第10話 みんなは一人のために

 キッシンジャー、レベーカ、シドの三人はディーン救出のため、呪文の修行に励んでいた。

 城の近くのホテル。フロント係でさえいないロビーで、三人は肩を寄せ合っていた。


「作戦を変更する」とキッシンジャーは厳かに言った。

「「はい」」レベーカとシドは威勢良く返事した。

「一週間、この町に滞在する。そこで城の情報を得る。主にどこにどんな奴がいるのかを探る。そのあと対策を練る。修業は同時並行で行う。いいな?」

「はい」シドはすぐに返事する。

「異論ありません」レベーカもすらすら答える。

「ちなみに、皆単独行動は禁止じゃ。必ず儂を携帯しろ」

「「わかりました」」

「それでは宿を探しながら呪文の実践に入るが、お前ら化学や物理は詳しいか?」

二人は思いっきりキッシンジャーから目をそらした。

「私、理系科目はあまり得意ではないですが……勉強したことは……」おずおずとレベーカが答える。

「俺は勉強自体あんまり」

「なるほど」

「貴兄らの得意分野は?」

「私は哲学」とレベーカ。

「俺はギター」とシド。

「なるほど」彼は語尾を上げ、本を開いた。

「それならば少しは役に立つかもしれんな」本に表情はないはずだが、きっと昔のように生きていれば彼はにやりと笑っただろう。


「おぬしら、元素についてはどこまで知っておる?」キッシンジャーが聞く。

「物質の最小の単位ですよね」レベーカが答える。

「それくらいなら俺も……」シドが頬を掻く。

「なんじゃ、わかっておるじゃないか」キッシンジャーは拍子抜けしたようだ。

「それならば話は早い」キッシンジャーは自分のあるページを開いた。

「呪文とは、簡単に言えば元素の数は変えずに状態を物理法則で変えることを意味するのじゃ。おぬしらは物理の心得はあるか?」

「いえ、ディーン君から習っていただけで」レベーカが一瞬目を逸らす。

「俺はさっぱり」

「なるほど」キッシンジャーはため息をついた。

「じゃあまず、儂のこの頁の文章を読み込め」

 レベーカとシドは呪文をマスターするべく、キッシンジャーに付きっきりになった。


「まずはおぬしらに話しておきたいことがある」

「はい」


「時間がないので、各々得意な呪文『だけ』を習得することにする。普通は基礎から積みあげていくが致し方ない。例えば数学でも、証明は得意じゃが計算は苦手とか、各々得手不得手があるじゃろう。今回は得意なことだけを学ぶことにする」


「わかりました」レベーカが答える。

「はい」シドも従順だ。


「と言っても、基礎理論の理解だけは不可欠じゃ。儂を何回も読んで頭に叩き込め。また、呪文習得と同時に城に関する情報収集も行う」


「そうでした」レベーカがノートから目を離し、思い出したように言う。

「具体的には?」シドが聞く。


「とにかく人に話しかけることじゃな。この町の高級店や酒場には城の関係者が出入りしている可能性は高い。とにかくどんどん行動するんじゃ。これから当分は外食になろう」


「俺ら、でもそんなお金ありませんよ」シドが心配そうに言う。

「案ずるな。儂の534頁を開きながら床に向かって儂を振れ」

言われた通りにシドがキッシンジャーを振ると、ページの中から金貨が出てきた。

「な……」レベーカが言葉を失った。

「あはは」シドが笑った。

「ここはへそくり場所なのじゃ。ちなみに、おぬしら勝手にそれを私的なことに使うと呪文をかけるのでそのつもりでいろ」

「わかりました」シドは笑顔で言った。

「いえいえ、こちらこそありがとうございます」レベーカが丁寧にお辞儀した。

「早速、今夜は酒場に向かうぞ」



 城から歩いて五分、裏路地の少し奥まったところにあるバー「スナフキン」に三人はいた。とはいえ、レベーカとシドが別々に入り、別々の席に座った。店はちょうどいいくらいに込んでいて、うるさすぎず静かすぎもしない。騒ぐ者もいない。皆上品にお酒と会話を楽しんでいる。BGMにはゆったりしたジャズのバラードが流れていた。


 キッシンジャーはレベーカに付き添っていた。彼女は黒い細身のワンピースを身に着け、甘いカクテルを飲みながら彼を読んだ。対してシドはビールを頼んだ。チーズクラッカーとともにそれをちびちび飲んでいた。


「お嬢ちゃん、一人?」早速男が一人、レベーカに話しかけた。スキンヘッドで甘いマスク、柔らかな物腰はいかにも仕事ができそうだ。内心彼女は緊張していたが、それを悟られまいとした。

