異世界の都で

@joblessCat

1. ハローワールド

 日本のゲームや漫画、アニメに慣れ親しんだ彼にとって、その非現実的な景色も、イヤホンでもしているような、あるいは映画館にでもいるような、音源不明の、そのくせやけにくっきりと聞こえてくる声にもそれほど驚くことなく、少なくともパニックになることはなく、自分は夢でも見ているのかとどこか冷静に第三者的視点で状況を観察することができた。彼、27歳大手食品会社社員のタクミは先刻、会社を定時で上がり本屋に買い物に来ていたところだった。それが今、石造りの塔のてっぺんの展望台のような場所から夕日に照らされた街並みを見下ろしている。

 周囲には大小の、と言ってもせいぜいが4階建であるが、壁を白い漆喰で塗り固め、屋根には色とりどりの瓦を葺いた建造物が並び、ギリシャかトルコあたりの旧市街のような景色を作っている。大きな通りには人が行き交い活気が感じられるが、自動車や電車の気配はない。それどころか街灯の明かりも見えず、夕日の陰になった場所では人の気配があるのにもかかわらず、すでに闇が濃い。

 彼はまずその景色を一通り眺め、次に自分の頬をつねり、そして自分が東京から全く別の惑星かあるいは別の宇宙にやってきたのだと思った。冷静に考えれば、本屋で意識を失ったのち、どこぞのテーマパークか、それとも外国のそれらしい都市に連れてこられたという方がもっともらしいが、つまり、それほどには彼は驚いて我を失っていたのである。そして実際、彼の感想は正しかった。つまり彼は、サブカルによくある剣と魔法とドラゴンの異世界にやってきていたのだった。


 どうにかして心を落ち着けると、彼は次に自分の周囲を確認した。そこには彼の他に三人の人間がいた。一人は高校生か大学生ぐらいの少年で、ツンツンと跳ねた癖毛の下から三白眼が覗いており、無地のTシャツの上にはおられたジャージとジーンズパンツ、少しくたびれたスニーカーが気だるげな雰囲気を醸している。この少年は自分が突然見知らぬ場所に来ていることに気づいた時、まず大仰に驚き、そして周りに他人を認めると逆に黙り込んでしまって、今はあちこちを無言で窺っている。もう一人は中学生か高校生ぐらいの少女で、灰色のブレザーに紺色のプリーツスカートの制服をわずかに着崩した様はあまり個性が感じられず、茫然自失として座り込んだまま固まっている。最後の一人は、見た目では二十代半ばの女性で、明らかに日本人ではなかった。彼女は、顔立ちこそ日本人のようではあるが、髪は銀髪で、モデル体型で手足は長く、着ているドレスはカラフルでやたらゴテゴテと立体的なわりに所々で肌がのぞく、なんとも奇妙なものだった。端的に言えば、これもやはりRPGなどにありそうなファッションである。そして彼女が聞きなれない異国語を話すたびに、彼の頭の中に同じ声が、今度は意味を伴って聞こえてくるのだった。

 彼女はメグ・イシアンと名乗った。

 彼女の説明するところによると、ある魔法の道具の作動により今いるこの世界と彼らが元いた世界とがつながり、彼ら三人はそれに巻き込まれてこの世界にやって来たということらしい。魔法と聞いて、彼は密かに乾いた笑いを漏らした。ゲームやその他のファンタジーものには魔法が溢れかえっているし、彼自身中学生の頃までは憧れをもってそれらに接してきたが、大学で科学を学ぶうちに捻くれてしまい、今の彼にとって魔法という言葉は説明の放棄と同義であった。彼は自身の面倒くささを自覚しつつ、わざわざ魔法を”経験則に基づく技術”と心の内で再翻訳しながら彼女の話の続きを聞いた。

 その魔法は異世界と行き来するためのもので、ヴィル・レインという男がその魔法の道具を盗み出し、この塔の上でそれを使用したらしい。あわやというところで彼女が止めに入り、ヴィル・レインが異世界へ行くのは阻止できたが、魔法自体は完成していたためタクミら三人がその”穴”を通ってこちら側に落ちてきたのだという。彼は先刻の本屋での光景をもう一度思い浮かべた。あの時、自動ドアが開いた先のフロアの光景が大きな球体レンズを通したように歪み、その中に今目の前に広がっている夕焼け空が見えた。歪みはあっという間に広がり自分を飲み込んだかと思うと、今度は店内の光景が魚眼レンズを覗いたように歪んで後方へと流れ、こちら側の景色が同様にして拡がってゆき、それが終わったと思ったらこの塔の上に立っていた。あれは、インターステラーというsci-fi映画で見たワームホールの描写によく似ていた(光の奔流などはなかったが)、と思った。三次元空間に開けらた球形の穴。一瞬だけ開いてこちらとあちらをつなぎ、今はもう閉じてしまっている。そんなものを恣意的に発生させられるのだとしたら、その魔法というのは驚くべきものだ。

