第34話 記憶の溝

 そこで彼の記憶は途切れた。ディーンは真っ白な世界にいた。世界には炎が一つゆらめいていた。あたりには何もなかった。彼はただ真っ白な空間にいた。

 一本のろうそくと大きなベッドがある。かなり大きい。エネ大王は……? ディーンは思わず振り返る。大王の身長が元に戻っている。さすがに呪文を使い続けるのは辛いのだろう。母親も自分と同じくらいか、それより少し低いくらいの身長に戻っていた。まるでついさっき城が破壊されたことが嘘みたいだったな、と彼はぼんやりと思う。

「ここは……?」思わず声を出す。やっと声帯を震わせることができた。音がきちんと空気に振動して、自分の鼓膜を通って伝わってくる。

「儂らがもといた場所じゃ、ディーン。お主はここにくるのは初めてじゃな」

「エネ大王……?」エネ大王はのしのしとベッドにまっすぐ進み、ゆっくりその上に寝ころんだ。と思うと、瞬間的に大きないびきをかいた。寝ころんで一分もたっていない。

「大王様?」

「まったく無茶しおってからに。儂も疲れたわい」レメディオスが口を挟む。

「母さん……! 僕、息、できている。母さんも喋れる。……っ、僕、母さんと一緒にいれている!! 母さんと一緒にいれる!!」ディーンは思わず年甲斐もなく母親に抱き継いだ。思わずレメディオスは後ろにのけぞる。

「わはは、ディーンはいつまでも甘ちゃんの子供だのう。うりうり、お主、もう儂の身長を越しているではないか」

「そうだよ、母さん。二十年も経ったんだから。そりゃ大きくなるよ。母さんより呪文だって使えるよ」

「本当かあ? しかしこうして我が子を抱きしめられるとはいいものだな」レメディオスはディーンの頭をゆっくりなでる。

「でも母さん、ここはどこなの?」

「始まりの場所だ。儂らはもともとここにおったのだ。儂らはもともとここで生まれたのじゃ」

「ここは地面の中なんですか?」

「そうじゃの、ってお主、硬っ苦しい言い方はよせ。普通にしゃべればよかろう。そうだな、ここは地面の中と言えば中じゃの」

「いったいどこなんです?」

「ここは我々が生まれた場所。人間どもはかつて『記憶の溝』と呼んだらしいがの。儂にとっては只の故郷にすぎん。しかし不思議だな……。ここに来た人間も大昔にいたらしいが、すぐに窒息して死んだと聞いておるぞ。お前はなんともないか?」

「なんともありません」

「そうか。それは不思議じゃの。儂の血がそうさせるのか。まあよい、儂らはここで育ち、交配し、種を存続させていた。その相手ももう……いないがの……」レメディオスは笑いがなら俯いた。目はどこか寂しそうだ。

「母さんには好きな人がいたんですね」ディーンはだしぬけに言った。レメディオスは目を丸くして吹き出した。

「なんじゃなんじゃ、急に。ませとるのう。いつからそんな親の色ごとに突っ込むようになったのじゃ?」

「いや、なんとなくそう思っただけだよ、母さん寂しそうな目をしてたから」

「そうかあ?」レメディオスは無理やり笑った。

「うん。すごく寂しそう。ねえ、母さんには愛していた人がいるんじゃないのかな」

「……」レメディオスはじっとディーンの曇り亡き眼を見つめた。

「全くお前にはかなわんのう」とレメディオスは笑った。

「一人目はもう儂の記憶にはほとんどない。ただぼんやりと、あんなことがあったなあとしか思い出せない。儂の記憶はとうにこの溝でエネルギーとなり、昇華し、湖へと溶け込んでいった。今となっては湖の泡のごとく何も残っておらん。ある日人間か誰かが……おそらく彼は人間だったと思う、湖でおぼれ運悪くこの『記憶の溝』にまで入り込んできよった。当時私は少女で、恋など到底知らなかった。ただいつもこの世は自分で制御できると思っておった。しかしそ奴がここに現れてから、儂の心臓は狂いっぱなしだった。そ奴と話したいのに話したくない、気にしたくないのに気になってしまう、そんな不思議な存在だった。

