『群青の世界』

としやん

『プロローグ』

 扉が開く。

 視線を扉の方へ向ける。そこから一人の少女が入ってくる。この本が立ち並ぶ空間に。図書委員としてカウンターに座っている僕に小さく会釈を交わしてくれる。彼女はその腰まである髪をなびかせながら、いつもの特等席につく。左手に持っていた本を開く。

 いつもの光景だ。日常のちょっとした楽しみのようなものなのかもしれない。彼女を初めて見た時から、彼女から目が離せなくなってしまった。


 彼女がいるとその図書室は世界が少し変わる。まるで彼女のいる空間だけ別の世界のような気がして。その世界はまるで僕が今読んでいる本と同じような世界な気がして―― 


 彼女はこうして毎日、昼休みには足繫く図書室に通っている。「文学少女」という言葉がきっとふさわしい。

 そんな彼女の到来を喜ぶように、夏空の光が図書室を包み込む。同時に涼しい風がカーテンをなびかせる。彼女の長髪もまた風でなびき、彼女は自身の頭を押さえる。

 風が吹き終えると、彼女は乱れた髪を正す。周りに見られないように、こっそりと


 ――


 彼女はクールだ。大人しい性格をしている。きっとそんなに主張が強いタイプではないだろうけど、強い芯を持った女性のような気がする。話したことないけど。

 でも彼女のその眼は何か強い特別な力を持っているようなそんなことを僕に思わせるのだ。劇的な何か大きな力というよりは静的で日常にほんの少しの彩を施してくれる魔法を持っているようなそんな不思議な感覚。きっと本の読みすぎだろう。


 あっ


 彼女がふとぽわぽわと自分の頬を円を描くようにしてなでる。彼女がよくやる仕草だ。一体何をやっているんだろう。その仕草の真意はよくわからない。


「……あの、すみません」

 そういって生徒が僕に声をかけてきた。

「本、借りたいんですけど」

 僕は彼の指示に従い、スキャナで本に貼ってあるバーコードを通して、貸し出しの処理を行う。普段はずっと彼女のことを目で追っているから、久々に図書委員としての仕事をしたような気がする。

 人のことをずっと見つめているのは気が引けるけど、正直図書委員の仕事はちょっと面倒だ。だからこれくらいいいじゃないかと僕は自分を甘やかす。


 視線を彼女に戻す。彼女は 今度は晴れやかな表情を浮かべて本を読んでいる。さっきまでのクールな表情を崩して、何かを優しく見守っているような、そんな優しい顔をしていた。彼女の本を見る。もうページも最後の方に差し掛かっていた。きっとクライマックスのシーンなのだろう。彼女はさぞ満足そうに読書を楽しんでいる。


 しばらくして昼休み終了の鐘が鳴る。次の授業の準備をしなくては、と僕は図書室を後にしようとする。しかし、そこで気づいた。彼女がまだいつもの席で本を読んでいることに。

 僕は勇気を振り絞った。その勇気は図書委員としての義務から生まれた勇気なのか、それとも――

 僕はふと自分が今読んでいる小説の事を思い出す――


 夏休み前の最後の砦である期末テストを終え、無事に夏休みを迎えた男子中学生の主人公が、夏休みに海辺で不思議な女の子に出会う。麦わらに白のワンピースを身にまとい、砂浜の上を元気に走っている。主人公は彼女に声をかける。

 最初は緊張しがちな二人だったが、徐々にその仲を深めていく。

 一緒に夏祭りに行った。一緒に花火をした。一緒に海を泳いだ。一緒にスイカを食べた。一緒に駄菓子屋へ行った。

 その思い出とともに、彼女のことを少しずつ理解してもいった。

 虫が苦手。結構わがまま。好物はカレーの甘口。結構ロマンチックで男の子に夢見がち。人の話を聞かない。

 やがて夏休み最終日がやってくる。彼女は主人公の家にある電話に連絡をよこしてきた。

 これからあの海辺に来てほしいと。

 そしてその海辺で彼女は衝撃の告白をする。

 彼女の後ろにあった海の世界が広がっていき、大きな波となって、彼女と僕に襲い掛かる。でも不思議と息は苦しくなく、気づけばそこには主人公と彼女だけがいる水中の世界に入り込んでいた。周りには魚が泳いでいる。足は底についていて、砂が広がっている。

 主人公は上を見上げる。そこにはエイやタコなどの水中生物が暮らしていた。主人公は別世界に巻き込まれたような感覚に陥る。

 声を出して彼女に尋ねようにも、声が出ない。彼女はただ主人公に何か言葉を継げていた。主人公はそれをはっきりと聞き取ることはできなかったが、その内容はなんとなく察することができた。


 その一言の後、主人公は海から解放される。きっとこの主人公が体験した出来事は彼の心にずっと残り続けているだろう。


 ――


 彼女に近づいていく。


 ――『海の世界』


 彼女に近づいてこぼれた感想だった。彼女のまわりだけが特殊な世界に感じられる。きっと僕の小説の読みすぎってことなんだろうけど。

「あの……次の授業始まっちゃいますよ」

 そう声をかけても彼女の反応はない。絶賛読書中の様子だ。

 僕は彼女の肩を叩く。彼女の肩は男の僕のそれとは違って、やわらかく、そしてすごくもろく感じられるものだった。


「はわっ」


 彼女は急にそんなことを声に出す。さすがにいきなり肩を叩くのはまずかったかなと思いながら

「あ、ごめん……でももう授業始まるから」

 なんでだろう。いつもならもうちょっと話せるのに。おかしいなぁ。

「あっ、ありがとう。声かけてくれて」

 そういって彼女は僕に微笑みかける。

「どんな本読んでたの?」

「『群青の世界』って作品」

「それ僕も今読んでる。すごくきれいで素敵な作品だよね」

「うん、私も頬が少し緩んじゃった」

 僕はそこでふと彼女に疑問をぶつけてみる。

「もしかして、本を読んでるとき、頬を撫でてるのって……」

「あ、あれ?あれは笑いをこらえてるときに、やっちゃうんだ。一人でニヤニヤしちゃうの隠したいから」

 僕はそうやって少し雑談を交わす。なぜだろう。緊張するのに、不快なものじゃない。

 ――

「そろそろ行くね」

 そういって僕の横を通り過ぎていく。図書室の扉を手に掛けたところで

「ねぇ!」

 僕は彼女を呼び止める。

「何?」

「明日も来る?」

「うん、来るよ」

「そっか」

 僕の質問に答えると、彼女は図書室を後にする。

 僕はまるで水中をずっともぐっていたような感覚に襲われる。

 あと一週間で夏休みだ。それが楽しみだからなのか、それとも他の理由でもあるのだろうか。僕の心臓の鼓動は今までにない程速まっていた。


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『群青の世界』 としやん @Satoshi-haveagoodtime0506

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