「それで、その魔法の道具というのはどこにあるのですか?」

彼の問いに彼女はゆっくりと頷いた。どうやら彼の言葉も同様に彼女に伝わっているらしい。

「ヴィル・レインが持って逃げてしまいました。あの、奴を止めるとき、余裕がなかったもので、突き飛ばして、突落としてしまったんですけど、そしたら、凧に乗って、飛んで行ってしまいました」

もちろん、魔法と言われた時点で彼は外見的には神妙な面持ちでいながらも、内心では大分不真面目な態度で彼女の話を聞いていたのだが、ここに至っては、彼女の言うところの魔法によって彼女のしゃべる内容が幻聴となって聞こえてきているのだという直感的な予想を、今一度真剣に検証する必要があるのではないかと考え始めた。例えば、自分は夢を見ているかのような体験に困惑して、無意識に適当な物語をでっちあげて、それを幻聴しているのかもしれない。ずいぶんと都合のいい説明ではあるが、それでも魔法よりかはまともだ。

 しかし、そんな彼の考察にも構うことなく、彼女はさらに話を続けた。

「こちらの事件にあなた方を巻き込んでしまったことは、大変申し訳なく思います。ですけれども、奴からあの魔法具を取り返すのを手伝って欲しいのです。あの、これは、あなたたちにとっても必要なことなのです。そうしなければ、あなたがたを元の世界にお返しすることができないのです」

やはり、やはりそう来るか、と彼は思った。ローファンタジーで現代人が異世界に放り込まれれば、それは必ずその世界の不思議な場所をあちこち探訪する冒険活劇になると相場が決まっている。そして、そのぶらり気ままなワンダーランド一周ミステリーツアーのガイドを務めるのは往々にして一番最初に出会う人物である。しかし、そういう話の流れを予想していた彼からすると、彼女の説明は要点がよくまとめられた、準備された台詞のようにも聞こえた。

「なるほどもっともです。いや、これは偶然の事故ですのであなたが謝る必要はありません。ですが、手伝いをすると言っても私に何ができますかね。こちらとしては、魔法なんて見たこともないし、この世界のことだって右も左も分からないんです」

「いえ、特別に何かをして欲しいというわけではないんです。ただ、奴の行方を追うのにあなたの協力がどうしても必要なんです。私は、私は”帰り道の道標の占い”ができるんです。それであなたの帰り道を占えば、あなたの帰り道は唯一あの魔法による”穴”を通ることですから、必然的に魔法具のある方向を指し示すはずなんです。ですから、ですからただ一緒についてきていただけるだけでいいんです。もちろんあなたの安全は私達が必ず守ります」

「はぁ、すごいですね。そんなことができるんですか。あ、でも、そのヴィル・レインという男がまたその魔法というのを使ってどこか別の世界へ行ってしまったらどうなるんですか?私達はずっとこのまま元いた国に帰ることはできないのでしょうか」

「ですから、そのために何としても奴を捕まえないことにはいけないのです。大丈夫です。あの魔法は人が安全に通れるようにするためには、少なくとも20日間はかけて穴を拡げなければなりません。それだけあればきっと追いつけます。心配はいりません」

 やはり、本当に都合がいい。別に、彼は理系男子ではあるけれども、魔法自体を疑っているわけではない。彼女が話すのにかぶせて聞こえてくる幻聴が本当にただの幻聴だったとしても、彼は今両足に自分の体重を確かに感じているし、その他の感覚も現実感を持ってこの不思議な光景を体感しているから、夢を見ているのだとは思えない。彼女の言うように魔法、あるいは説明の困難な、手続きと効果だけがわかっている不思議な技術をとりあえず認めることにはあまり抵抗はない。むしろ、周りの風景を見る限りsci-fiに登場するような装置はありそうにないし、ワームホールや会話の自動翻訳などは、なるほどここでは魔法としか言いようがないのかもしれない。彼が都合がいいと感じたのは、今のこの状況と、台本に書かれた台詞を読み上げるかのような彼女の説明の方だった。

