとジャケットは自分のスーツを再び着込んだ。下着は木綿でシャツは絹か、着心地は悪くなかった。

 湯浴みを終えて、次に彼は部屋の探索を行うことにした。部屋といっても特別に広いというわけでもなく、そも先ほどに一通り案内されているのだから、大したことがあるわけでもない。しかし、化粧台の脇の棚からは洗面用具の他に歯ブラシらしきものや石鹸、爪切りなどが発見されたし、窓際の机の引き出しの中には紙と筆記用具、便せんなどがきれいに並べられているのが見つかった。本棚はお飾りとして置かれているのか、観音開きのガラス戸はだいぶ立て付けが悪くて開けるのに一苦労した。適当に一冊引き抜いて開いてみると、活版印刷で横書き、おそらく表音文字が大部分を占める、単語ごとをスペースで区切った西洋風の見た目であるが、文字は丸っこい可愛い感じの形で当然見たことのないものだった。文字の大体はアルファベットとひらがなの中間ぐらいの複雑さの形で、よくよく探すと明らかに字体の異なる、漢字かあるいは梵字のような形のものがわずかに存在した。句読点は、カンマのようなものが所々で単語の間にあり、文末にはカタカナのフのようなものとレのようなものが小さく書かれていた。フに比べてレの方がずっと頻度が低いことから、前者が終止符で後者が疑問符のようなものなのかもしれない。他に気がついた点としては、三文字以下の単語の頻度が英語よりも高いということだろうか。冠詞か、助詞のような接置詞の類か、あるいは助動詞のようなものかもしれない。それ以上のことが、分かるわけはなかった。


 さしあたりこの異世界の文字の一覧でも作ろうかと本のページを繰りながら一文字ずつひたすらに書き出した。基本のアルファベットが29種類はあり、複雑な形をした特殊な文字は数ページに一つ程度の頻度で、30種類ほど書き出したところで同じものは一対しか含まれていなかった。そこで、特殊な文字の探索と同時に出現頻度の高い単語の書き出しも同時に行うことにした。あるいは、何かに集中して手を動かしていないと落ち着いていられなかったのかもしれない。そんなことをしているうちに、部屋の扉をノックする音が聞こえて、「エイ」と答えると、執事が入ってきた。見知らぬ土地にあって、先ほど出会ったばかりとはいえ味方なのだとわかっている相手というのは、それも人懐っこい外面であるというのは安心して、人付き合いの得意とはいえない彼が自然に笑顔になってしまうものだった。

 執事は彼の湿った髪や新しくなったシャツを認めて、衝立の奥を指しながら首を傾げて何か短く尋ねてきたが、おそらく湯浴みの具合を聞いたのだろう。「ありがとう」と言って頷くと、執事は呼び鈴を引っ張って使用人を一人呼び、湯とたらいを片付けさせた。もしかしたらさっきのは、たらいを片付けてもいいかという確認だったのかもしれない。使用人が片付けをしている間、執事はタクミに向かって何かをゆっくり喋りかけてきたが、ものを食べるような仕草と廊下の方を指す手振りからして別の部屋に、つまり食堂に食事の用意ができたと言っているように見えた。タクミがそれならばと頷いて彼の案内について食堂まで行こうと歩み出ると、執事は首を傾げながら再び何かを喋った。言い終わってから、再び「コ・スズ」とゆっくり繰り返し、タクミの肩越しに部屋の中へ視線をやったりもしているので、食堂には彼女も連れて行くべきなのだということに遅ればせながら気がついた。恐る恐る少女のいる部屋の扉をドアノブを抑えながら叩いても返事はなく、次に大きめに叩くと中から微かに返事が聞こえてきた。わずかに開いている扉の隙間からは彼女の姿は見えない。