 災害だった。

儂にとっては恋なぞ、自分を制御できずに苦しむただの自然災害に過ぎなかった。儂は父に彼がここで暮らせるような手立てはないのかと聞いた。無論そんなものは存在しなかった。儂は彼を引き留めたい気持ちと、早く元の場所に帰らせなければならない気持ちとで板挟みになっておった。儂はまだ、人間がここで生きられないことを知らなかった。

 彼は急激に弱っていった。痩せこけ、倒れ、寝込んだ。息が苦しいと何度も言っていたらしい。儂は父上にもう一度どうにかできないと聞いた。が、やはり父上は元の場所に返せ、我々と彼らではすむ世界が文字通り違うのだ、と言ってのけた。それは残酷だが実に正しかった。数日後に、彼は死んだ。そんな結果は誰もが当然と思っていたらしく、周りの反応はやけにあっさりしていたらしい。もともと儂は人間に興味なぞあまりないしの……。

 正直なことをいうと、彼のことはもうあまり記憶がない。当時のことを知っていた友人に後から聞いて、儂がもう記憶を手放していると知った。だから今は悲しくもないのだが……ただ、『第三者として』儂自身の話を聞かされた時に、今でもそうじゃが、ひどく泣きそうな気持になる。なんでじゃろうな、やはり儂の中には『たとえ記憶がなくなっても』どこかで覚えているものなのかのう。そのへんはわかりゃせん。儂は只の王女じゃ、学者ではない」

 かっかとレメディオスは笑った。

「……まだほかに愛している人がいるの?」

「お主がよおく知っている人じゃ」とレメディオスはにやりと笑う。

「ティムが毎晩私に求婚してきた話は知っておるか?」

「あ、はい。なんとなく」ディーンは苦笑いする。改めて母親と父親の過去の恋愛話を打ち明けられると、気恥ずかしいものだ。

「ただな、くくく、今でもこっちは覚えておるわ。シリウスは一度だけここに来たことがあるのだぞ」

「シリウス義父さんが?」

「ああ。あ奴は不器用じゃのう。ふふ。もちろんすぐに元の場所へ返しおったわ。私だって人間と結ばれるなぞ思ってもみなかったからの」

「母さんはシリウス義父さんが好きだったの?」

「好き、と言う言葉はいささか厳密ではない」とレメディオスは下を向いて言った。

「彼と話すことはおもしろかった。毎晩毎晩、あ奴は儂の名前を呼んだよ。出てきてくれないか、って。もう一度話がしたいってね。そんなわけで儂は毎晩顔だけを湖から出して奴の話を聞いたものさ。しかしあ奴は本当に不器用じゃったの。何しろ儂の顔を見ただけで話す内容をすっかり忘れてしまうのじゃから、ははは」レメディオスは屈託なく笑う。

「あ奴のことは、儂自身ようわからんのじゃ」とディーンの頭を撫でながら彼女は言った。

「20年間、あ奴は儂よりも先に結婚したものだと思い込んでいた。しかし今となってはもうすべてどうだっていいことなのじゃ。儂はあ奴のおかげで外の世界を知った。人間の魅力を知った。もっと知らない世界を見たいと思えるようになった。それはとても素晴らしいことじゃった」

「……わかる気がします」とディーンは頭を撫でられながら言った。

「儂がいまこうしてお前と話しているのも、あ奴が外の世界を教えてくれたおかげじゃ……」

「義父さん……」


 「レメディオス様ですか?」

 後ろから高い女の人の声が聞こえた。振り返ると、茶色の服を着て、体が半透明に透けた赤色の髪の女性が立っていた。

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