 平凡な日本人でしかない彼らが不思議な事件に巻き込まれたのは、悪い、きっと悪い魔法使いの男が起こした超現実的な現象と、そこにたまたま居合わせたというただの偶然が重なったものであり、そして、その状況を解決し脱却するためには、日本に戻るためには、この世界の善い、きっと善いこの魔女と協力してかの悪い男を追わなければならないという。もうここまで揃っていれば、その悪い魔法使いは悪魔に取り憑かれているか、または秘密結社の一員であり、彼らは冒険の果てにその野望を打ち砕いたり、世界を救ってみたりしてしまうのかもしれない。一大スペクタクルの大冒険の大団円と、ついでにエンディングのスタッフロールまで見えてきそうな物語の導入部を語る彼女の話しぶりは、とても突然事故的に現れた異世界人を前にしての対応にしては落ち着きすぎているし合理的すぎる。彼女は彼らの出現に驚いても慌ててもいないし、彼女の提案は他にどうしようもなく、否やもない。そして、彼らの協力は彼女にとっても重要に思える。つまり、彼らの存在は彼女の意に沿うもので、ワームホールを発生させたのがヴィル・レインという男だったとしても、そこから彼らをこちら側の世界に引きずり込んだのは彼女である可能性もあるということだ。

 そうであるならば、と、彼は考えた。そうであるならば、彼女の言う帰り道の占いというのは実際に効果があり、少なくとも彼女には自信があり、それでその魔法具の行方を探すことも本当にできるのかもしれない。彼は彼女のことを少しは信頼してもいいかもしれないという気になった。ここで誤解のないように断っておくと、彼は聖人君子ではないし、彼らをこちら側に巻き込んだ犯人に対し恨みや怒りがないわけではない。ただ、彼は感情の起伏に乏しく、物事をあまり主観では考えない質なのである(彼女が美人であったことの影響は否定できないが)。彼自身、そのような思考の仕方が一般的でないということは知っているし、違和感を覚えないというわけでもない、かもしれない。それに、彼女が犯人だというのはただの憶測で確証はない。ともかく彼は、現状として彼女との協力は必要であると、そう判断した。


 彼女の話に乗るとは決めたが、しかしそれは彼がこれから始まる冒険活劇に胸を躍らせたというわけではなかった。むしろ彼は、わずかばかりの観察から予想されるこの世界の有り様と、彼女の話の端々に見え隠れする不穏な影に不安を募らせていた。例えば、見える限りの街の様子からして車は存在しないだろうし、魔法の世界だからといって空飛ぶ絨毯などはありえないだろう。例えば、ヴィル・レインがワームホールを発生させるために20日間を要するので捕まえることができるという説明は、追跡が長期間にわたることをほのめかしている。例えば、安全を彼女らが守ると言ったが、それは追跡に危険が伴うことを示している。

 彼は、どうにかして自分が助かるための材料を探すため、改めて周りを確認した。

「なるほど、わかりました。ところで一つ聞きたいのですが、そのヴィル・レインという男の追跡には、我々(彼は自身と他の二人が同じ集団に属するという意識はなかったが、それでも我々という以外に適当な表現を思いつかなかった)全員が同行する必要がありますか?それとも一人だけでも構いませんか?その、彼女もひどくショックを受けているようですし」

「お一人だけ付いて来ていただければ十分です。他のお二方については、我々がヴィル・レインを追跡する間、私の屋敷に滞在して頂ければと。必ず、不自由なくお過ごしいただけるとお約束します」

そうであるなば、彼自身としては是非とも残りたいと、自分の代わりにもう一人の少年に行ってもらいたいと思う。

 彼は考え込むふりをしながら、未だ動かぬ少女を見やり、それから二人の会話をソワソワしながら聞いていた少年へと視線を動かした。すると、その少年は慌てたように、所々早口で、時々つっかえながら、あたかも頭の中で練習していた口上を述べるように喋り出した。

「俺は。あー、しょうがねーから、付いて行ってやってもいいぜ。聞いた感じじゃ、日本に帰るためには、あー、他に選択肢はないようだしな。それに、あー、それに、他人に任せっきりにもできねーしな」