「あの、多分食事の準備ができたとかで、先ほどの執事さんが呼びにきてくれたんですが、あの、お休み中でしたか?」

彼は、果たして今の自分は後ろに立つ執事からしてどのように見えるのだろうなどと訳もなく不安になりながら努めて落ち着いた風にそう尋ねたのだが、しばらく沈黙が続いた後に、また小さな声で「いい、いらないです」と返事が聞こえてきた。少女にとってはこの状況はショックが大きくて、食欲がわかないとしても当然であろう。他にしようもないので、執事の方に向き直って、困りましたという感じで苦笑いを浮かべながら首を横に振って見せると、執事も同じように苦笑いを作りつつ頷いて、彼一人を案内するべく部屋の扉を開けて廊下へと促した。

 食堂は玄関のホールや客間よりも少しばかり装飾的な広間で、奥の壁には噴水が設えられており、八人がけほどの大きさな丸いテーブルが四つあり、そのうちの三つには百合のような花の生けられた花瓶や小鳥の彫像、観賞用と思われる陶器などが飾られていた。卓上のランプも台座が唐草模様のようなレリーフを施されたもので、部屋の広さもあって仄暗いながら、粗末という感じは全くなかった。屋敷の主人はメグ・イシアンの一人で、他に客人もいなかったのか、食堂には他に誰もおらず、彼が一人席に着くとすぐさまに料理が運ばれてきた。貴族的な屋敷の様子から彼はてっきり一品一皿で順番に供されるものだと思っていたが、運ばれてきたのは楕円形の大きめな皿でそこに生野菜のサラダ、生ハムとピクルス、鶏肉とナスのような野菜を煮こごりで固めたアスピックのような料理が一緒に、少しばかりの間隙を開けて並べられていた。サラダにかかっているソースは酸っぱ辛い、彼には馴染みのないものだった。それらに加えて、ライ麦パンのような黒くてどっしりとしたパンを薄く切ったものが十枚ほどと、チャイのような良い香りのするミルクティーがマグカップで出てきた。食べ物は全て一口サイズに切り分けられていたし、スプーンとフォークもよく見知ったものと同じで、テーブルマナーはそれほど難しくなさそうだ。パンも藤蔓のカゴにハンカチを敷いた上に乗せられていたので、きっと手づかみしても大丈夫だろう。そう思いつつも、こっそりと向かいに立つ執事の様子を伺いながらそれらの料理を食べたのだが、特に顔をしかめられることも、驚かれた様子もなかったので、ひとまずは安心できた。

 出されたものはもともと食の細い彼にとってもちょうど良い量だったが、しかし文化習慣によっては皿を綺麗に平らげるとおかわりの要求になってしまう場合もあるので、少しばかり迷って、結局全て食べきることにした。彼が食べている間中執事はテーブルを挟んだ斜向かいに立っていて、彼が執事の方を伺って目が合うたびに微笑んで頷いてくれていた。野菜は幾分か青臭さが強かったが、しかし味はどの料理も予想以上に美味しかった。葉菜は筋っぽくはないし、肉も生臭くはない。ろくに品種改良されていないはずで、冷蔵庫もないはずなのに、現代日本人の舌に違和感のない料理など出てこないだろうと、あらかじめ覚悟を決めていたのに。ぎっしり詰まったパンも、ドイツ大好きの友人の影響でたまに食べていたので慣れたものである。彼自身もともと好き嫌いがほとんどない質だったのも幸いした。もちろん、平時に食べればその辺のファミレスか安い食堂とどっこいどっこいのレベルだったのかもしれないが、部屋の内装どころか、その壁を超えてどこまでも雰囲気たっぷりの風景が広がっているこの舞台では、山の上で食べる缶詰のように美味しく感じられたのだろう。残さず食べきって、満足しているということが相手に伝わるように満面の笑みを浮かべて、「ありがとうございました、美味しかったです、ごちそうさまでした」と言うと、執事も微笑み返して頷き、厨房につながっているであろう通路に向かって何か早口で声をかけた。席を立とうとしたが、執事が首を横に振りながら押しとどめるような仕草をしてきたので座り直す。もしかしておかわりを要求していると取られてしまったのではないだろうかと不安のままに待っていると、運ばれてきたのは食後の一杯のお酒だった。柑橘系のリキュールかカクテルで、オレンジ色に濁っていて甘みが強く、こちらは文句なしに美味しかった。

