第四十九話 ハイジ、犬との出会いを顧みる

 学園祭前日。講堂の壁全面に張り出された生物部の研究発表ポスターの最終チェックを済ませて、ほっと一息つく。去年は最後までばたばたで、準備作業を楽しむ余裕なんかまるっきりなかったな。今年は仕事を副さんに振り分けられたから、すごく楽だった。副部長と部長……しんどい役を立て続けにやって、損したかなあと思ったけど。ずいぶん勉強になった。

 三年の間にすっかり白髪の増えちゃった杉田先生に、迷惑ばっかかけて申し訳ないと謝りながら。それでも、先生にはいっぱい助けてもらって嬉しかったと思い返しながら。去年よりずっと充実したポスターを、じっくり見回した。


 自分のポスターをもう一度チェックする。わたしは、三年かけて調べた本井浜周辺の迷魚のデータをまとめて、他の部員の倍以上ある巨大ポスターに仕立てた。外洋に比べれば圧倒的に少ないはずの瀬戸内海の迷魚が、意外に多く存在すること。それは海流に乗って流れ込むものばかりではなく、船のバラスト水に紛れていたり、廃棄された飼育魚が生き残ったり、いろんな侵入ルートがあるってことを示唆しているんだ。

 横浜生まれで横浜育ちのわたしも、本井浜では迷魚だったはずなんだよね。でも、わたしの中ではここが故郷だ。なんか不思議だなあと思いながら、自分のポスターを見上げる。


「あっと。そう言えば」


 ふと思った。タロが神家を出たあと、その御座には誰が座ったんだろう?


◇ ◇ ◇


 神家を出てしまったタロにはきっとわかんないんだろうけど、二人で模擬店のクレープを食べてる時にこそっと聞いてみた。


「ねえ、タロ」

「うん?」

「タロの後釜って決まったんだろか?」

「決まった」

「え? 知ってるの?」

「匂いでわかる」


 うわ……。そうか。エバ先生のコロンをあれほど嫌がってたってことは、イヌザメとしての嗅覚が今でもキープされてるってことなんだろう。すごいなー。


「だ、だれ?」

「犬の舌だ」


 イヌノシタ。シタビラメの仲間だよね。なんか……めっちゃひょうきんそう。てか、タロだけが異様にシャープだったのかも。神家に棲んでる変な神様たちの中に、新しい神様はどんな感じで納まるのかな。想像して、ちょっとだけ笑っちゃった。


「よう、お二人さん」


 ぽんと頭上に声が降ってきて、慌てて顔を上げた。


「あ、福西先生」

「胃の方はどう?」

「今のところは。あとは受験のプレッシャーに負けないようにするだけですー」

「学園祭が終われば部の仕事もピークを越すし。これからは勉強に専念だね」

「はい!」


 とか先生と話をしていたら。珍しく、タロが福ちゃんをじっと見てる。


「タロ、どしたの?」


 でも。タロは何も言わずに、ふっと笑った。その瞬間、福ちゃんが真っ赤っかに茹だって。一目散に走り去った。


「な、なんだあ?」

「いや……いいことだなと」


 えー? 何がだろ。


◇ ◇ ◇


 高校最後の学園祭が、わたしの中で静かな、でも確かな余韻を残して終わった。それと同時に、タロがはっきり言わなかった「いいこと」の中身が、まるで水面に広がった音叉の波紋のようにあちこちからふわっと聞こえてきた。

 福ちゃんは、水試の研究員さんといい仲になったらしい。タロを落とすために水試に通い詰めたエバ先生は、結局タロにふられて坊主……成果なしに終わった。その間に福ちゃんは、こっそり大物をゲットしてたってことかあ。

 タロの話だと、福ちゃんの恋人はとてもエネルギッシュな人で、福ちゃんのあくの強さを全く気にしないらしい。まさに、一人一人ぴったりの幸せのカタチがあるってことなんだろう。


 最初の大恋愛が悲劇になってしまった福ちゃん。二度目の恋は、どんな色模様にするんだろうな。最初と同じ激しい恋になるんだろうか、それとも少し引いた穏やかな恋になるんだろうか。わからない。でも、どういう形でもいいから、福ちゃんが幸せになってくれる恋だといいな。心からそう祈る。


◇ ◇ ◇


「ううー、ざぶい」


 寮の個室や談話室には暖房が入ってるけど、廊下がめっちゃ寒い。てんぱってるわたしたち三年の集中を廊下を歩く下級生が妨げないように……そういう配慮らしい。でも、トイレが近くなってかなわんわ。


「あー、ハイジー」


 わたし同様にトイレに行こうとしてたのか、部屋からひょいと顔を出したクララが、通りがかったわたしをいきなり部屋に引きずり込んだ。


「ちょっと。なによー」

「いや、聞きたいことがあるんやけど」

「なにー?」

「カレと……ヤったん?」


 これだよ。思わずこめかみを押さえる。まあ……行くとこまで行ったと思ってる子は多いかもね。わたしは、でっかい溜息と苦笑をカクテルにしてゆっくり吐き出した。


「いやあ。論外だよ」

「へ?」

「わたしとタロの婚約ってのはめんどくさいの。恋愛パワーで行くとこまで行っちゃえなんていうマンガやラノベでの定番パターンは、銀河系外のハナシで」

「ふうん」

「そうだなあ。強いて言えば」

「うん」


 わくわく顔のクララに、でっかい謎をぶん投げておく。


「むかーしむかしなら、親が決めた許嫁いいなずけとか、そんな世界があったわけじゃん。会ったこともない相手っていうか」

「ほー」

「それに近いね」

「ハイジの親って、そんないいとこの人なん?」

「まーさーかー。こてこてのリーマンだよ」

「それなのに、親がフィアンセを押し付け?」

「押し付けたのは、親じゃないよ」


 タロと最初に神家で出会った時のことを思い出して、笑ってしまった。


「ふふ。それは神様の押し付けなの」


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