どうやら少年は彼と違い、不思議な世界の冒険に随分と前向きなようである。加えて、少年も彼と彼女のやりとりを聞いて了解している風であることから、頭の中に聞こえる声がやはり幻聴ではないということが示唆された。

「ええ、もちろん、皆様が一緒に同行されるのでも大丈夫です。旅の便宜は、可能な限り取り計らいます」

 少年の賛成の表明に、彼女は嬉しそうに応えた。やはり、彼女としては彼にも付いて来て欲しいらしい。彼は会社帰りで、それなりのスーツを着ている。それに、彼は普段から食事には気をつけているし、友人や同僚にはあまり明かしていないが肌の手入れをそこそこ熱心にしているため、見た目に健康的で、落ち着いた大人の雰囲気も持っている。確かに、背丈は彼よりもあるにしても猫背で目つきも悪いジャージにジーンズの少年や、制服に身を包みながらも(日本の学校の制服は一般的にかなりきちんとした仕立てなのだが)幼さを隠そうともせず今にも泣き出しそうな少女よりかは頼りになりそうに見えるだろう。彼女は初めから彼に話しかけていた。

 しかし、彼が思うに、彼自身のキャラクターはこの魔法の世界を冒険するのにはあまり向いていない。彼の人生は概ね恵まれていたし、自身でそれを自覚し満足していた。彼は父子家庭で育てられたが、経済的には問題なく、親子仲も大学進学のため東京に出てくるまでは休日に一緒に映画や買い物に出かけるほどに良かった。また、その父親が理系の知識人で自ら彼の勉強の面倒を見ていたこともあり、そのおかげで学校の成績も良く、東京の大学では理科2類から理学部化学科に進学し、四年次からは有機化学の研究室へ、さらにその研究室で大学院へと進み修士号を取った。大学院を出た後は大手食品会社に研究職として入社し、食品添加物の研究に携わっていたが、遅くまで残業することもなく、また人間関係にひどく悩まされることもなく、平穏に過ごしていた。彼はそれまでに積み重ねてきた自分の人生に少なからず誇りを持っており、現実から逃避したいとか、違う自分になりたいとか、英雄になりたいといった願望は持ち合わせていなかった。非日常が舞台の場合、こういった類の登場人物は慢心して致命的な状況に陥るか、それとも常識や自分の技術が通じずに慌てふためくかがステレオタイプではないだろうか。

 逆に、現代社会以外で彼のようなキャラクターが活躍できるとしたらどのような場合だろうか。例えば、船か飛行機の事故にあって無人島でサバイバル、などはどうだろう。いや、それでもダメだ。実際の科学者など、分類学者や生態学者などのフィールドワークを行うタイプ、またはよほど実学志向でもない限り、自身の専門分野に関しては多少の知識を持ち合わせてはいても、それ以外のことに関してはおよそ何も知らないし、そのわずかな知識さえも専門的すぎて限定的すぎて、まず実用的ではない。特に、彼のように研究室に引きこもって実験をするような研究者は、森林レンジャーどころかアマチュアの登山家やダイバーにも劣るだろう。では、ミステリーで、犯人が専門家にしかわからないような科学トリックを使う場合などは。それはもうむしろ犯人である。ついでに言えば、スーパーヒーロー物やスパイ物、エイリアン系のsci-fiに出てくる科学者の描写に、彼は臍で茶を沸かして放課後のティータイムを大事にしてるまである。だって、例えばよくある超危険なウイルスとか、あれ何なんだろうか。実際には既知のウイルスですらその作用機構もよくわからず鋭意研究中であるのに、新種の猛毒ウイルスを開発しちゃったり、さらにそのワクチンをあっという間に用意したりしてしまうし。閑話休題。

 結局のところ、リアルな科学者が科学者として活躍できるとしたらハードsci-fiぐらいで、さらに主人公として活躍できるとしたら、例えば火星に一人取り残されたとかの場合ぐらいではないだろうか。そもそも、科学というのは知識のことではない。研究者というのは何でも知っている人ではなく、自ら問いを立て、科学的に調べ検証する方法、研究の仕方を知っている人のことである。いずれにしろ、彼ら科学者はパソコンが使えない状況では、実際大した役には立たないように思われる(おまけに彼はPhDを持っているわけでもなく、つまり狭義では研究者ですらない)。

