自分なりのペースで

坂根貴行

第1話 加速する社会


 

 最初は気のせいだと思った。だがやはり違う。何が違うかというと周囲の速度が違うのだ。例えば朝、地下鉄を降りて会社まで歩く。この時間帯は他にも多くのサラリーマンやOLがいるのだが、彼らの歩く速度は自分よりも明らかに速い。早坂も負けじと歩調を速めて追いつこう、追い抜こうとする。初めはそんな努力も奏を効したが、次第に速さの差が歴然としてきた。人でさえこうなのだから車はみんな暴走車である。以前は信号無視をして道を渡ることがあったが、今それをやったら間違いなく車に轢かれるだろう。

「おい、のろのろやってんなよ」

 会社で上司に叱られることが毎日の日課になった。当たり前だ。歩くのも遅い、パソコンを打つのも遅い、話すのも遅いとなれば無能社員にならざるを得ない。だいたい皆が早口で話すので理解するのも並大抵ではなく仕事にも影響する。以前はアメリカ出張を任されるたびに商談を成功させるなど活躍していたが、今では社内の仕事さえ任されなくなってきた。得意だった速読術にも自信を無くした。誰もが自分よりも早くメールや文書を読み終えてしまうのだから。

 会社からは何度も病院に行けと言われたが、それだけは頑として拒否した。病院に行くということは自分の正常を疑うということだ。俺は正常だ――それは加速世界の中で自分を辛うじて支える精神的支柱だった。

 数年前からAIがみるみる発達し、いままで人がやっていた仕事をAIが我が物顔でやるようになった。企業は人件費削減のために採用を抑え、AIの活用に舵を切った。この状況下では早坂はいつリストラされてもおかしくなかったが、いまだ無事なのは、彼が営業部の社員だからだろう。

 早坂の勤めるライフ商事は輸出入代行業を営んでおり、営業部、商品部、品質管理部、貿易部、総務部、経理部で構成されている。早坂は入社当時から営業部に所属し、取引先に商品の企画提案を行ったりバイヤーと一緒に海外の営業先を回ったりし、得意だった英語を生かし優れた成績を修めていた。取引や商談は人と人との心のやりとりが関わる。単に主張や要求や拒否や妥協を言語的に行えばいいというものではない。ここにAIの入り込む余地はなかった。

 むろんいつまでも無事でいられるわけがない。なんとか速度に追いつかねばならない。だができない。焦燥感が募る。友達や親にも不安を訴えたが、みんな早口なのでかえって孤独感が増した。インターネットで同じ悩みを抱える人がいないかどうか探し、掲示板に書き込むと支離滅裂な批判や冷やかしが来た。

しかし、その中に混じって、一件だけまともな返答があった。伊吹メグという女性漫画家で、週刊誌に漫画を書いていたが、最近から雑誌の発行が週に一回から二回に増えたため、締め切りに間に合わすことができず、連載を打ち切られたという。出版業界も加速しているわけだ。

 早坂は藁にもすがる思いでメグと連絡先を交換した。彼女の声を電話で聞いたとき、ああ、俺と同じ話し方だ、と心底安心できた。メグはすでに病院で検査を受けていて、いまは結果待ちの状態だという。

「病院ね。でも俺たちはおかしくないよ。俺たちのスピードが標準だよ」

「だけどこの世界は結局、数の論理で動いているから」

「多数が正義なんておかしいよ」

「自分を疑うことも必要だと思うし……」

 数日後にメグから電話が来て、怖い話を聞かされた。メグが再度病院に行くと、警察の担当者が待っていて、「これは特殊な病気なので警察直轄の治療センターに入りなさい」と勧められたという。渡されたパンフレットにはきれいな施設や笑顔の職員の写真があった。医療費は政府が負担し、入所後は面会も自由だと言われた。

