第8話 「……早く帰ってこないかな」

「昼飯作り置きしておいたから。腹が減ったら自分で食べてくれよ」


 玄関先。

 靴を履きながら、美也に声を掛ける。


 美也は例の「YES/NO枕」を腕に抱えている。

 しかも律儀に、「YES」の面をこちらに向けている。

 部屋にいる間はずっと抱えているつもりなのか。


「……(YES)」

「俺は大学に行ってくるから」

「……(YES)」

「夕方くらいに帰ってくるが、その間は家で待つか?」

「……(YES)」


 マジで便利だな、それ。

 枕のせいで、おねだりが激しい新妻感が滲み出てしまっているのは、見ないフリをした。


「それじゃあ、いってきます」

「……(YES)」


 部屋を出る。

 昼飯にはパスタをつくっておいた。

 簡単なものだが、女の子一人の腹を満たすには十分だろう。


 今の俺の料理スキルでは凝ったものは作れないので、レパートリーの少なさには勘弁願いたかった。


 大学に着く。

 帝東大学文学部人間科学学科心理学コース。

 それが俺の所属である。


 文にすると長ったらしいがとりあえず、心理学が専攻科目、ということである。

 近辺の大学には心理学どころか、文学部すら置いていないところも多い。

 しかしこの大学、大仰な名前を掲げているだけあって偏差値だけはべらぼうに高い。


 俺の学力では、合格率は五割あればいいほうだった。

 推薦も一般も落ちたら浪人する覚悟であったが、推薦で合格を勝ち取れたのは僥倖であった。


 さて、大学は高校と違ってカリキュラムを自分で自由に組むことができる。

 好きな科目、学びたい科目、面白そうな科目を取っていくのもいいが、まったく興味のない内容でも単位を楽に取れる科目であれば履修することも多い。

 

 今から受ける授業が、まさにそれだった。


 講師の説明を聞き流しながら、俺は携帯の検索エンジンにとある言葉をかけていた。

 この先生は授業の邪魔さえしなければ、居眠りしていようが携帯弄ろうが指摘することはない。


『言葉が話せない 病気』


 ヒットするのはやはり、失語症である。

 失語症とは言語領域を司る大脳が、脳卒中、脳出血などによって傷つき、言語障害を引き起こすことである。

 失語症には様々なタイプがある。

 言うべき言葉が咄嗟に出ない、言葉を言い間違える、言葉の意味が解らなくなる、などだ。


 あるいは場面緘黙症ばめんかんもくしょうというものもある。

 特定の場面――例えば学校では全く言葉が出てこないが、家に帰った途端に饒舌になる、というものだ。

 人見知りや内弁慶とは訳が違う。

 リラックスしている状況でも、その場面に身を置く限り何か月、何年と話せない症状が続く。


 だが、これらはどれも美也の症状に該当しない。

 彼女は、「話す」「伝える」という能力だけが欠落しているのだ。

 声そのものは出せることから、声帯や舌が麻痺しているわけでもない。

 こちらの言葉やテレビや本の文字だって正確に理解できていることから、知能障害を抱えている様子もない。


 文字によるやり取りや手話によるコミュニケーションは、できない。


 そのような症状は、どれだけ調べても出てこない。

 疾患が出てこなければ、治療法も見つからない。


 それが一緒に過ごしていれば、本当に治るものなのか。

 新田の言う通り、希望的観測に思える。

 


 俺はページを閉じ、再び検索エンジンにワードをかける。


『料理 簡単 レシピ』


 ♢


 

 今日の授業が終わった後、俺はまっすぐに部室に向かう。

 

 部室に行く理由は、特にない。

 大学生は理由もなく群れるものだ。


 少なくとも部室行けば、どんな日のどんな時間帯にも誰かはいる。

 たとえ誰もいなくても、部室には空調と冷蔵庫以外のすべてが揃っている。


 DVDプレイヤー、パソコン、漫画、最新のゲーム機。

 不真面目系サークルの典型のような部室だ。


 かといって飲みサーほど形骸化しているわけではない。

 活動そのものは毎週行っているのだ。


 部室に入った。

 