 彼は、いざという時に活躍する自分の姿を何とか想像しようとした。鞄の中には私物のMacBook Proが入っているが、それが何かの役に立つ前にバッテリーが切れてしまうだろう。彼は動植物についてそれほど詳しくはないし、もしそうであったとしても、ここは異世界なのだから、地球にはいないような、およそ見たこともないような不思議生物が蔓延っているかもしれない。そして何より、現地人の方がきっと植生にも生態系にも地理にも地質にも気候にも詳しいだろう。それでも、もしも冒険の目的が秘境に隠された宝物の探索であったなら、ガイド付きの旅を楽しみつつ不思議な生き物や光景に科学的考察を加える異世界探検記になったかもしれない。しかし今回、悪い魔法使いの存在が明言され、旅の最後には、あるいはその前からバトル展開に巻き込まれることが予想される。そうなった時、彼のキャラクターが生かされるとしたら、例えば最終決戦で、相手が魔法使いであるという先入観にとらわれず状況を冷静に科学的に観察して、相手の仕掛けたトリックに気がつくとかだろうか。そして、しゃしゃり出てそのトリックを解除し事態を好転させるも、恨みを買って悪あがきに巻き込まれ、結局命を落とすとかだろうか。

 少し悲観的すぎるかもしれないが、彼は鬱病というわけではない。その悲劇的な結末の予想だって、自分の心を落ち着けるためのおふざけで、本気でそうなるだろうと思っているわけではなく、その可能性は否定できないが、しかしそういうのを覚悟していざ挑んでみれば、特段何も起こらず終わり拍子抜けするのかもしれないと、その程度の妄想だ。しかしやはり、何の保証も無く、どんな危険があるかもわからない状況で自分は必ず大丈夫だなどと楽観してしまうほど幼くもない。社会人になって、学生の頃当然のように享受していた社会的な保護を失い、平和な日本に暮らしているといえど、自身の危機管理ぐらいはできるようになっていた。


 少年が協力を申し出てくれても、彼女は彼に対し同行を要求している。それならば、今度は少女の方を見据え、「あなたは、どうしますか?」と、声をかけてみた。しかし、少女は固まったままで、自分が話しかけられているということはなんとか理解し、目をあちこちに泳がせながらも顔を彼の方に向けたが、それ以上はどうにも頭が働いていないように見える。

「えーと、私は、タクミと言います。見ての通りサラリーマンです。あなたの名前を教えてもらえますか?学校はどちらですか?」

学生相手にしてはいささか丁寧すぎる口調であるが、彼は基本的には理系男子で他人との会話は苦手であるし、同年代や年上とは仕事上付き合いがあるにしても、一回りも歳が下の女子と話したことなど今まで一度もない。もっとも、混乱するばかりだった少女をそれ以上怖がらせることのないようにするには、そのぐらい優しく語りかけるのがちょうど良かったのかもしれないが。少女は座り込んだまま、それでも必死に体を彼の方に向け、「スズ、です」と名乗った。メグも少年もあまり興味がないのか、二人のやり取りを静観している。「スズさん、それで、スズさんは、どうしますか?」彼はできる限りの落ち着いた声で再び聞いた。すると、「私も、行きます。一緒に、一緒に私も行きます」と、今度はすぐさま返事が返ってきた。

 あろうことか少女までもが彼女について行くと言いだしてしまった。しかし、その表情からして、彼らから一人置いていかれるのは不安だから嫌だからという、消極的な理由によってであることが察せられる。彼自身はまだ追跡に参加すると表明したわけではないが、話の流れからそう思い込まれてしまったのだろう。もちろん、彼はここから自分だけは残ると、彼女の屋敷で厄介になりつつ、彼女らが魔法の道具を取り返して戻ってくるのを何もせずにただ待っていると、そう宣言することもできる。もしかしたら、話の流れに沿わない図々しい態度が不興を買って、彼女自身がはじめに用意しようとしていた待遇よりも随分と質が落とされ、豚小屋に放り込まれて冷や飯を食わされることになるかもしれないが、それでも命を危険に晒すよりかはマシだろう。状況はますます彼にとって不利な展開を見せているように思われる(彼は小説やアニメ、映画を観るとき、伏線を拾い上げ先の展開を予想するというのをよくやっていて、それなりの精度で当てることができた)。まず、この場にいる四人の中で一番物語の主人公らしいのは、洒落っ気の無い、ファンタジックなRPGの初期装備のような格好をした少年だろう。それに対して彼の役割は、ある程度冒険を進めて世界観の紹介を終えたあたりで、調子に乗った少年の迂闊な行動が原因で窮地を招き、その犠牲になる形で退場して読者もしくは視聴者にショックを与えつつ、少年に反省と成長のきっかけを与える要員かもしれない。少女の方も、日本人の平均的な体型と地味な印象の顔からして、メグと比べるとどうしてもヒロインには見えない。などとまたふざけた妄想をしてしまったが、しかし現実的な話、そうでなくともショック状態から復帰できていないこの少女をそのまま旅に連れまわしても、いずれストレスを溜め込んで倒れてしまうのではないだろうか。