「わたし、入ろうかなと思って」

「やめたほうがいいよ。胡散臭いよ」

 早坂は言ったが、メグはすでに決意を固めていた。

「だって、このままじゃ不安だもん。わたしだけが遅いなんて……」

「メグだけじゃないよ。俺だってそうだよ。っていうか遅いんじゃなくて、周りの奴らが速すぎるんだ。卑怯なくらいに」

「でももし速くなれたら、それに越したことはないわ。漫画一本だって早く仕上げられるし仕事も安定するし。わたし入所してから早坂さんに電話するね。そこがどんなところか、ちゃんと教えるから。早坂さんも行きたいと思うかもしれないよ」

 それ以来、メグからの連絡は途絶えた。施設の場所を聞いておかなかったことを後悔した。


 早坂の会社の同僚たちは無能社員と化した彼に冷たかったが、温情ある上司もいて、仕事を任せてくれた。それは西欧のX国企業ゴールドラインとの商談だった。早坂が得意の英語を生かしてメールを書いた結果、その企業の担当者シトゥはぜひ来日して話したいと言ってくれた。これは久々の業績だと思い、上司の許可を得たうえで推薦状を送った。推薦状は日本入国のビザ発行に必要なものだった。

 ところがシトゥは来日予定日、空港に現れなかった。早坂は空港から本人に電話したが出ない。X国企業にも国際電話をかけたが、営業時間外のため出ない。「おまえがトロトロしてるから気づかなかったんだろうが」と同僚らに非難された。しかし搭乗予定の航空便は何度も確認し、間違いはないはずだった。早坂はX国の午前になるのを待ち、ゴールドラインに国際電話をかけた。するとシトゥは先日解雇したと告げられた。また会社側は彼が日本に行くことを知らなかったという。

ではあの推薦状は何のために? 

貿易では相手が推薦状をもらって不正入国するケースがある。どうやらシトゥもそのケースに該当するようだ。「おまえらしい仕事だな」と、温情ある上司が去っていった。

 周囲はなおも加速化していく。車は地上から空へ飛び出す勢いだ。それでいて動体視力が高度に発達したのか事故も起きない。人の動きは現代の科学テクノロジーを取り入れた忍者のように素早くなり、映像の早送り同然であった。ただ加速にも上限があるはずだと早坂は思った。例えば音声再生機を使えば発話速度を四倍速にも八倍速にもできるが、人間がそのスピードで話すのは唇や舌の性能的に無理だ。肉体の限界が加速化の限界を決めるのだ。

 その推測は当たっていて、彼らの加速化は頭打ちになった。早坂はそこに希望を見て、なんとか世界に追いつこうと早口言葉を特訓し、速く歩けるよう競歩の練習方法を取り入れ、思考と直感を鍛えて決断力を向上させた。

しかし付け焼刃であった。上司や後輩にののしられ、しまいには入ったばかりの社員にも、「木にでもぶら下がってろ、ナマケモノ野郎!」

 と唾を飛ばされた。

それで早坂は吹っ切れた。暴走列車の世界にしがみついてきたが、もう両手を離してしまおう、そしてあるべき姿に戻ろう、と。

月曜日の朝、いつもの習慣で6時に目が覚めた。のんびりと顔を洗い、髭を剃り、朝食を取る。早坂は広々とした1LDKに一人で暮らしている。世界が加速する以前、恋人と同棲していたが、喧嘩して出て行ったきりになっている。服や歯ブラシをそのままにしているのは、いつか帰ってくると信じているからに他ならない。彼女の大好きなジャムパンを俺が勝手に食べたことぐらいで恋が終わるとは信じたくなかった。

その一方で、彼女はパン事件を部屋を出るための口実にしたのではないかとも思う。俺の気付かないところで他の男と恋仲になっていて……。

 もしもそうならば仕方ない。恋は本人の意志とは無関係に訪れるものだから。ただ、俺は彼女の心をしっかりと握っているつもりだった。愛していた、という言葉は重すぎて使うのをためらうが、本当に好きだった。料理や家事も二人でやった。給料もそこそこもらっていたから、欲しい物を買ってあげることもよくあった。一度結婚について話したことがある。彼女は照れくさそうに頷いていたっけ。それなのに離れていったのは、俺に不満があったからだろう。

 考えられるのはセックスしかない。

 俺は前戯が下手で、しかも早漏気味だった。もともと性に対して関心が薄かった。彼女は不満を洩らすことなどなかったが、我慢していたのかもしれない。それが原因でセックスの上手な男のもとに走っていったとしたら、勝手にしやがれと言うほかはない。

