それは遠い炎の記憶

須能 雪羽

第一章:向かうは魔神の爪痕

1:向かうは魔神の爪痕(1)

「門を開けよ! アマルティアの導きの下に!」


 四階建てよりも高い壁が、街を囲む。聖地トロフの市壁しへきは、内にも外にも軍勢が見えた。


「なんだ、あの声は?」

「イセロス会の司教さ」


 内側に構える、アリシア会の軍勢。それを遠巻きにする民衆の中にクレフは居た。

 ――うすぼんやりした顔で、うすぼんやりしたこと言ってんじゃねぇ。

 問うたクレフは、答えた男にそう思う。

 特に険悪な相手ではない。端から信頼したことがないし、友好的になろうと考えてもいないだけだ。


「そんなのは、子どもにだって分かるだろうよ。あれがどんな魔法の言葉で、どうやって門が開くのかって聞いてんだよ」


 男は童顔で、クレフは痩せているせいか老けて見られる。ここ最近、三十より若く見られた経験はなかった。

 共通しているのは、街を歩けばよく居る感じの風体ということ。首飾り一つない、薄いチュニックだけの服装も含めて。

 無精と呼ぶには伸びすぎな感もある髭が、クレフの頬から顎にある。だがそれは一市民には普通で、やけにこざっぱりとした相手の男のほうがおかしいのだ。


「騎士が一人、捕虜になってるらしいよ」

「どこの騎士だ」

「砦じゃないの?」


 曖昧な返事だが、そうであろうとクレフも考えてはいた。

 敵軍は昨日の夕刻に壁の外へと辿り着き、今朝の開戦と共にあの要求を始めたらしい。

 間抜けな密偵が捕まったとか言うのでなければ、侵攻経路にある砦の守備隊と考えるのが妥当だ。

 そしてその予測が正しければ、捕まっている騎士とやらは教会の聖騎士ではない。この国の王に仕える騎士だ。


「トロフの同士たちよ、どうか私を殺しっ……!」


 開門を迫るのとは別の叫びがあった。太い声だが、枯れている。拷問を受けたのだ。

 声は途中で不自然に途切れ、微かに殴打の音が響いた。


「どうなってんだ?」

「杭に縛られてるんだと」

「杭に、ね」


 どんな巨人を通すつもりか、と思うような高い門。閉ざされているその向こうに、きっとその光景はある。

 太い杭に縛り付けられた騎士は鎧を剥がされ、既に大小の切り傷や火傷が数えきれないのだ。そこへあの殴打によって、腕や脚を折られているだろう。

 敵はあの要求で、本当に門が開くとは思っていない。争う相手の兵を殺せば、祝福される。慈母神アマルティアの教義に、そうあるからだ。

 こちらの軍勢も民衆も、敵軍へ祝福があることに焦りを覚える。さらに教義では、味方を傷付けるのは極悪であるともされた。

 そうやって見せしめにする為であれば、杭ではなくとも何かに縛り付けるしかない。

 ――どいつもこいつも、馬鹿の一つ覚えみてぇに……。

 分かってはいても込み上げてくる怖気を、クレフは必死に抑えた。


「反吐が出るぜ――」

「ん、あっ。おいクレフ!」


 ぎりぎりと音がするほどに拳を握り、奥歯を噛んで耐えていた、つもりだった。男の声が遠くなっているのに気付いたときには、走り出していた。

 門の手前に待機する聖騎士団が二千人ほど。その後ろに王国騎士団が千人ほど。そちらへ行っては、ただ取り押さえられるだけだ。走る向きも、無意識に避けるほうへ。

 石造りの壁に組まれた足場へ手をかけ、壁を蹴り、くるりとひと息で上の足場へ。梯子やスロープなど使わずに上っていく。

 弓手や指揮する騎士も、ほとんどが通り過ぎたことにさえ気付かない。

 こうしてやろうと、何か考えてはいなかった。強いて言えばずっと「クソッ、クソッ!」と呪い続けていた。

 最も高い足場に着いて、空いている矢狭間やざまから外を覗く。


「クソ外道どもが」


 想像した通りの景色が、そこにあった。騎士や兵士の数は、内より外のほうが多い。それ以外に、聖職者の法服を着た一団が百人ほど。柄の長いメイスを握って、立てられた杭の周りへ陣取っている。

 縛られた騎士は大柄で、頑丈そうな男だ。肌の見える部分はどこも鬱血して赤黒く、人相も元がどうだか分からない。

 すぐ傍に立っている老人が、司教だろう。手にしたメイスには血が滴って、どうやら手ずから騎士を痛めつけているらしい。

 ――ジジイが何をはしゃいでやがる。

 気の遠くなるような思いがして、目を逸らした。眉間を押さえて正気を戻すと、左右に素早く視線を走らせる。目標を捉えて、今度は自分の脚を。

 手入れの良さそうな長弓を持った兵士が居た。弓に矢を添えてはいるが、筈は外している。

 固唾を呑んで見守っている、という風なその兵から弓を奪った。

 一瞬、上司に何か咎められたとでも思ったのか、弓兵は怯えた表情を見せる。だが弓を奪ったのが、誰とも知れぬ男と気付いて声をあげた。


「何者だ!」


 もちろんそんな問いに答える義理はない。クレフは足場を一つ下に飛び降りて、空いている矢狭間を探す。

 足場は常人の肩幅よりも狭く、上下が平行になっている。直接に上下移動を行うのは、なかなかの軽業が要求された。


「ふう――」


 矢狭間に取り付き、息を吐く。落ち着いている暇はないが、呼吸を整えなければたるものも中らない。

 目標までは、この長弓で届くのがやっとというくらいの距離がある。それを腕前でどうにかしなければならなかった。

 ――弓は流れだ。吸って吐く、呼吸を静かな大河のように。打って止まる胸の鼓動を、太鼓のリズムに。

 自分の身体を、支配しようとしてはならない。クレフは弓の師である父から、そう教わっている。

 弦を引き絞り、呼吸と鼓動が穏やかになるタイミング。吸った息を吐き出し始める瞬間、そっと弦を離す。

 宙に矢の奔る道が、色を持って見えた。真っ黒な墨を引いたようなそれは、縛られた騎士の喉へ直線に。

 その通り、矢は哀れな騎士の喉を割く。その衝撃のせいだったかもしれないが、彼は顔を少し上げて口を動かした。

 何と言ったのか、声は聞こえない。だがクレフには、ありがとうと聞こえた気がする。

 それから一拍ほども要しなかっただろう。地上に降りようと振り返った視界が、銀色に覆われた。


「なっ――女!?」


 うなじが丸見えになるほど短く刈られた銀髪の女性。法服を着た彼女がクレフの喉元と腰の辺りを掴み、狭い足場に引き倒す。


「捕りました」


 彼女の口から落ちたその平坦な声が、とても寒かった。

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