 少女を留めおくことは彼の世俗的人道主義的な倫理観や大人の義務感からして必須であるし、それを機に流れを変えることができるかもしれない。彼は台詞を心の内である程度用意して、邪魔が入らないように一気に捲し立てた。

「いえ、スズさんは残った方がいいでしょう。スズさんは体力があるようにも見えませんし、慣れない環境でいざという時に体調を崩してしまうかもしれません。しかし、一人で残るというのも不安ですよね」そこで次に少年の方へ顔を向ける。「私かあなたのどちらかも、スズさんと一緒に残るのがいいと思うのですが、どうですか?ヴィル・レインの追跡には一人で十分なわけですし、大勢で付いて行くというのも大変でしょう」

すると少年は、幾分か慌てながらもメグが口を開く前に答えてくれた。

「確かに、そうだな。俺はどっちでもいいけど、えーと、タクミさん?もしタクミさんさえよければ、その子についててもらっていいですか?閉じこもるのは俺の性じゃないし(いやお前むしろ引きこもり野郎に見えるけどな、とタクミは思った)、できれば自分のことは自分でやりたいんだ」

少年は彼から大人扱いされたことが自信につながったのか、理由にもならないようなことを今度は幾分かハキハキと喋った。タクミは神妙な顔を崩さないように意識しながら、最後にメグに確認をした。「私はそれでも構いませんが、どうでしょう」行きたくないと直接言わないまでも、同時に決して自ら行くとも言わない姿勢である。ここまできて、彼女も敏く彼が追跡に消極的であることに気がついたのかもしれない。

「わかりました。こちらも無茶なお願いをしている立場ですし、できる限りのことはさせて頂きます。ヴィル・レインの追跡は、あの、お名前を伺えますか?」

「あ、俺、アキラって言います」

「はい、ありがとうございます。追跡はアキラさんにお手伝いしていただくとして、その間タクミさんとスズさんは私の屋敷に滞在していただくことになりますが、よろしくお願い致します」

「はい、こちらこそ、お世話になります。よろしくお願い致します」

彼もあまり笑顔になりすぎないように堪えながら頭を下げた。

 これは彼にとって思った以上の結果になった。正直なところ、彼は少年と少女を彼女の屋敷に残して自分一人が彼女に同行し、旅の不便にやせ我慢しつつ、日本に帰ったらその体験を本にしてベストセラーにしてハリウッドで映画化されるもんねなどと漱石枕流する覚悟をしていた。少年はどうやら、これから始まる冒険にワクワクが止まらない、といった様子だが、観光旅行ではないし、そうでなくとも工業化されていない社会にまともなインフラが整っているとは思えない。それを、未だ現実の厳しさを知らない少年が自ら引き受けると名乗りを上げてくれて、彼女もそれでいいと諦めてくれた。少年としては、モブキャラっぽい少女よりもスタイル抜群の美人なお姉さんを選んだということかもしれないが。何はともあれ、日本に帰ることができるかもわからない、連絡も取れない無期限の拘留ながら、すぐさまの直接的な命の危険はない。彼は心の内で少年に詫びつつ、気付かれないようにそっとため息を漏らしたのだった。


 これが、この物語の始まりである。彼は、非現実的な異世界を舞台とする物語の主人公としては、いささか保身的で引きこもり気質が過ぎるかもしれない。それでも彼は、現実主義で、便利な魔法や都合のいい展開、デウス・エクス・マキナなど期待せずに、自分の力で状況に対処することのできる人間である。あらかじめ断っておくと、この物語は英雄譚でもなければ冒険譚でもない、そうならない。これから先、彼はこの前近代的な世界で、彼なりのやり方で生きて、生活してゆく。これはそんな彼の、長くも短くもない異世界探訪の、淡々とした物語である。

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