第五十話 ハイジ、犬に好きと言われる

 年が明けて。センター試験が終われば、わたしの高校生活はほぼ終わりだった。杉田先生が広大への推薦をトップで出してくれて、もう合格の内定をもらっていたから。


「勉強にもしっかり取り組んでいた。部活の長も一生懸命こなした。研究テーマも、他の部員よりスケールが大きく、面倒な調査をきちんとこなした。満点だよ。これで落とすような大学なら、最初から行かん方がいい」


 なんか、こそばゆいような褒められ方だったけど。すごく嬉しかった。ただ、一般入試組の合否が決まるまでは手放しでは喜べなかったんだ。自由登校になってたから、一度実家に帰って合格報告をし、お祝いをしてもらった。両親は、呉に近い大学になったという安心感もあったのかすごく機嫌がよかった。冷戦状態だったお父さんとの関係も、いくらか改善したと思う。


 他の受験生より少しだけ早く緊張から解放されて。ものすごく忙しかった高校生活の最後が、まるでエアポケットに落ちたかのような自由空間になってしまったことに戸惑いながら。本井浜に戻ったわたしは、淡々と部の引き継ぎをこなした。

 後任の部長は片岡くんというとてもやり手の子で、筋にこだわる水谷先輩、実務型のわたしとはまたタイプが違う。彼なりに、新しい生物部を駆動していってくれるだろう。杉田先生も、あまり心配してないみたいだ。


 生物室での打ち合わせが終わって片岡くんが帰ったあと、残っていた杉田先生に声をかけられた。


「拝路さんにはいろいろ迷惑をかけたな」


 三年間でめっきり老け込んでしまった杉田先生に、いえいえ迷惑をかけたのはわたしですと返したかったけど。そこは微笑で塞いだ。


「授業では習えない勉強を、いっぱいさせてもらいました」

「そう思ってくれると、とても嬉しい」


 怒ると怖い杉田先生も、普段はめったに怒らない。その分、心労が溜まってしまうんだろうな。ストレスですぐ胃が痛くなっちゃうわたしと、どこか似ているような気がした。


「もう高校生も終わりって頃に、やっと気づくんですよね」

「うん? 何にだ?」

「いや……先生も人間なんだなって。わたしたちとは全然違うイキモノみたいに感じてたけど」

「拝路さんのように考えてくれる子は、むしろ希少だよ。今は、子供たちファーストだ。俺らの方が人間扱いされてない」

「ええー?」


 杉田先生が、椅子を鳴らして横を向いた。わたしもつられて外に目を向ける。窓の外に広がる薄緑色の海面を、二人で見渡す。


子供ラーヴァは、黙っていても肉体的、精神的に成熟し、大人アダルトに育つ。それはどんな生物にも共通の現象で、成長グロウスと称される。成長は、単なる一プロセスさ」

「……」

「それなのに人間は、成長ってものに過度の期待をする」

「過度の期待、かあ」

「そう。人間が期待する成長ってのは、社会性の向上。群れで動く動物が、群れを維持するために獲得する後天的な性質だよ」


 なるほど……。


「俺ら教師は、その成長の理想形のように思われている。先生っていう呼び方からしてそう。先に生きるだからな」

「はい」

「でも、教えるということに特化しているだけで、中身は君らと変わらんよ」

「そうなんですか?」

「もちろんさ。だから君らが反発するんだ。同じ人間のくせしやがって偉そうに……ってね」


 寂しそうに笑った杉田先生は、一度わたしに視線を戻した。それからまた海に目を向ける。


「共感や反発の交差は、必ず双方向だ。そして感情の交差が自分対大勢に……アンバランスになる。君らは卒業後、嫌でもそれを実感するようになる」

「自分対大勢かあ」

「それが、俺ら教師と学生の違いだよ」


 先生が教壇を指差した。


「俺があそこにいる限り、視線は必ず四十対一になるだろ?」

「あっ」

「そういうこと。学生のうちは教師や親がフィルターや調整者になって、悪意の流入を制限してる。だからなかなかアンバランスが実感できない。でも社会に出ると、自分が他者に向けた感情の千倍万倍の感情が突きつけられるんだよ。事実としてね」

「そっか……」

「長をやってくれた拝路さんなら、よくわかるだろ」

「はい!」


 ぴったり納得できた。水谷先輩に対する反感。一年生が自分に向けた反感。同じだけど、わたしが向けた反感は先輩一人に対してだけ。でも、わたしが副部長の時に受け続けたのは大勢の反感。しんどさの桁が全然違う。


 ふっと振り返った先生が、目を細めた。


「一人と一人。それが一番楽で、一番確かなんだ。想いが一人以上には絶対ならないからね。でも、そこで反感や共感がアンバランスになったら、一番復旧しにくい。それが夫婦っていうものだと思うよ」


 思わずうるっと来た。そう言えば、先生たちの中で最初から最後までタロとのことをがちゃがちゃ言わなかったのは杉田先生だけだ。だからわたしは、いろいろあった高校生活をなんとか乗り切れたのかなと思う。


「がんばります」

「ここから先は、もう二度と先生と生徒という立場では物が言えないんだ。今のが、俺の教師としての最後のどやしだと思ってくれ」

「はい!」


◇ ◇ ◇


「あとは卒業式だけかあ」

「まだまだあると思っていたが、あっと言う間だったな」

「うん」


 タロの荷物を大野さんの家からおばあちゃんちに戻して。わたしは自分の荷物を実家に送り返した。これから、わたしもタロも未知の世界に挑む。杉田先生に言われたみたいに、夫婦になるならタロに逃げ込むこともタロから逃げることもできない。その覚悟を……しよう。仏壇の前で手を合わせていたタロに聞く。


「ねえ、タロ」

「うん?」

「ほんとに、わたしでよかったの?」


 タロが、あのおいしそうな顔でふわっと笑った。


「もちろん」

「わたしも、タロじゃないとだめ。きっと、それが好きってことなんだと思う」


 ちょっと考え込む風だったタロが、わたしの左手を握りながらぼそっと言った。


「ノリじゃないとだめだということを『好き』というのなら、俺はノリが好きだよ」


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