第10話 瞑想(2)

ようやくこの建物の中を見回す余裕が生まれた。

落としめの照明の中にソファやテーブルなど品のよい調度品。

棚には無数の酒瓶。

バーカウンターの上の方には輝くグラスの山。

ステンレスのシェイカー。

少年はここが酒場であることを知った。

ふらつきながらカウンターまで辿り着いた。

「はい。どーぞー」

「!?」

いきなりおしぼりを差し出された。

「遠慮しないで使ってくださいね~~」

「え?」

「こことここ、血が出ていますよぉ~」

彼女の白い人差し指が彼の額と口の端を指差した。

少年はびっくりして汗が流れ落ちる額に手をあてた。

ぬぐってみると結構な量の血が出ているようで、手が真っ赤に染まってしまった。

「止血するほどの量ではないでしょうが、そんな顔では表を歩けませんわよ~」

少年はひったくるようにおしぼりを奪い取った。

言われるままに額にあてがった。

冷たくて気持ちよかった。

頭に逆流していた血が冷やされていく気がした。

「どうぞ、お掛けになってぇください~。今ちょうど、お客さんが途切れた暇な時間なのでゆっくり休んでいってくださいね~」

そう言うと彼女はお冷やを入れたグラスを差し出し、何やら準備を始めた。

少年は無言で椅子に座った。

正確にいうと座ってしまった。

静かな口調。

そんなに大きくない、それでいて低くもない声。

語尾が伸びている少し舌っ足らずなしゃべり方。

彼女の言葉には奇妙な強制力があるように逆らえなかった。

深く呼吸を数回し、気持ちが落ち着いてきた。

あれだけ走り回り、心臓の鼓動は早鐘のようになっていたのに今はゆっくりと脈打っていた。

その音しか聞こえないような静寂が続いていた。

何だかこの店の中は時間がゆっくりと流れているような気さえしてきた。

どこからも切り離されているような、誰にも見つからない隠れ家のようなそんな雰囲気だった。

さっきまで警官に追いかけられていたことも忘れ、少年はただ彼女の動作を見守っていた。

アルコールランプに火をつけ、サイフォンでコーヒーを入れていた。

コポコポコポ……

香ばしい香りがあたりに漂っていた。

白いカップに入れられ、程なく彼の目の前に差し出された。

「はい」

「おい、あんた」

目だけをギラギラさせて、怪訝そうな顔で少年はその女性を見つめていた。

「はーいー?」

それ以上は言葉に詰まってしまった。

本当は『こんな状態の俺を見て驚かないのか?何をしてきたか聞かないのか?』と言いたかったはずなのに。

彼女の大きい翡翠色の瞳にすべてを見透かされてしまった気がした。

ケンカをしていたことも、それを通報されてしまったことも、警官を殴ってしまったことも。

「聞きませんよ。だいたい予想がつきますしね~」

「そんなの見りゃわかるか」

「いいじゃありませんか過去のことはぁ~」

優しい声でそう言うと使ったサイフォンを片付け始めた。

「………」

「熱いうちにどうぞぉ~」

少年の硬かった表情が少しずつ変わってきた。

「いや、でも、俺…」

勧められたが、断りたかった。払えるお金を持っていなかったからだ。

「初めに言ったでしょう、休んでいってくださいって~。私の気持ちですぅ~」

「こんな見ず知らずのヤツに?」

「そんなに悪い子に見えませんしね。見ず知らずじゃありませんよ~。もうさっきから知っているじゃありませんか?」

「俺、名前も言ってない」

擦り傷だらけのコブシをギュッと握りしめた。

彼女の言葉を聞いて素直になっていく自分を自覚していた。

彼女は目を少し見開くと、また微笑んだ。

「くすっ。名乗ったからといって知り合ったことにはなりませんわよ~」

そこにいる人の名前などどうでもいい。

そこにいる人をあるがままに受け入れること。

知り合うとはそういうものだと彼女は言った。

「ぷ、あはははは!」

思わず吹きだしてしまった。

自分のことを叱らず、怒らず、煙たがらずに「悪い子」じゃないと言ってくれた彼女の言葉を信じたのだ。

本心で言っているのだと。

真顔でそういう彼女の顔が可笑しかった。

心がふわっと温かくなった。

「さ、どうぞ〜」

「いただきます!」

ようやく少年に年相応らしい笑顔が戻った。

カップを持つと、ふうっと一息かけてコーヒーを一口飲んでみた。

きちっとサイフォンで淹れたコーヒーを飲むのは初めての経験だった。

さわやかな苦みが口の中に広がった。

大人の味だった。

それでも美味しくてあっという間に飲み干してしまった。

長い長いため息をつくと少年は白いカップをソーサーの上に戻した。

カツン…と陶器同士の触れ合う音がした。

「…あの、」

「は~い~?」

「また、ここに来てもいいですか?」

「ええ、どうぞ~。大歓迎ですわ~」

「すいません。ありがとうございます」

少年はペコッと頭を下げた。

「今度来る時は『テルミヌス』っていう名前を頼りにいらっしゃいね~」

「『テルミヌス』?」

「この店の名前ですわ~」

さすがに厚かましい質問だと思ったのか、(どんな意味なんですか?)とは聞くことができなかった。

「あ、はい。…あの……」

「私のことはリリスと呼んでくださいね~」

(リリス……)

その名を聞いて少年はどこか懐かしい想いに駆られずにはいられなかった。

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