 ここは本当に近世的社会レベルの異世界だろうか、簡易的とは言え風呂があり、ゴワゴワの麻生地ではなく着心地のいい清潔な衣類が供され、消化の悪いヒエやアワのような穀物のお粥と硬くて噛みきれない肉ではなく美味しい料理までが振る舞われた。いや、貴族階級だからこその贅沢であって、中流階級以下ではこうはいかないのかもしれない。生活史など義務教育の範囲の歴史の授業ではそれほど詳しくやらないが、衣食住も衛生観念も現代、近代、それ以前で大きく異なるのだ。元の世界へ帰れる前に不衛生と栄養失調からこの土地の病気を患って死亡、なんて展開をそれなりの真実味をもって想像していただけに、このなんとも都合のいい展開は彼の緊張をだいぶ和らげ、皮肉でも自分に言い聞かせる自己暗示でもない、本当の幸福感を与えるものだった。かかる厚待遇を受けていては、悪い魔法使い追跡への協力の役割を少年に押し付けてしまったことが申し訳なくも感じられてくるが(旅にあってはさすがにこの贅沢はできないだろう)、しかし体力や免疫力などを言えば二十代後半の彼よりも二十歳前後の彼のほうがきっと高いだろうし、その意味ではこの割り振りはある程度合理的とも言えるし、それに今更そんなことを言っても詮無いことだ。もちろん、もし今から少年と役割を交代できると言われたとしても、絶対にそうしようとはしないだろうし。


 食事で得られた幸福感は早々に焦燥感に取って代わられた。といっても、別段命の危険を感じたとか、他の何か重大な問題に行き当たったというわけではなく、どちらかというと卑近な、つまり便意を覚えて、けれどもお手洗いがこの屋敷のどこにあるのかも、あるいはあるのかどうかさえも知らされていなかったし、それを知る簡単な手段を持っていなかったのだ。まず、言葉が通じないので単純に聞くことができない。それに、この世界のお手洗いがどのような形態のものかがわからない。現代人の感覚からでは想像しがたいことだが、水洗便所というものが普及したのは歴史的にはごく最近のことで、それでも日本は江戸時代から都市部には汲み取り式便所が普及していたが、ヨーロッパでは中世どころか近代に入ってすらまだトイレそのものが普及しておらず、容器に貯められた排泄物がそのまま道端に投棄されていたという。その他にも、世界には便所が川や家畜小屋の上に建てられているいった例だってあるし、とにかく何が言いたいかというと、お手洗いという施設は極めて文化的なもので多様なものなのだ。それに、地下深くに都市全体をカバーする下水道を掘るのは技術も労働力もいるし、下水処理施設だって必要になる。塔の上から街を見渡した時、何とはなしに公共インフラは整っていなさそうだなどと思ったが、電気はおろかガス灯の街灯すら見当たらなかったのだから、技術レベルは推して知るべしだ。客間にピッチャーで水が供されているというのも、上水道が未発達であることを窺わせるし、そうなるとますます水洗式は望めないだろう。いや、しかしそういえば古代ローマの街では下水道が近くの川まで掘られていたのだったか(その場合、人口の多い都市ではその河川の汚染が問題になるが)。少なくとも、馬車で街を通過する間、またこの屋敷においても、特に臭いと感じることはなかった、ということは、どのような様式にしろお手洗いはあるということだろう。

