3-2

「違います!血判状は命をかけますが、これはあなた方の命をかけたりは――」

「でも、名前を書くんだ。調べれば城の奴らが俺らを捕まえることだってできるじゃねえか」

「そうだ。違うっていうんなら説明しろよ!」

「ですから――」

「確かに金をみせるより強烈だな。庶民でも勝てるかもしれない。でも革命でも起こす気かい?」


 革命の言葉に名前を書こうとしていた男は完全に止まった。 馬上で悠々と構える男と、「なに?」と首を傾げるハルを見比べた。自信たっぷりの人間と、物の道理が分かっていなさそうな人間、どちらの言葉を信じるかなど考えるまでもなかった。


「お、王への抗議だけでよいのではないか、こんなものにしなくとも」


 ジャルジュが説明を引き継ごうと口を開く前に、男は慌てて一文字書いた名前を塗りつぶし、ペンをジャルジュに押し返した。


「そ、そうだ。仮にも、一国の王だ。実際に自分の国を売ったりしないだろう」

「そうだ、そうだ。ラオスキー侯爵だって悪い方じゃない。貴族の中では俺たちのことを考えてくれるよい方だ。もし国を手に入れたって悪いようにはなさるまい」

「そうだ、ニリュシード様だって、欲の皮は張っちゃいるが、俺らとおんなじ民の出だ。無茶はしねえだろ」

「王の気まぐれなんていつものことだ。慌てることなんてねえさ」

「そうだ。それに国売りのセドなんてあの宰相さまがいらっしゃるんだ。きっと止めてくださる」

「そうだそうだ」

「大丈夫だ。きっと大丈夫だ」


 浮ついた、乾いた笑いが一気に広がる。不安を笑顔で押しかくして、日常を求めて人々は笑いだす。これはまるで日々のどこにでもあるちょっと変わった事故だったとでもいうように、一気に人々が背を向けた。この場から一刻も早く去ることが自分の身を守ることだと言わんばかりに、一斉に人々が去っていく。


「だめです! 私、クニュー守ります。 みんなおねげーしま」


 ハルは去っていく人々の腕にとりすがった。しかし、一回伝播した恐怖は強かった。男も女も、ハルに触れられること自体が罪のようにハルの腕を振り払った。


「離してくれ、ねえ、何を買いに行こうか」

「私、まだ仕事の途中だったのよね、忙しいのよ」

「昼飯なんにする?」


 一人、二人、人々は日常に戻っていく。


「おねげーしま!」


 繰り返すハルの声は、かき消される。なかったものにされていく。その焦燥にハルの瞳が揺らめいた。ハルはきっと顔を上げ、噴水の縁に上った。足を一つ大きく踏み鳴らす。

 


「ばかやろー」

 噴水の縁の石が欠ける。

 異国訛りの大きな声が丸い広場の壁に反響した。

 手を振り払った若い男が振り返った。子どもを抱いた母親が見上げた。皺を刻んだ顔が、はりついた笑みを浮かべた顔が、かたく恋人と手を繋いだ不安げな顔が、ハルを見た。

 黙ったまま何かに耐えるようにハルの体は小刻みに震えていた。欠けた石が石畳の上で転がった。


「ちゃんと、見ろ! 聞け! 考えり!」

「考えろ、です」

「考え……ろ!」


 ワリュランスの耳打ちに、ハルは言い直した。迫力も勢いも帳消しだったがそれでも何人かは足を止めた。馬上の男はにやりと笑った。節くれだった手を伸ばすと、ハルの髪をぐしゃりと撫でた。


「なかなか、肝の据わったお嬢さんだ」

「なにをするのです!サイタリ族の伴侶に手を出すおつもりですか。誰に頼まれたのか知りませんが、そっちがそのつもりなら」


 ワリュランスは男の手を振り払った。


「別に通りがかっただけだ。悪気はないさ」


 男は降参と、両手をあげた。ハル、ワリュランス、ジャルジュ、タラシネ皇子と順々に見ると、その場を去っていった。

 男が去っても、人々はそうめんういろうに名前を書くことはなかった。失敗だった。


「ハル。大丈夫、大丈夫ですよ」」


 ワリュランスはぐすぐすと鼻を鳴らすハルを抱きしめた。


「一度、戻りましょう」

「ですが、期限が」


 徹夜して真っ赤な目の職員の言葉にジャルジュは黙って首を振った。この状況で粘ったところで時間の無駄だ。やり方を変えなければならない。見覚えのない男の去った方を見ると、ジャルジュは大量のそうめんういろうを籠につめた。


 ※ ※ ※


 タラシネ皇子とカーチスが宿に戻ると、バルドー農学博士が宿の前を行ったり来たりしていた。タラシネ皇子とカーチスは顔を見合わせた。バルドー博士はタラシネ皇子が怪しまれず国外に出るために利用した人物だ。今日は地元民たちからどんな作物をどんなふうに育てているのか聞き取っており、夕方まで戻らないはずだった。

