第四十四話 ハイジ、犬に支えられる
突然おばあちゃんを失った心の痛みが癒えないのに、すぐ次の嵐が襲ってきた。
わたしは、おばあちゃんの家に下宿してた。おばあちゃんが亡くなると、下宿っていう形では住めなくなる。他の下宿を探すか、寮に入らないとならない。タロとのことがなければ、親がそれをすぐに認めてくれただろう。でも、おばあちゃんという監視役がいなくなったことを気にした親が、わたしを引き上げにかかった。前からタロのことを快く思っていなかったお父さんが、強引に呉の高校への転校手続きを進めようとしたんだ。わたしには何も言わないで。勝手に。
もしそれが温和な説得だったら、おばあちゃんが亡くなったことで心が弱り切っていたわたしは、説得を受け入れたかもしれない。おばあちゃんと同居していたわたしには、おばあちゃんの異変に気付けなかったことが強い後悔と負い目になってたから。でも、お父さんの暴挙は逆効果だった。わたしが抱え込んでいた莫大な悲しさは、そっくりそのまま怒りに変わったんだ。
お父さんから乙野高校あてに送りつけられた転校関係の書類を、先生たちの目の前でげらげら笑いながら真っ二つに引き裂いた。
「バッカじゃないの!」
わたしは。これまでどんなに嫌な目にあっても、自分を押さえ込んできた。そのストレスで胃が痛くなることは何度もあったけど、誰かに向けて怒りを大爆発させたことはなかった。でも……今回だけは絶対に許せなかった。書類をちぎり捨てたわたしは、職員室の電話を借りてお父さんの会社に電話をかけた。お父さんが家に帰るまで待てなかったんだ。
「なんの説明もなしで、いきなりどういうことっ!?」
「一人でそっちに置くわけにはいかん!」
「あっ、そう。じゃあ、もう親子の縁を切るね。お金をわたしが調達して自力で生活すればそれでいいんでしょ? もう義務教育は終わってるんだから」
「おいっ!」
怒りで真っ赤に茹で上がっていたわたしは、受話器を叩きつけた。
◇ ◇ ◇
心の傷口がぱっくり開いたままなのに、お父さんがその傷に塩をすり込んだあげく、無神経に踏んづけたこと。どうしても、我慢できなかった。わたし一人しかいなくなった寂しいおばあちゃんの家で。おばあちゃんの遺影の前に倒れ伏して、ずっと泣き続けた。悔しくて。悔しくて悔しくてたまらなかった。
「おーい!」
夜になっても明かりが点かなくて真っ暗だったのが気になったんだろう。通りかかった児玉さんが玄関先で大きな声を出してる。出たくなかったけど……。よろよろと玄関先に出る。
「のりちゃん、どうした?」
わたしが悲しそうな顔じゃなくてふくれっ面だったのを見て、児玉さんは逆にほっとしたみたいだ。
「親がっ! 転校しろってっ!」
「ああ、なんだ、そんなことか」
え? わたしが唖然としてたら、児玉さんが乗ってたミニバイクのエンジンを切った。
「のりちゃんがしたければすればいいし、したくなければしなければいい。それだけでしょ」
「そうなんですか?」
「義務教育はもう終わってんだからさ」
自分が電話口でお父さんに向かって怒鳴ったこと。同じことなのに、児玉さんの口から出て来ると全く違った響きに聞こえた。
「なあ、のりちゃん」
「はい」
「太郎くんがここに来たばかりの時に、ホームレスの話をしたこと。覚えてる?」
「え……と。どんな、でしたっけ」
「ホームレスの人たちは、過去を無理やり切り捨てようとする。でも本当に切り捨ててしまうと、ものすごく苦労するっていう話」
「あ、はい。思い出しました」
「今ののりちゃんを、そこに重ね合わせてごらん」
「……」
おばあちゃんとここで一緒に暮らした『過去』。わたしは、その思い出を絶対に切り捨てることはない。わたしがここに残ろうが転校しようが切り捨てることはない。でも今の悲しい辛いっていう感情を早く片付けたいなら、過去は切り捨てるしかない。じゃあ、どうすればいい? そういうことなのかな。
感情の嵐が、すんと凪いだ。
「もうちょっと……考えてみます」
「そうして。まあ、俺から言わせてもらえば」
「はい」
「今から転校なんてナンセンスだよ。受験目の前なんだし、受験に有利だからこその乙野高校なんだからさ」
どす黒い雷雲で塞がれていた心の中が、児玉さんの助言でぱあっと晴れた。
「そうですよねっ!」
「まあ、高校の先生とも相談して、どうするか決めたらいいよ。親なんざもともと理不尽なものだからね」
ぱちんとウインクを残して、児玉さんがさっと帰っていった。入れ替わりで仕事から帰ってきたタロが走り寄ってきた。
「ノリ?」
「あ、タロ」
「ちょっと、いいか?」
「なに?」
おばあちゃんのお葬式が終わってからは、わたしはずっとはまや食堂でご飯を食べてた。タロもそうしてたんだ。だから、タロはうちに上がることがなかった。そして、今も。
「これから、どうするんだ?」
いきなり聞かれてぐっと詰まる。
「わたしは……乙野高校をちゃんと卒業したい。卒業まではここにいたい」
「そうか。わかった」
タロは、ふわっと笑った。それはきっと、安堵の笑いだったんじゃないかなと思う。わたしも、タロの優しい笑顔を見てここに残る決心を固めた。
「残りの高校生活で、将来のことをまじめに考えたい」
「ああ」
おばあちゃんがいる時には決してわたしに触れようとしなかったタロが。初めて両手を伸ばしてわたしの手を包み込んだ。
「これからは、俺が支える」
そう言って。
嬉しくて。どうしようもなく嬉しくて、涙腺が……爆発した。
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