「良かったら一緒に飲みませんか」と彼は言った。

「ええ」レベーカは精いっぱいの笑顔で答えたが、頭の中ではここにディーンがいてくれたらと考えていた。

 それからは他愛のない話が続いた。どんな仕事をしているかとか休みの日は何をしているのかとかだ。相手は残念ながら城の関係者ではなく、町の銀行員だった。キッシンジャーも会話に耳を傾けていたが、有益な情報は特に得られなかった。シドはというと、男色の男性に気に入られ、おもちゃのようにかわいがられただけで終わった。


「収穫はあるか?」キッシンジャーがへとへとのシドに聞いた。聞くまでもなかった。

「ないっす」顔にたくさんのキスマークを付けたシドが言った。

翌朝は朝食を食べた後、呪文の練習を再開した。

「二人にはそれぞれ別の呪文を覚えてもらおうと思う」とキッシンジャーは二人に言った。

「「はい」」威勢よく二人は答える。

「じゃあ、早速その内容を説明する。儂の401頁を開け」






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 その日もディーンは朝から晩まで書類と格闘した。相変わらず論文の内容に目が行ってしまい、なかなか暗号にたどりつけない。



 次の日も、またその次も同じことのような繰り返しだった。


 朝、顔を洗っていると女中が豪華な朝食を持ってくる。それを食べ、歯を磨く。髭を剃る。服を動きやすいように気崩して着替え、机に向かう。昼にクッキーを食べ、センブリと庭を散歩する。そのあとコーヒーを飲みながら再度机に向かい、夕飯を食べながら鳩に餌をやり、風呂に入って寝る。


 そんな日々が一週間も続いた。


「難しいな」と彼はセンブリにこぼした。

「まあそうでしょう」と彼は何気なく答えた。

「一週間でできるなんて到底こちらも思っていませんから」

「どれくらいの見込みなんだ?」

「少なくとも半年ですかね」センブリは何でもないように答えた。ディーンはそれを聞いてびっくりした。

「そんなにもかかるのかい?」

「これはかつて、おそらくティム様や他の者にも解けなかった暗号かと思われます」とセンブリは相変わらず平坦な口調で言った。

「だからまあ、それくらいかかってもおかしくはないのです。本来ならば」

「そんなに難しいのか」

「ええ、でなければこんなに無理やりあなたを連れ去ることなどしませんからね」

「へええ、急に連れ去られてこっちはまあ楽しいですよ」ディーンは毒を吐いた。

「それは何よりです」センブリに嫌味は効かなかった。



 ディーンは翌朝まで、机に突っ伏したまま眠っていた。

「ああ」彼は女中がノックする音で目を覚ました。

「失礼します」と相手は言った。

「朝食をお持ちいたしました」

「ああ」彼は寝間着のままだったが、見られることに抵抗を感じなかった。

「置いておいて。食べるから。ありがとう」

「失礼します」女中は機械的にしゃべり、機械的に動いていた。


 ディーンはあくびをし、顔を洗って面倒くさそうに椅子に腰かけ、朝食を食べた。歯を磨いているとだんだん頭がさえてきた。暗号に取り組んでから早一週間以上たつが、何も利益が得られていなかった。


「ありがとう」ディーンは髭が生え始めていた。

「食べるか」大儀そうに身体を起こす。食べる気力がそれほどあったわけではないが、食べないわけにもいかなかった。しかし暗号の方はどうにもうまくいかない。さすが誰にも解けなかったと言われる暗号だ。


 彼は女中が皿の片づけに来たタイミングで、彼女に質問をした。


「今日もちょっと外に出たいんだけれど」

「外ですね」彼女はまたも機械的に答えた。

「かしこまりました、一時間後にセンブリ様をお連れします」彼女はにこりと笑った。




「私は忙しいのだ」とセンブリは大儀そうに言った。相変わらず平坦な口調に鉄面皮。ディーンはもうこの頃、彼のそんな態度に慣れきっていた。

「あなたは毎回僕についてくるんですか?」

「そう命令されいてる」

「忙しいですね」

「何、仕事のうちだ」彼は何でもないような口調で言った。


「ティム様に確認したところ、今日は一日羽を伸ばせとこのことだ。事実、私も休みなど無かったし、いい機会だ」

「センブリさんはいつ休んでいるんですか……? ワーカホリックすぎますよ」

「私の使命はティム様に仕えることだ。彼が休まない限り、私も休む気は毛頭ない」

「はあ」

 ディーンは半ば呆れ、半ば感心した。これほどまでに誰かに忠誠を尽くせる人生というのも案外悪くはないのかもしれない。

「支度はできているか?私は貴殿の行くところについて行くぞ」

「ただ街を見て散歩したいだけなんだ」とディーンは言った。

「よく考えたら僕、この町のこと何も知らないし、ここに来てからずっと城に缶詰めだったし」

「なるほど」センブリは一瞬考えた。

「ただしもちろん、保護呪文はかけさせてもらいますよ」

「はいはい」ディーンは予想していた答えが返ってきてため息をついた。

「逃げるわけないのに」


 この時まだ彼は、この世で一番愛している未来の伴侶に会えるなど、毛ほども考えていなかった。


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