「どうした、こんなところに立って」

「いきなり変な男が部屋に入り込んできて、研究中の資料を全部ばらまいたのです!隠していないか、とかわけわからないこと言ってきて」

 カーチスが声をかけるとバルドー博士は二人に駆け寄ってきた。その顔は怒りとおびえで高揚していた。


「それで、その男は?」

 カーチスは視線を周囲に走らせた。

「今も、部屋にいるはずです。目つきは悪いし、資料をばらまいて謝りもしないし、酔っぱらっているわけでもなさそうで」


 バルドーは心配そうに三階の窓を見上げた。


「店の者には?」

「いえ、まだ。あなた様は強引について来られましたけどね。私にだってそれくらい分かっています」


 バルドーは憤慨したように言った。遊学に出るバルドー博士に強引についてきた自覚のあるタラシネ皇子は苦笑した。


「それは助かった。カーチス」


 カーチスはいつでも剣が抜けるように体勢を整え、先頭に立った。一般客と如才なく挨拶を交わしながら階段を上る。そのあとにタラシネ皇子とバルドーが続く。

 二階の踊り場にくるとタラシネ皇子とカーチスは視線を交わす。ここまでくれば二階客から姿は見えない。剣を抜いた。そのまま階段を上がる。

 三階にあるのはタラシネ皇子たちが滞在する暁の間ともう一つだけ。そちらの部屋に人の気配がないのを確認し、カーチスは静かに扉を開けた。

 薄い煉瓦色の内装の部屋の床には、バルドー博士が集めた資料が散乱し、荷物も床にぶちまけられている。だが、この部屋で高価な金をかけられたガラス窓の装飾も壁にかかった名画もそのままだった。持ち出しやすい名工の作ったペンも机の上に変わらずあった。

 部屋の奥、バルコニーへと続く窓が開け放たれ、その窓際に男が一人外を向いて立っていた。


 バルドー博士が頷いた。

 カーチスは床に散らばった資料を踏んで音をたてないよう気を付けながら、男に近づいたカーチスは静かに剣を持ち上げた。とった、とカーチスが思った次の瞬間、


「ぐっ」カーチスの目の前に男の幅広の剣があった。

 カーチスは条件反射、振り上げた剣を防御のために動かした。 鈍い音とともに、男の剣とカーチスの剣がぶつかった。


「ご挨拶だな、カーチス。お久しぶりです」


 男はカーチスと競り合う剣ごしに、タラシネ皇子に目をやった。

「カーチス」

 タラシネ皇子は目を丸くし、カーチスを制止した。

「失礼いたしました」

 カーチスは男の呼吸に合わせ剣を引き、相手の装備が剣一本であることを確認し、一礼すると剣をおさめた。さっと場を開けた。


「いや、急だったからな。それにしてもマルドミに俺の顔を知らない宮廷人がいるとは思わなかった」


 タラシネ皇子と正対する形になった男もまた剣をおさめた。


「申し訳ないね、彼は従者の恰好をしているけれど、農学博士だから。宮廷のことには疎いのだよ」


 タラシネ皇子は部屋に入り、散乱した資料を拾い始めた。それを見てバルドー博士も動き出す。「あ、足跡が、破れている」などぼやきながら拾う博士に、男は目を細めた。


「どおりで何をきいても知らないの一辺倒だったはずだ。俺はてっきり皇子が裏切ったのかと思いましたよ。悪いな」


 男は「ほれ、この通り」と肩をすくめ一歩窓際によった。そうすると、タラシネ皇子の位置から、寝室として使っている隣室の様子が見えた。引き出しや戸棚は全て開けられ、床の上には着替えが散らばり、寝台の位置も変わっていた。見事な家探しだった。

 そんな部屋の惨状にもタラシネ皇子は顔色一つ変えなかった。


「へたに、事情を知っている人間を増やすと危険なのでね。疑いは晴れたかい?」

 さらりと言った。

 男は肩をすくめて返事にかえた。


「あのう、皇子、この人は誰ですか?」


 この場で唯一男を認識していないバルドー博士が恐る恐る口をはさんだ。彼にとっては、男は研究資料をめちゃくちゃにしたひどい人物である。


「ラブレヒト将軍と言えば分かるかな?」

「炎のラブレ!皇太子殿下の旗下で絶対の強さを誇る将軍が、えっとこんな……」


 研究一筋世俗のことに疎いバルドー博士は、マルドミ帝国の中でも有名な男の突然の登場に悲鳴をあげた。


「もっと格好いい男を想像していたのならすまないな。現実などそんなものだ」

「いえ、焼き畑農業をするにはその何もかもを焼き尽くして平然と立っていられる精神力の強さは勉強に値します」


 混乱するバルドー博士にタラシネ皇子は席を外すように言い、カーチスに部屋を整えるように命じると、ラブレヒト将軍をバルコニーに誘った。


「よい、街ですな。活気があり、人が行き交い、明るい」


 バルコニーの下の大通りでは露店が開かれていた。夜は酔客が行き交う通りも、今は老若男女が行き交う。賑やかな声が響き、時折外国語が混じっている。

 タラシネ皇子もラブレヒト将軍の横に並び、露店を見下ろした。


「そうだね。いい街だ。それにしても、まさかあなたが来るとはね」

 タラシネ皇子は手すりに肘をつき、慰みにと植えられている小さな植木鉢の葉を撫でた。

「あのようなものを送られては、動かざるをえないでしょう。困った方だ」

 ラブレヒト将軍は苦笑した。

「そうかな。だけど将軍も人が悪い。あんなふうにいきなり現れるなんて」

「久しぶり、でしたからな。すこし驚かせてみたくなったのです」

「あなたがやると、皆が怖がるから」

「窮屈なものですな」


 タラシネ皇子が何かを懐かしむように、呆れたように言えば、猛将と名高い将軍は軽く笑い飛ばした。


「整いました」


 カーチスの声に、タラシネ皇子は体を起こし、部屋の中へと踵を返す。


「行こうか」

「よい、街ですな」


 ラブレヒト将軍は街を見下ろした。

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