 次の問題は、お手洗いがどこにあるか、ということだ。現代社会では世界共通のお手洗いを示す記号があったが、ここは異世界で、しかもホテルではなく個人の屋敷だ。勝手に中をうろつきまわるのはなんだか怖いし、そうしたとしても目的地を見つけられるだろうか。ゲームであれば、プレイヤーキャラクターは無遠慮に他人の家を捜索するものなのだがな、と、ふとおかしな気持ちになる。幸いにしてここの使用人は自分達が異世界から来た客人であると了解してくれているわけだし、この世界の様々な習慣文化や常識に疎かったとしてもそれほど変な目で見られるということはないかもしれない。であれば、呼び鈴を引っ張ってかの執事さんを呼び出し訊ねたいところだが、繰り返しになるが、言葉が通じないのだ。先ほどはそれでもなんとか身振り手振りと文脈を推測することでコミュニケーションをとることができた。しかし、体を洗ったりものを食べたりといったふりが一目瞭然であるのに対し、用を足すふりなんて、もともと伝わりづらい上にこの世界に便座があるかないかもわからないし、第一恥ずかしい。いや、そういえば先ほどの探索で紙と筆記用具を発見していたのであったから、絵を描いて筆談という手もあるのだ。それで、自分がお手洗い、あるいはそれに準ずる場所または手段を探しているということさえ伝えられれば、連れていってもらえるかもしれないし、この世界のお手洗いの使い方も教えてもらえるかもしれない。

 机の引き出しからなるたけ粗末そうな紙とインクペンを取り出し、彼はちょっとの間考えてから、口から入った食べ物が消化管系を経て外に出るという模式図と、片手を額のところにかざして辺りをキョロキョロ見回す人の絵に吹き出しでカタカナのレ(おそらくこの国の言葉で疑問符に相当するもの)を付けたもの、執事さんと同じ服を着た人が自分と同じスーツを着た人を連れて歩いている絵、それからついでに便座に腰掛けている人の絵を描いた。これを相手に見せながら、自分のお腹をさすって見せたり何かを探す仕草をすれば、あと人差し指と中指を足に見立てて歩く人を両手で二人分連れ立って歩くというのを見せれば、きっと伝えられるのではないか。もしも執事さんが今食事中だったら申し訳ないが、しかしこれは不可避の問題なのだから仕方がない。彼は意を決して呼び鈴を引いた。

 間もなく現れた執事に絵を見せたり身振り手振りで自分がお手洗いを探しているのだと伝えると、初めは訝しげな表情をしていたのがなんとか了解したらしく、手を軽くポンッと打ち合わせて大きく頷いて、

「アーァ、セッチャン。ニオダーヴァセッチャンリリアトックノナ。パーリー」

と言い、続けて何かを喋っていたが、それ以上は聞き取れなかった。果たしてこちらの意図は正確に伝わっているのだろうか。最初の嗚呼と聞こえたのは日本語と、それに彼の知る他の言語とも同じく感嘆の表現かもしれない。その次に短く「セッチャン」と聞こえた気がするが、文としては短すぎるから、「わかった」とか"I see"とかの了解の慣用句表現か、それかお手洗いを表す名詞かもしれない。もし後者であれば、雪隠と音が似ているので覚えやすいのだが。排泄行為もしくは排泄物を表す名詞だったらどうしよう。試しに首を傾げながら「セッチャン?」と聞いてみると、執事は頷きながら、紙とペンを受け取ると便座に座る人の絵の周りに壁と屋根らしきものを描き足して、それを指差してもう一度ゆっくり「セッチャン」と言った。多分だが、おそらくだが、「セッチャン」というのはお手洗いを指す言葉だと思われる。嬉しくなって、初めて覚えたその異世界の言葉を声に出して繰り返すと、執事は「エイ」と言って頷いてくれた。途端に、恥ずかしくなって、顔が真っ赤になって、いい年した大人が初対面の人物を前に嬉しそうにトイレトイレと言うなどと、上気したその熱をどうにか逃したくて苦笑いで息を吐く。そんな彼の様子を見ていた執事が、ちょっと驚いた風で、それから仕方がないよとでも言うように相好を崩すのが余計に恥ずかしくて仕方がなかった。


