記憶の章

彼女の愛した炎

 その女性が生まれたのは、岩山の連なる土地。峡谷の狭間に、清らかな川を産湯の代わりとした。

 辺りは鹿や羊の類が豊かで、それらを狩って生きる血族だった。『深きところ』と呼ぶ小さなほら穴に、吹き溜まった葉などがあれば掃除する。それくらいが彼らの責務だ。


「父さん! 母さん! どこへ行ってしまったの!」


 まだ十二、三のころ。ある日突然に、両親は帰ってこなかった。

 その日は『深きところ』の掃除を一人で行って、終わったら狩りに加わる。そういう約束をしたのだ。

 いとこの姉は、体調が悪くて住処で伏せっていた。その親も、帰ってこなかった。


「戦争だよ。街に住む奴らが、あたしたちの親を殺した」


 数日して、姉は近隣で理由を聞いてきた。峡谷を抜けた先の騎馬民族。それを討伐する軍勢に、家族は殺されたのだと。

 姉はその国へ行くと言って出ていった。それきり帰ってこない。


「戦争は嫌。戦いは、大切な物を根こそぎ奪っていく――!」


 峡谷からは、獣も姿を消した。騎馬民族の蹴散らしていた魔物が、岩山にもやってきたからだ。

 身内でのケンカもしたことがない。狩りも音を立てて、追い込む役をしていただけ。闘う術を持たぬ女性は身を隠し、水を飲んで過ごした。

 やがて。

 体力が限界を迎えた。暑いとか寒いとか、お腹が空いたとか。そんなことも分からなくなった。


「みんなでまた、おいしい食事をしたかったな……」


 それが最期の言葉。と、なる筈だった。

 ――気持ちいい。なんて清々しいんだろう。

 ぽかぽかと暖かく。時折、涼しい風が頰を撫でる。そんなところで、女性は目を覚ました。

 目を閉じる前。とても眠くて、このまま死ぬのだという感覚はあった。それが怖いとか思う感情さえ失っていたのだ。

 ではここは、あの世という場所だろうか。

 身体を起こすと、下敷きにしていた若葉が柔らかく起き上がる。潰れてはいないようだ。

 葉の産毛が、手のひらにくすぐったい。死してもそんな風に感じるのね、と女性は思う。


「あなたは誰?」


 とても広い空間だった。ただし天井がある。高い高い山よりも、まだ上のほうに。

 太陽が輝いていて。そこから視線を下ろすと、とても美しい『誰か』が座っていた。長い布を巻き付けて、長い脚を草に投げ出して。

 長い髪は常に光り、何色とも言い難い。きっと人間ではないのだろう。直感的にそう思う。


「アマルティア?」


 高原を抜ける風が、笛を鳴らしたような声で『誰か』は名乗った。

 女性も名乗れと言われて、困る。

 名前というものは分かる。獣にも種類があって、それを呼び分けるのが名前だ。

 父とその兄は、互いを「兄」「弟」と呼んでいた。姉のことは「兄の娘」、女性のことは「弟の娘」と。

 そう話すと、『誰か』は名前を付けようと言った。

 ここに人間は、その女性しか居ない。だからと「人間」と呼べば、父のことか母のことか、自身のことか。区別がつかないから。


「アガーテ……それが、名前。自分だけを示す、特別なもの?」


 アガーテは、『誰か』と共に暮らすようになった。『誰か』は付近に棲む獣を狩り、木の実を採って与えてくれる。

 だが肉を焼こうと、『誰か』の出した火をアガーテは怖れた。


「火は怖い。戦場を見に行ったもの。みんな燃やされて。家も馬も人も、見分けがつかない炭になってしまうもの」


 それは違う。『誰か』は教えてくれた。

 火は、土を肥やす。風を起こす。木や金属から道具を作れる。肉を焼けばうまい。

 火と水をうまく使えば、人に限らず豊かに生きられるのだと。ただし自分は、水を扱うのが少々苦手だとも。

 すぐには無理だったが、アガーテはじきに火を扱えるようになった。しかし『誰か』の代わりに、水を汲むほうが好きだった。


「あなたはここで、何をしているの?」


 『誰か』は、待っていると答えた。何をかは分からない。それが決まりなのだと。

 目と耳を遠くに向け、願う気持ちを感じ取る。それでアガーテを見つけたのも聞いた。

 毎日、毎日。『誰か』はこの場に居ない人間と話していた。

 アガーテのように、ここまで連れてこられた者は居ない。ほとんどは『誰か』のほうが、つまらない願いだったと聞くのをやめてしまう。


「何がつまらないの?」


 その問いに、『誰か』は自身の好みだと答えた。

 その者自身が何かをしたいと願って、排除できない困難があるのなら手伝う気にもなる。その為に何をするでなく、ただ富が欲しいとか言われても困ると。

 全ては順番なのだ。

 喩えば世界一の絵を描きたくて、絵の具を買う銭がないのなら。儲かる手段を与えてやりたい。そういうことだ。

 アガーテはその話に、とても共感した。けれども気になることもある。


「自分でどうにかしたくても、健康な身体に生まれなかったとか。最初から諦めてしまう人も居るわ」


 それは気付かなかった。そう『誰か』は感心し、アガーテの両手に光を落とす。

 何をしたのか聞くと、やり直す為の力だと答えがあった。言うように身体に不便があるのなら、治してやれる力だと。

 アガーテはその力を、傷付いた獣たちに使った。『誰か』と二人、食う為に必要な以外は死んでほしくない。


「この力は、人間にも効くのよね」


 人の世界に争いが絶えないことは、『誰か』から聞いていた。するともちろん、怪我人も絶えないことになる。

 戦争の当事者たちはともかく、巻き添えになった人々。それを救う為に赴きたいと、アガーテは言った。

 『誰か』は止めない。

 いま最も願いを聞き、手伝ってやりたい相手はアガーテなのだから。そう告げて、アガーテを人間の町近くへ送り出した。

 彼女が『誰か』と出逢った日から数えれば、十年ほども経って後のことだ。だのにアガーテは、その日と変わらぬ十二、三の歳に見える。


「病気や怪我に困っている人を、助けてあげなくちゃ。そうすれば願いごとをする元気だって戻る筈だもの」


 その町が聖地と呼ばれるのは、数十年も後の話だ。

 

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