「遅かったわね、秀斗」

「綾瀬か」


 オールブラックに身を包んだ綾瀬が、ソファーの上で胡坐をかいている。

 長い黒髪を降ろし、真っ黒な服装と相まってクールな印象を受けるが、テレビで相撲観戦をするおっさんのような姿勢が全てを台無しにしてくれる。


 聞いたところによると、胡坐をかきたいがためにわざわざスカートではなくデニムパンツをはいてくるのだそうだ。


「そっちは早かったな」


 俺は同じくソファーに腰かける。


「今日教授が体調不良で講義がなくなったのよ」

「あら、そう」

「須郷のやつは?」

「さあ? もうじき来るんじゃないか?」


 噂をすれば何とやら、部室の扉が開く。


「おう、揃ってんのか」


 須郷が入室し、ソファーに腰を下ろした。

 これで部員全員が一堂に会したわけだが、特に何か目的があった集まるわけでもない。


 だが、ここは映像文化研究会――通称映研。

 映画を見ずには始まらない。


「あれ、こんなDVDあったっけ?」


 部室にあるDVDを漁ったところ、見慣れない映画のDVDを見つける。

 見たことも聞いたこともない、英語のタイトルの映画だ。


「おい、須郷。お前また変なDVD買ってきたのか?」

「俺じゃねえよ」

「それ、私が買ったのよ」

「綾瀬のだったのか」

「どういう映画なんだよ、これ」


 須郷が尋ねる。


「詳しくは知らないけど、四十年くらい前にオーストリアで即上映禁止になった映画らしくて。それが今年になって解禁されたらしいの」

「で、早速買ってきたってわけ?」

「まあね。だって気になるじゃん」

「まあ、それは確かに気になるな」

「でもお前、あれなんだよな。映画のチョイスがいつも微妙なんだよな」


 須郷がそう指摘する。


「微妙って何よ?」


 綾瀬が眉を上げる。

 

「あんま気持ちよく見れないんだよ、お前の映画」

「どういう意味?」

「この間の新歓は秀斗も覚えているだろ?」

「ついこの間のことだからな」


 この映研の新歓はコンパではなく、健全に映画鑑賞である。

 そして、鑑賞する映画は今年は綾瀬が選んできた。


 俺たちも楽しんで鑑賞するために、一度も見たことのない映画を選ぶよう言ったのだ。


「でさ、その映画普通の感動系の映画と思いきや、途中で滅茶苦茶過激な濡れ場挟んできただろ? あれ、すげえ気まずい空気になったよな」

「あったな、そんなことも」


 結局、この映研に新入部員は入ってくれなかった。


「あの気まずさといったら……今思い出しただけでもトラウマもんだぜ」

「しょ、しょうがないでしょ……。私もまさかあんなシーンがあるなんて知らなかったんだから。パッケージもあらすじも、普通だったし」

「あの映画って、今部室にあったっけか? 秀斗」

「いや、今俺の家にあるぞ。綾瀬が新歓が終わった後『自分で持っているのも嫌だから』って、俺にくれたんだ」

「じゃあ今度一緒に見ようぜ、その映画」

「やめてよ、ホントに」


 綾瀬が苦々しく顔を歪める。

 その過激な濡れ場が流れたとき、一番顔を真っ赤にしたのは他でもない綾瀬だった。


 あからさまにいたたまれない雰囲気を出すものだから、かえって気まずくなってしまったのは、言わないでおいた。

 

 ♢


 一方、家では美也がテレビの画面をぼーっと眺めていた。

 例の「YES/NO枕」は、我が子のように肌身離さず抱えている。


 しかしテレビにも飽きたのか、リモコンで電源を落とす。

 彼女は退屈そうに足をバタバタとさせた。

 しきりに、時計を確認する。

 

 まだ昼過ぎであるのを確認すると、表情をむっとさせた。


 部屋を見渡す。

 美也の瞳が、とある機械を視界に捉える。


 DVDプレイヤーだった。

 歩み寄る。


 近くには、秀斗が今まで集めたDVDが積まれてあった。

 無造作に、一枚手に取る。


 パッケージとあらすじから察するに、ありきたりな感動系の映画だろう。

 パッケージの裏側には付箋が張られてあり、「新歓」と書かれてあった。


 美也はDVDプレイヤーを起動させると、そこにDVDをセットした。

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