第三十七話 ハイジ、犬の覚悟を知る

 一生に一度の高校の修学旅行。もちろん、すごく楽しみにしてた。でもわたしの頭の中は、タロから預かったものが何かでいっぱいだった。

 学園祭の時にタロに頼まれた時は、預けるものがなにかを説明するって言ってたんだ。でも、タロはそうしなかった。約束を破ることをものすごく嫌うタロが、わたしに言わなかったこと……いや、言えなかったこと。そして、出発の時にタロがわたしの見送りに来なかったこと。

 それは、預かったものがタロにとってものすごく大事だからだろう。わたしがわかっているのは、タロが三つの選択肢のうち二つを消すって言ったこと。それだけ。


 箱の中身と手紙を早く確認したいけど、わたし一人だけになれる時間がまるっきりない。修学旅行って言っても、海洋研究科のわたしたちには施設や調査船の見学ががっちり組み込まれていて、単独行動ができないんだ。自由行動日も一人でうろつくのはダメ。グループでってことになってる。泊まってるホテルも数人で一室だから、一人になれるのはトイレの個室くらいしかない。わたしの行動は周りの子に丸見えだから、トイレにすらこもれないんだ。


 三日目までまるっきりチャンスがなくて、わたしは胃が痛くなってきた。各務先生と水谷部長からダブル攻撃を食らった時みたいだ。その胃の痛みが亜熱帯水研の見学の時にピークに達して、わたしは倒れちゃった。


◇ ◇ ◇


「拝路さんは、ストレスが胃に来るねえ」

「は……い」

「まあ、みんなは今ここの職員さんから施設や研究の説明を受けてる。その間は座学だからゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます」


 水研の休憩室に布団を敷いて、そこで休ませてもらってる。福ちゃんが付き添いだ。やれやれって顔してる。


「私は会場に戻るから、このまま三十分くらい休んでて。ここは締め切っとくから」

「はい」


 ぱたんとドアが閉まって。潮と汗をたっぷり飲み込んでいる畳の匂いだけが体を包んだ。こんな形で時間が取れるとは思わなかったけど、チャンスは生かさないと。

 枕元に置いたバッグから、タロの手紙を出す。水試の茶封筒。中に四つ折りのコピー用紙が入ってて、几帳面な鉛筆書きの字が紙の裏に透けて見えた。タロが書いた文章を読むのは初めてだ。ラブレター開けるみたいで、すっごいどきどきする。


 かさっ。封筒から折りたたまれていた紙を引き抜いて、慎重に開いた。


『ノリへ


 出発の前に話をしたかったが、ぎりぎりまで俺が覚悟できなかった。約束を破って申し訳ない』


 やっぱりか……。


『神家を出た時、俺には三つの選択肢があった。一つ目はそのまま神家に戻ること。二つ目は神家の御座を明け渡してうおに戻ること。三つ目はそのいずれも放棄すること。


 小さな神として御座を守ることは、俺には辛い。そこにいる限り、永劫に独りだからだ。永らえることと引き換えに孤独に耐えるのはもう限界だ。

 魚に戻れば伴侶を探せるが、俺のようなものは神家の海にはいない。誰にも巡り会えぬうちに五年ほどの生を使い果たしてしまう。それでは己の意味がない。

 三つ目。俺はその三つ目を選ぶしかない。神として永らえることも、魚として短い一生を費やすことも望まないなら、俺には三つ目の選択肢しか選べないんだ。


 だから、俺は髪を切ることにした。生き物としての完全性を失うことで、俺は神でも魚でもなくなる。俺が何者になるのかわからないが、少なくとも御座には戻れなくなるし、戻るつもりもない。

 済まんが、切った髪を沖縄の海に流してほしい。そこには俺の仲間がいるはずだ。魚としての俺は仲間がいるところに還してやりたいんだ。不躾な頼みだが、どうか聞き届けてもらいたい。


 犬神家太郎』


 手紙には、わたしのことが一つも書かれていなかった。でも……全てを捨てて神家を出てくれたタロのことを、わたしはどれほど思いやってあげられただろう。辛い決断をタロだけに押し付けてしまったこと。その残酷さを思い知って、苦い涙がこぼれた。


 起き上がって窓の外を確認する。休憩室のすぐ近くに海岸が見えた。休憩室はもともと外作業の人用なんだろう。建物の中を通らなくても、直接海岸に出られるようになっていた。ずっと持ち歩いていた箱をバッグから出し、結わえてあった紐を解いて中身を確かめた。そこには、たぶんそうじゃないかなと思っていたものが入っていた。


「髪、だ」


 箱の中には、無造作に海藻で束ねられたタロの長い髪が収められていた。ぎりぎりまで決心がつかなくて、朝慌てて切ったんだろな。切り端がぎざぎざだ。


 そっと休憩室の外ドアを開け、裸足のまま海岸に降りる。

 瀬戸内よりもずっと青く暖かい沖縄の海。でも……海はどこかで区切られてるわけじゃない。一続きなんだ。わたしの謝罪と想いが、向こうで待っているタロに届きますように。願いをこめて、束ねた髪を波に預けた。


 ぱしゃん。小さな水音がして。髪がうねった。


「あ……」


 水を得た髪は一匹の魚になった。尾びれで軽くわたしの手を払いのけ、そのまますいすいと深みに潜っていく。


「あれが……イヌザメってことかあ」


 思わず手を合わせ、どんどんぼやけて行く魚影に向かってひたすら謝った。


「タロ。無理させちゃってごめんね」


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