 早坂は朝刊を広げた。幸いなことに文字は速さと無関係だ。印刷されて、そこにある。文字は加速した世界と自分とを繋ぐ唯一の経路のような気がした。

紙面は殺人事件が目立った。無差別、怨恨、請負など形式は様々だが、人殺しが日常茶飯事になっていた。外国人による窃盗や強盗、傷害も目立つ。犯罪増加と刑務所のパンク状態は前から問題化しており、日本政府は対策を打ち出していた。まず警察本部に特別超級部を設置し、犯罪防止を目指して超法規的に行動する警察を創出した。次に刑務所の完全民営化を図った。これは民間の資本や技術を生かそうとするPFI事業(Private Finance Initiative)の一環である。従来の民営刑務所は民間職員の他に法務省の刑務官もいたが、今回は完全民営化であるため公権力の行使も民間に譲渡された。

 国民は唐突な施策に反対したが、政府は断行した。現在、完全民営刑務所は「社会適応力育成センター」という名称で全国各地に数箇所設置されている。収容棟は個室で図書館や運動場もある。豊富な職業訓練プログラムも用意され、受刑者の評判はすこぶる高い。それはそうだろう。だが犯罪者にこんな快適な暮らしを提供する必要があるのかと早坂は思う。これではまるで寮付きの職業訓練学校ではないか。

犯罪者教育更正プログラムを開発したのは氷室瞳という女性である。電子工学と心理学の博士号を持つ科学者で、外科医の夫と共同研究や共同執筆もしている。しかし去年の初めにベランダから誤って転落して以来、意識不明の重体が続いているということだ。

 早坂は新聞を閉じてコーヒーを最後まで飲んだ。

 今の俺なら犯罪者の格好の獲物だろうな。俺のような人間を保護する施設も作って欲しいものだ。

早坂はジーンズ、シャツという姿でアパートを出る。当てもなく歩くが、近くに大きなグラウンドがあったのを思い出し、そこに行ってみようと思う。

 雲の動きは早坂に共鳴するようにゆるやかで、一群の鳥が空を渡る。路上では野良猫がのんびり歩き、木々は風を受けて細やかに葉を揺らす。自然は何も変わっていない。

 丘に立ってグラウンドを見晴らした。サッカーの試合をやっていた。若者たちが異様な速さでドリブルしたりボールを奪い合ったりしている。

風にまぎれて声が聞こえた。早坂がそちらのほうを見ると、向こうに青年が立っている。両手にノートを持ち、グラウンドのほうに向かってそれを読み上げている。


みんな

ゆっくり歩こう

ゆっくり走ろう

そんなに急いでどこへいく

植物や動物を見るんだ

自然に戻れ

自然さを失った人間は

もう人間ではない


 力強く、ゆっくりとした声だ。日々早口を聞かされていた早坂にとって、その声は落ち着きと味わいのあるものだった。

 青年は朗読を終えて、足元のサッカーボールに尻を乗せた。

 早坂は青年へ駆け寄って、「同感です。まったく同感」と言った。

「え?」青年は驚いた顔で見つめ返す。

「俺の仲間がいた。ははは」

 話す速度で二人は同じ境遇にいることを知った。まるで親友に再会するかのように抱き合ってよろこんだ。

 青年の名は史村七郎。有名大学の法学部三年生で、サッカー部に所属し、ずっとレギュラーとして活躍していたが、選手たちの理不尽な速さについていけず脱落した。自暴自棄になったとき詩と出会い、自分の悔しさや怒りを詩に託して表現し始めたのだという。

