第五十三話 ハイジ、犬と離れる

「うーん……これはちょっとまずいよなー」


 四月。後ろ髪を引かれる思いでタロを本井浜に残し、大学近くのアパートで一人暮らしを始めた。でも大学に通いだして早々に、予想もしてなかった壁にぶち当たっちゃった。


 たぶん。多くの大学生は、入学した直後に感じるおおらかで自由な雰囲気に触れて、高校までの堅苦しい世界からの解放を強く意識するんだろう。押し付けられる形ではなく選び取る形のカリキュラムが設定されていて、わたしたちは全ての時間を自由に取捨選択できる。大学では、約束されてるみたいに緩みが醸成されるんだ。

 周りの学生たちは瞬く間にその緩さに慣れ、持て余すくらいの時間を学問とは別の領域に注ぎ込むようになる。ある人はサークル活動に、ある人は趣味に、ある人は遊興に、ある人は恋人探しに。それが大学生活だと広く認知されているのなら、きっと事実そうなんだろう。

 でも、高校の時とにかく忙しかったわたしは、大学での時の流れがゆったりしすぎていてどうしてもなじめなかった。

 

 わたしが高校生活を過ごした本井浜はど田舎だ。確かに何もかもがのんびりしているけれど、何もしていないからのんびりなわけじゃない。生きるための営みは、都会よりもずっと厳しい。のんびりに見えるとすれば、営みの間隙に流れている時間が穏やかだからだ。だけど大学では時間の緩さばかりが目について、営みが何かよくわからない。わたしは、どこにどれくらいの意欲と時間を注いでいいのか見当がつかなかったんだ。


 わたしのやる気は滑稽なくらい空回りした。その姿が、やたらに空吹かしする痛車いたしゃみたいに見えたんだろう。誰からも敬遠されたわたしは、生まれて初めて深刻なぼっち状態を経験することになったんだ。ホームシックによる孤独感ではなく、わたしと価値共有できる人が誰もいないっていう孤立感。それは……めちゃくちゃ辛かった。

 なにより大ショックだったのは、一般入試で同じ広大に入ったマリの即時離脱だった。


「ここは、わたしに合わない」


 ものすごくドライでシニカルなマリは、わたし以上に強い違和感を覚えたんだろう。感覚のずれを一瞬たりとも放置しなかった。さっと大学をやめちゃったんだ。


「わたしに合うところをもう一度探し直す。じゃあね」


 マリの即断即決がうらやましかったけど、わたしにはやめるという選択ができなかった。理由は二つ。

 一つは推薦を受けて入学しているということ。わたしがあっさりリタイアすると、乙野高校はもう推薦枠をもらえなくなるだろう。それは、すごくお世話になった高校に後ろ足で砂をかけることになる。推薦での入学は、受験のプレッシャー回避には有効だけど、弊害もあるってことか……。

 もう一つは、リトライに要する時間がもったいなかったこと。浪人してもっといいところ、自分に合った大学を受け直すっていうのは、聞こえはいいけど遠回りだ。合格が確約されているわけでも、入り直したところが絶対いいという保証もない。タロのことがあるから、親からの援助も期待できない。やめるという選択肢は、学生からの離陸を急いでいるわたしには選びようがなかったんだ。


 マリは、自分を変えずにフィットさせられる場所を探しに行った。でもわたしは、どうしても今の環境に自分をフィットさせなければならなかった。抱えている違和感が外に漏れ出しちゃう分、それに気づいた他の子との距離がどんどん開いてしまう。なんだよ、こいつ偉そうに……みんなにそう思われていたんだろう。

 わたしは、自分と他の子の優劣を比べるつもりなんかこれっぽっちもなかったよ。高校の部活みたいに、向上心をフルに活かせる環境が欲しかっただけなの。でも、それを誰も理解してくれなかった。何一人で力んでんだ。バカっちゃうか? 冷ややかな視線がいつも無遠慮に注がれて、どうしようもなく辛かった。


 大学生活からこぼれ落ちそうになったわたしが危機を乗り切れたのは、ひとえにタロのサポートがあったからだ。わたしは、週末やまとまった休みの時に必ずタロの待つ本井浜に帰った。前倒しで夫婦としての生活をスタートさせ、タロとの蜜月を満喫したんだ。お帰り、お疲れさんといって出迎えてくれるタロの嬉しそうな顔を見た途端に、それまでの辛い気持ちが一瞬で吹き飛ぶの。タロの胸に飛び込めば。ぎゅっと抱きしめられれば。いつでも新しい自分にリセットできた。


 高校生のうちは厳しかった周囲の目も、わたしの卒業と同時にぐるりと反転した。杉田先生が言った通りで、わたしは大学生ではなくタロの奥さんという風に認知されたから。

 のりちゃん、はようこっちに戻ってきぃ。みんな待っとるけん。タロとべたついている間、出会う人たちの誰もがわたしにそう声をかけた。だから……独りじゃないって思えたから、大学での寂しさをなんとか乗り切れたんだと思う。


 それでも、わたしの向学心は少しずつ寂しさによって蝕まれていった。勉強したくないんじゃなくて、勉強する意味を見失っていったんだ。わたしもまた、あれほど嫌っていた緩さの渦に巻き込まれてしまったことを……認めざるを得ない。

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