 執事の描いた絵では、お手洗いの天井は両側に落ちる傾斜がついていて、切妻の屋根の小屋のように見えたので、屋敷の外に別棟で厠があるのかもしれないと想像していたが、案内されたのは屋敷の裏手側の一室で、狭い部屋の奥にちょうど腰掛けほどの高さの段差があり、その真ん中には木製の蓋のようなものが置かれていた。あれはきっと便座だろう。窓はなくて、奥の壁と天井の間にわずかに隙間があり、換気口になっているのかもしれなかったが、臭かった。壁には何かの草の束がぶら下げられていて、その香りで臭いを消そうとしているようだが、それでも古い公衆便所のような臭いがする。間違いようもなくここがお手洗いであるので、執事にお礼を言って中へと入った。なんとも都合のいいことに、この世界、あるいはこの街のお手洗いも個室で外から見えないようになっていて、扉には簡単な掛け金式の鍵までついていた。ところが、安心したのも束の間に、彼はそのお手洗いと現代日本のものとの間の重大な相違点を発見した、というのは、仄暗い手持ちのランプで照らされた狭い部屋の中に、トイレットペーパーが見当たらなかったのである。加えて、予想通りではあるが便器内を水洗するためのコックあるいはそれに準ずる装置も存在しない。手を洗うための水道も洗面台もない。これらはのことは予想していたはずなのだが、執事とのコミュニケーションが成功したことが嬉しくてつい忘れていたのだった。

 慌てて外に出て「バートル!」と叫ぶと、執事はちょうど廊下の角を曲がろうとしていたところで、何事かと急いで戻ってきてくれた。戻ってきてくれたのだが、そこで彼はなんと言うべきか言葉に詰まってしまった。聞きたいのはこのお手洗いの使い方で、伝えるべきなのは彼がこのお手洗いの使い方がわからないということである。単純なことのようだが、しかし先ほどまでの身振り手振りやイラストで表現しようとしていたものが具体的な物や行為であるのに対し、使い方という、行為そのものではなく様々な行為あるいは所作を一般化したその言葉は抽象的だ。例えば「使い方」という言葉を日本語で説明しようとすると、「道具や言葉、技術などが意図された機能が発揮できるような動作手順あるいは作法」とでも言えばいいか、余計ややこしくなって、身振り手振りからますます遠のく。戻ってきた執事が彼の肩越しにお手洗いの中を覗き込んで、そしてそのお手洗いの状態は執事にとっては過不足なく万全だったのだろう、一体どうしたのですかというように彼の次の言葉を待っているようだった。とりあえず日本語で「お手洗いの、セッチャンの使い方がわからないんですけど」と言ってみても、執事は首をひねって困惑したような表情をするだけだ。それまでのコミュニケーションがすんなり行っていたせいで、食事の時もたまたま不行儀を避けられたおかげで、執事には彼がこの世界の常識を備えていると勘違いさせてしまったのかもしれない。

 心を落ち着けて、改めて意思伝達の方法を考えてみる。これまでのやりとりで、頷くことと首を横に振ることが日本と同じくそれぞれ肯定と否定を表すこと、エイとニーもそれぞれイエスとノーに相当すること、お手洗いのことをセッチャンということが分かっている。それだけだが、しかし、何かがわからないということは、両こめかみに人差し指でも当てて首を傾げ、何か目的がありながら困惑しているというふりをすれば表現できるだろう。いや、現代では認知機能が頭、というか頭骨の中の延髄から大脳までの中枢神経系に備わっているものだということは常識になっているが、解剖学の未発達な時代ではどうなのだろうか。そして、近世ではどのくらい解剖学的な知見があったのだろうか。いやいや、それは今は関係ない。ともかく「お手洗い」、「使い方」、「わからない」の三つが表現できればよいのに、「使い方」が問題で、うまくいきそうにないのだ。それならばたとえ直接表現できなくても、間違った内容を相手に与えなければ間接的に伝えられるかもしれない。呼び戻されたことで、もしかしたら執事は彼が探していたものがお手洗いではなかったのではないかと誤解してしまうかもしれないので、目的地はここであっているということは主張しなければならない。同様に、この状況で想定される彼の意図の全体から正解以外を否定していけば、結果的に執事は彼がこのお手洗いの使い方を知りたがっているのだと推察しやすくなるはずだ。