「早坂さんもぜひ書いてみてください」

「無理だよ。俺は文才がないんだ」

「思いつくまま書けば、それが詩ですよ」

「そういえばさっきの君の詩は、お世辞にも上手とは思えなかったな」

「ひどいなあ。でもいいんです。言いたいことを言うのが詩です。僕が朗読するのは、加速する人たちに警告する意味もあるんです」

「もう一つ意味があるんじゃないかな」

「何ですか」

「つまりさ、同じ仲間を見つけるためにやるってこと。大声で詩を読んでいたら、向こうから寄ってくるだろう。この俺と同じみたいに」

史村は快活な笑顔を浮かべた。スポーツマンらしい、スカッとする笑顔だった。

 早坂はノートにボールペンで自分の思いを書き連ねた。そうして処女作ができた。草地を踏みしめて、腹から声を出した。


人間たちに告ぐ

そんなに急いでどこに行く

人生は長い

味わいつつ送るのが人生ではないのか


 朗読を終えたとき、すっきりした感覚が広がっていた。史村が拍手をした。

「同感ですね。人生は長いって周りの奴らに言ってやりたい」

「なあ史村君、俺たちこの活動もっと広げようや」

 早坂は意気揚々たる面持ちで言った。

 史村はボレーシュートでも決めるように「やりましょう!」

「それにはまず名前を付けないとな。この活動の名前を」

 二人でいくつか候補を出してみた。詩作と朗読の会。自然回帰の会。マイペース愛好会。大声で警告する会。

「どれもパッとしないな」と早坂。

「『詩とシュートを決めろ会』とかどうです?」

 青年からサッカーへの未練を感じた。彼はサッカー仲間から除外されたに違いない。

「わかりにくいかな」

「ですね」史村はサッカーボールを意味もなく掴んだ。

「わかりやすさで言うと、この『マイペース愛好会』だ。これをもうちょっと改造してみるか」

早坂は空を仰いで、白い雲が悠々と流れているのを見た。俺が地上の人間たちに見捨てられても雲はずっと味方をしてくれるだろうと思った。

「自分なりのペースで」

 早坂の口からそんな言葉がこぼれた。

「自分なりのペースで」

 史村が咀嚼するように繰り返した。

「会とか愛好会とか付けないんですか」

「いらないさ」

 史村は朗らかに笑って、「じゃこれで決まり、と」

 グラウンドではサッカーの後半戦が終わったところだった。一対一の引き分けで、まもなく延長戦が始まる。

「最終的にこの活動はどこに行くんでしょうね」

「そうだなあ。速い奴らに、自然に戻れと諭す。で、全部元に戻ったら、活動終了」

「速い奴ら……。じゃ僕たちは遅い奴ら?」

「いやいや。そんなことはない」

 早坂と史村は話し合って、従来の速度を持つ人間を「自然人」、異常な速度の人間を「加速人」と命名した。こうやって自分の都合のいいように名前を付けることで、劣勢な状況がいくらかでも有利になる気がする。

グラウンドのほうではすでに延長戦が始まっていて、選手の蹴ったボールがゴールバーに当たって、大空へロケット弾のように弾け飛んだ。

組織の二人は宣伝の張り紙を作るため、文房具屋探しに出発した。史村はサッカーボールを布袋に入れて肩から下げて歩いた。

道路はレーシングコースと化している。信号機は加速人に合わせて色の切り替えが早くなっている。早坂らは横断歩道を全速力で渡った。文房具屋を見つける。自動ドアが一瞬にして開く。ギロチンの刃と台の間を潜り抜けるようにして店に入る。A4のコピー用紙百枚。マジック。色鉛筆。糊。セロハンテープ。それらをレジに運ぶ。

 小太りであどけない顔をした店員が何かを口走る。超高速の日本語であった。早坂はわかったフリをして財布から金を出す。いくら払えばいいかはレジスターに表示された金額を見ればわかる。

無言で金を渡す。品物を受け取るときに何か言われたが、無言で店を出る。

「早坂さん」店を出たところで史村に背中を叩かれた。

「なんて言ったんでしょうね」

「さあ。完全にわからなかった。耳は慣れてきたと思ってたんだが、まだだな」

「まあまあ。僕たちは自分なりのペースでいきましょう」

 そう言う史村の顔からは五対四で迎えたフリーキックの直前の緊張感が感じられた。

「そうだな。自分なりのペースで」

 さっそくビラを作った。紙に組織名、活動内容、詩の実例、連絡先を書いた。掲示板、電信柱、自動販売機、ビルの壁、と張れる場所ならどこにでも張った。すぐに早坂の携帯電話が鳴った。

「『自分なりのペースで』事務局です」

「×××」

 聞き取れない。加速人だ。

「どなたですか」

「×××」

 早坂は電話を切った。すぐに同じ番号から電話が来た。迷ったが、出てみた。

「わ××ますか」

 一部、聞き取れた。

「誰ですか」早坂は問う。

「け×さつ」

 警察、だろうか。

「あなたが、わかるように、いま、ゆっくりはなしています。ちょっと、しょに、きてください。だいじな、おはなしが、あります」

 指定された場所は街の真ん中のS警察本部だった。

「きょうの、ごご3じまでに、一かいのうけつけに、きてください」

「待ってください。大事な話って何ですか」

 早坂は言ったが、電話は一方的に切られた。早坂の脳裏に、メグの言っていた警察の治療センターが思い浮かんだ。

「どうする」と仲間の顔を見た。

「行くしかないですよ」

 史村は達観した様子だった。

「逃げないのかよ」

「逃げられませんって。絶対捕まりますよ。これ、自首しろってことでしょう」

「自首? どういうことだ」

「加速人の立場からはそうですよ。僕たち自然人が異常なわけだから何らかの管理がしたいんでしょう。周囲に自然人なんていないし、もう多くの人が警察に捕まってるんですよ。だから僕たちも行ったほうがいいですよ」

「そんなこと言うとはな……。せっかく組織を作ったってのに」

「だって、警察から直接電話が来たなら仕方がないですよ。でも大人しくは捕まりません。言いたいことは言いましょう」

二人は無言でバスに乗った。昇降口を上がるのも一苦労だ。乗客の目が突き刺さる。バスが猛スピードで走る。交差点の角を曲がる。タイヤが軋む。早坂は冷や汗をかき吊り革を握る。

「次ですよ」

 史村が耳元で囁いた。さっき乗車したばかりなのにもう着くらしい。

 停留所の斜め前に警察本部がそびえたっていた。ガラス張りの近代的なビルだ。

「行きましょ」史村が先頭を切って行く。

 自動ドアが一瞬で左右に割れた。右手に総合カウンターがあった。そこへ行くとカウンターの婦警が会釈してきた。雷鳴のような会釈だった。早坂はあえて堂々と張り紙を示し、ここに来たいきさつを話した。すると婦警が高速で何か言って、カウンターの電話から担当者に連絡した。すぐにエレベーターのドアから五十代ほどの男がやってきた。そのM字型に禿げた頭を見て、頭髪が少なくなるのも早かったのだろうかと早坂はどうでもいいことを思った。

「わざわざ×××くださって、どうも××。私は橋川といいます」

 名刺には特別超級部、橋川管一警部とあった。特別超級部は超法規的に行動することを許された部署である。面倒なことになった。

男の後についていくと、応接室の黒光りした革のソファを勧められた。意外にも丁寧な待遇である。

「ゆっくり話すのは大変ですな。ハハ。話すスピードを自動的に遅くするマイクをいま開発中でしてね、もうすぐ完成ですが」

 女性がタタタとお茶を運んできた。手早く三人の前に置き、部屋から消える。

「単刀直入に言いますが」橋川は両手を組んで膝の上に置いた。「この街から退去して頂きたいのです」

「退去……?」二人が顔を見合わせた。

「街を出て行くということですな」

「僕たちはこの街に住む権利があります」史村が喰いついた。

「もっともです。しかしあなたたちは、遅い。ですから今後、この街の生活にも適応できなくなるでしょう。いやもう適応不全ではないですか」

 橋川は穏やかな物腰で言った。

「だからって街を出て行けと言うんですか。そんなの人権無視だ」

 史村が語気を強めた。

「ご安心を。考えがあります」

 橋川はそこで一呼吸置いた。「これは一種の病気です。ですから専門の治療施設に入って治療を受けたほうがいい。そこへご案内すると言っているのです。それで治ったら、またここS市へ戻ってくればいい。実は遅い人は他にもいるんです。あなた方のお仲間ですな。施設に入って、同じく遅い人と一緒のほうが安心して暮らるでしょうし……」