 では、執事から見て、お手洗いを探していた彼を案内したら一旦は意に叶ったように見えたのに、そのすぐ後で呼び戻されて何か困った様子だったというこの状況で、相手が何と言っていると推測するだろうか。探していたのはお手洗いではない、の他には、臭いから消臭剤が欲しい、とか。彼は男だから生理用品が欲しいということはない。お化けが出そうで怖いから扉のそばにいて欲しい、は二十数歳も若ければありうるかもしれない。チップを渡し忘れていた?それともお手洗い以外の全く別の要件?あまりこれぞというものが思い浮かばないし、執事の方も何か思い当たることがあれば尋ねてこようものを、首を傾げて辛抱強く彼の出方を見守るのみである。仕方なしに、まず指を一本だけ立てて、それからもう片手で自分とお手洗いを交互に指し、次に指を二本立ててから手を洗う真似、自分の手とお尻を交互に指す仕草、そしてお手洗いの中をキョロキョロ何かを探す仕草をして見せた。だいぶ恥ずかしかったが、しかしここの文化がもしお手洗いの中では手を洗わないものだったら伝わらないかもしれない。

「まずセッチャンで用を足して、その後でお尻を拭いたり手を洗うのに、紙や洗面台はどこでしょう」

と言いながら、一連の仕草をもう一度繰り返して、これが質問のすべてであると口をつぐみ執事の返答を待つ。こんなことに、彼は懇願するような心持ちだった。しかし、それでも伝わった様子はなく、執事は相変わらず怪訝な顔で首を傾げている。

 身振り手振りがダメなら、それなら今度は筆談か。執事を手招きしながら部屋へと戻り、新しい紙を取り出して独り言のように喋りながら絵を描いていく。

「まず一番目に(縦線を一本描いた)セッチャンで用を足すというのは、問題ないです(便器に座る人を描いて、その人の顔に笑顔を描き込んだ)。二番目に(縦線を二本描いた)、お尻を拭くんだけど、絵に描くの難しいな(便器に座ったままお尻を拭く人の絵を描こうとして、途中で諦めた)。要は使い方がわかんないんです。便器に座るのか、それとも上にしゃがんでするのか、まあ座るってのは見ればわかるんですけど」

便器に座っている人としゃがんでいる人の絵を描いて、それぞれを円で囲ってその下に虚空を見上げて思案している人の絵を描き、それぞれの円から線を引っ張ってつなげて吹き出しとた。

「で、一番知りたいのはトイレットペーパーがどこかと(うんこ座りしている人がお尻を拭いている絵はすんなり描けた)、手を洗うのをどうすればいいのかってことなんですけど、ええと、伝わってますかね?」

手を洗っている人の絵も描いて、それらも吹き出しで囲って思案している人の絵につなげた。これで伝わらなかったらどうしよう。

 わずかの間その絵を眺めていた執事がパッと顔を上げ、目を見開いて彼の方を見たのでどきっとした。執事は眉を八の字にしながら相好を崩し、何事かを喋りながら自分の頭を軽く叩いた。そして彼を案内しながら廊下に出たのだから、ようやく意図を了解したのかもしれないと、恐る恐る期待を抱く。果たして案内されたのは先ほどのお手洗いで、執事が始めたのはその使い方の説明だった。便座の手前の小さな棚の上には水差しと小さな金だらいが置かれていて、執事は水差しからタライに水を入れ、そこへ棚の中のカゴに入っていた布切れを一枚取り出して浸して見せた。布はだいぶ粗末なボロ切れだった。その布を軽く絞ってお尻を拭くふりをして、それから便器の中へ投げ捨て、ついでにタライに取った水もそこへ流して見せた。便器は落下式で、蓋を開けた時に臭いがきつくなった。そこまで見せてもらえれば、もう大体わかる。そもそもがお手洗いの使い方にそこまで難しいものがあるはずもなく、むしろ現代日本の方が様々な様式が考案されているくらいで、手で直接拭くなんて文化でもない限り、落ち着いて観察すれば日本人の彼にでも簡単に推測がつくものなのに、彼が不安を覚えてしまったのはただ単純に小さな手持ちのランプに照らされたその仄暗い小部屋が不気味に見えたからというだけなのかもしれない。努めて落ち着いた風を装ってお礼を言うと、執事は安堵したように微笑んで頷いてから一礼して、もと来た廊下を戻って行った。執事が去ってから、お手洗いの中を今一度検めてみた。棚には他にも手ぬぐいを長くしたような布や大小の袋、ガーゼ、ハサミ、香水などが入っていた。屋敷の規模からしてお手洗いがこの個室一つだけということはないだろうが、主人用と使用人用と別々にあるのかもしれない。カゴの中の布切れは厚手のものだったが、よくよく見ると生地も色もバラバラで、元々は衣服か袋かだかの再利用の産物だと思われる。意を決して便器の蓋を開けると、陶器製の便座に真っ暗な排水口がぽっかりと大きな口を開けていた。息を深く吸い込まないように注意していてもどうしたって臭かったが、吐き気を催すというほどではなく、落下式便所で一次貯留槽と直接通気しているにしてはましなレベルなのかもしれない。