「『遅い人』は差別表現です。自然人と言ってください」と史村。

「ふうむ。自然人というのはあなたたちが作った言葉ですね」

「その施設って何なんですか。なんか怪しいな」

「不安になるのも無理はない。わたしも急ぎすぎたようですね。では経緯を説明しましょうか。遅い人……、いや、自然人が、速度の異常を感じて病院に行き始め、診察や検査をしたが、体にも脳にも異常がないと。で、そういう人が社会に増えてきた。警察はこの事態を重く見て、政府の支援のもとで、全国の病院と連携し自然人の調査と管理を開始しました。専門の治療施設も作りました。それでいま、自然人の皆様には、その施設へお入りいただくよう話をしているところです。むろん入所の費用は無料です。学校や勤務先にはこちらからご説明するので、心配は要りません。ところで」

 橋川はそこで目つきを陰鬱にした。「さっき人権無視とか言いましたが、言葉には気をつけたほうがいいですな。これはあなた方を保護するためなのですから」

「俺は行かない」

 史村は言った。「あんたら加速人こそこの街を出て行けばいい」

警部が片方の眉を吊り上げた。早坂は青年をなだめて、代わりに警部にお詫びした。そのうえで、「急なことなので、まだ心の準備ができておらず、この状態では施設にも行けません。準備ができたら必ずこちらからご連絡差し上げますので、今日は帰ってもいいですか」と提案した。

 橋川警部は「いいでしょう」と言った。「ただし連絡は必ずください。妙なことは考えないように」

警察署を出ると、タクシーを止めて、二人は後部座席に流れるように乗り込んだ。史村は張り紙の裏に「大自然へ」とボールペンを走らせた。運転手は粋な乗客とでも思ったのか親指を立ててアクセルを踏んだ。タクシーが向かったのは郊外の自然公園だった。山がどっしりと存在し、森林が静かに息づき、数々の動物が檻の中で動き回り、爆発するような轟音を立てて急崖から落下する滝がある。

「なあ、史村君」

 早坂はふつふつと湧き上がる何かを感じつつ言った。

「俺たちは大自然と繋がる自然人だ。これには深い意味があると思うんだよ。つまり」

「わかります」

 史村が遮るように口を挟んだ。「僕たちは加速人に警告するために存在している。やりましょう、早坂さん」と息巻いた。

「警告より啓蒙という言葉を使いたいね。教え導くわけだから」

「じゃ僕たち啓蒙思想家ですね」

「そうさ。これから毎日たくさんの詩を書くんだ。そして街中に張るんだ。文字は俺たち自然人と加速人を結ぶ唯一の道具なんだ」

 二人は日中、内燃機関のように詩を書き、誰にも邪魔されないように夜間それを壁や柱に張って歩いた。

警察から電話が来た。

「署に来い。早く施設に入れ。いつまでも手を煩わせるな」

 と露骨に恫喝してきた。

早坂は憤りと恐怖を力に変えて詩篇を街に張り続けた。しかし同胞からの反応はまるでなかった。もうみんな収容されてしまったのだろうか。

早坂は急増中の民営刑務所のことを思った。その一つが治療施設に転用された可能性を考えた。いくら加速人とはいえ、自然人に特化した施設を短期間で作れるはしまい。伊吹メグが収容されているのは、きっとそこだ。

夜、疲れた体を引きずってアパートに帰ると、引き出しが開きっぱなしになっている。現金や貴重品が盗まれていた。早坂が力なく座り込んだ。安堵感のためだった。

 もし自分が部屋にいるときに泥棒が入ってきたら無抵抗のまま殺されていただろう。

 早坂は故障した電気毛布みたいにソファに横になって新聞を読んだ。購読しているのは富士山新聞だ。政治経済よりも文化に重きを置いた記事が多く、最近から文学に関する記事が目立っていた。それによると、ここ数年文学賞の入選作が極度に少ないらしい。日本で権威のある純文学の賞も、伝統と歴史のあるエンターテイメントの賞も、わずかながらの佳作があるだけで、プロの作家についても会心作や傑作が少なく、日本文学全般の弱体化が懸念されているという。日本文藝協会理事長は「極めて遺憾。如何ともしがたい」というありきたりのコメントを残していたが、理事長がこの程度のことしか言えないのでは文学衰退も然るべきだろうと早坂は思った。日本文学は他国と比べても立派な歴史を持っている。特に女流平安文学の最高峰「源氏物語」はそれ以降の文学ばかりか文化、社会にも影響を与えている。その歴史がついに潰えるのだろうか。

 いや、小説の時代が終わるのだ。これからは詩の時代だ。もとより日本文学は長きに渡って詩歌が隆盛していたではないか。明治時代からは散文が優勢になったが、再び韻文が復権しようとしている。そして俺はその最先端にいる。

「なあ、史村君。妙案があるんだ。明日朝丘の上で会おう」

 早坂が翌朝丘の上に行くと、史村はすでに来ていた。サッカーボールの上に腰を下ろしていた。右の頬が赤く腫れていたので、どうしたと聞くと、通りすがりの女子中学生に「とろい。どいてよ」とビンタされたらしい。世も末だ。

「それで、妙案ってなんですか」

 史村が気にもせずに言った。

「詩で暗号を作らないか」

「スパイみたいですね」

「警察は近いうちに俺たちを施設に強制連行すると思うんだ」

「まさにアウシュビッツ収容所」

「だけど俺たちは加速人に反抗できないだろう」

「できないですね。あー畜生!」史村は息巻いて立ち上がった。

「だから暗号なんだよ、史村君」

 早坂は賢者の目で、激昂した青年を見つめる。

「施設に連行されたら俺たちの行動は歯磨きから雑談、自慰行為まで徹底的に管理される」

「自慰行為って」史村は少し笑った。

 早坂は性的な関心が薄いから、性的な言葉も簡単に口から出るのだ。

「管理から逃れる方法はただ一つ、暗号だ。暗号で俺たちは意思の疎通をするんだ。それで脱出計画を相談したりする」

「すごい。尊敬します、そういうの」

「長年社会人をやっていると、自然と知恵が出てくるもんだよ」

 長年でもないが、大学生の史村よりは社会を知っている。

「考えようじゃないか。暗号を」

「僕たちだけにわかって、僕たち以外にはわからないようにするんですね」

「そう。それも詩という形でね」

詩を縦書きし、各行の最初の文字を横に読んでいくと有意味な文章が現われるという暗号があるが、これはすぐ見破られる。

「それをもっと発展させましょう」

 史村のアイディアは、まず詩の題名に数字の発音を二つ含ませるものだった。例えば「姉御が死んだ」なら、「姉御」の「御」が5、「死んだ」の「死」が4ということになる。そして詩を読むとき、各行の5番目または4番目の文字を横に読んでいき、意味のわかる文章に再構成するのである。

「いい方法だけど、難しそうだけどな」

「さっそく作ってみましょう」

 言うが早いか史村が紙に書き出した。


 姉御が死んだ

お姉さん

あなたの露が

この世界に

滲んだ後で

懐かしさに

胸が痛み

薄暗い空がある

 

 早坂は謎めいた詩を見つめながら唸った。

 まず一行目の「おねえさん」。「ん」のわけがないからこれは「さ」で決定だ。次に「あなたのつゆが」だが、「つ」か「ゆ」か。もっと先を見ないとわからない。「このせかいに」。「か」または「い」。そのとき早坂にひらめくものがあった。史村と言えばサッカーである。だからこれは「さつか」、つまり「サッカー」と言おうとしているのではないか。

 案の定、「にじんだあとで」の5番目が「あ」だった。続いて「なつかしさに」「むねがいたみ」「うすぐらいそらがある」から考えられるのは、「したい」のみ。

「サッカーしたい。だろ」

 早坂は子供のイタズラを見抜く母親のように言った。

「さすが暗号学者!」史村はサッカーボールを叩いた。

「史村君も短時間でこんな詩を書けたのはすごいよ。よし、今度は俺が作る」

 早坂が紙とボールペンを手にした時、丘の下に自動車が停まった。


    

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