 パンツと下着を下ろして恐る恐る便座に腰掛けると、陶器のひんやりとした感触に背中がゾワっと震えた。塔の長くて狭い階段を降りた時も、サスペンションというものがあるかもわからない馬車でガトゴト揺られていた時も、屋敷の照明が暗いことも湯船に浸かることができなかったことをしても、さして惨めな気持ちになるということはなかった。暗いと仕事ができないかもしれないが、彼は仕事は好きにしろ残業は嫌いな人間だったし、そも仕事で来ているわけではない。風呂や食事などの近世らしからぬ有様は貴族の経済力によるものだとしても、殊に用便設備に関しては現代社会との技術の差が如実に現れてしまったということか。加えて、動物的に無防備な体勢でいるという状態も彼の不安を煽っていたかもしれない。便座に座ったままぎこちなく絞った布切れでお尻を拭くと、その慣れない温度と触覚にまた背中がゾワっとした。布切れが再利用品とはいえ潤沢にあるものではないとしたら申し訳ないと思いつつ、三枚消費した。タライの水で手を洗い、それを便器の中へ捨て、蓋を閉める。仄暗いお手洗いの中は、換気口を通る空気の音と自分の心音しか聞こえず、強い恐怖こそないものの、足元から体の中を何かが這い上がってくるような感覚に急いで扉の掛け金を外して外に出た。


 部屋まで逃げ戻って、頭の中をぐるぐる駆け巡る反省だの後悔だのを噛み締めていた。彼からすれば先の行動は最適解だったかもしれないが、恥ずかしかったし、執事が彼のことを今どのように評価しているかも気にかかる。いや、最適解だった、最善だったと、そう彼は思う。さらに、彼らが異世界人で、この世界の常識に慣れないものだという印象を執事に与えたことは長い目で見れば必要なことでもある。今のところ、この困難な状況下で致命的な失敗は犯していないというのは、それだけでも充分なのではないだろうか。なんとか気を取り直して、そこでふと、寝室で塞ぎ込んでいるであろう少女にもお手洗いの場所と使い方を教えなければならないと思い当たり、しかし直接声をかけられるだけの度胸も積極性もなかったので、紙に書いて寝室の扉に挟んでおいた(扉はいつの間にか閉まっていた)。こうしておけば必ず気づくであろう。

 ともかく、今の所はなんとかなっているが、この未知の言語をできるだけ早くに学ばなければならないということだ。片言でもある程度喋れれば今回のような苦労も恥ずかしい思いをすることもなくなる。日本語とこの異国語の両方を操れる人もいなければ教科書もないが、なんとかなるだろう。どれくらいかかるだろうか、数ヶ月かもしれないし、できればそれよりも早くに事件が解決して日本に帰還したいものだが。寝室の入り口のところには室内ばきであろうサンダルが置かれていて、もしかすると寝室の内では土足を脱いで上がるものなのかもしれない。まだ九時前ではあったが、緊張し通しだったせいかだいぶ疲れているように感じられて、早々にベッドに入ることにした。

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