第二十六話 ハイジ、犬に確かめる

 エバ先生のタロへのアプローチは、タロに嫌がられてるにも関わらずまだ続いてるみたい。すっごいもやもやするけど、余計な手出し口出しをしたら去年と同じどつぼにはまる。わたしは、あえて無視することにした。

 くらげが多くなってくると海に入っての調査がしずらくなるから、八月半ばまでは調査や勉強に集中して、雑音を強制的にカットした。その甲斐あって、自分で立てた調査計画を少し早めにクリアできた。


「よーし! 去年とは全然違うぞ!」


 黒部さんに言われたみたいに、自分のアタマと手を全力で動かさないと調べたっていう気がしないね。それを実感できて、すごく良かった。

 お盆前に学校に行って、まとまった分のデータを杉田先生に見てもらう。


「おお! よくがんばったな。基礎データはこれで十分だ。無理にデータを追加しないで、あとはこれから何が言えるかをしっかり考えて」

「はい!」


 よっしゃあ! 


「それにしても、迷魚って、すごくいろんな種類がいるんですね」

「まあな。移動距離の短い底魚なら珍しいけど、海流と一緒に動く回遊魚や藻つきの魚なら迷魚という言い方自体が不適切かもしれないね。どこまで到達できるかまで含めて、彼らの生き方になるっていうことだからな」

「そうかあ」

「温暖化絡みで、海洋生物の生息域が大きく揺れ動いてるのは事実なんだ。貴重な調査例になる」

「はい!」

「おっと、そうだ」


 レポート用紙から目を離した杉田先生が、きょろっとわたしを見た。


「はい?」

「去年拝路さんが太郎っていう人を助けた神家岩礁だけど、あそこも調査する予定だったんだろ?」

「そうです。でもわたしがトラブったから、データが取れなくて」

「あそこを漁場にしてる漁師さんがいる?」

「島の直近には行かないみたいですけど、周辺は小野さんがよく回ってます。わたしもそれで連れてってもらったので」

「拝路さんがかご網入れたのは、岩礁の根魚ねざかなを狙うためだろ?」

「はい。あとで小野さんに聞いたんですけど、思ったよりか入ってなかったみたい」

「餌を増やす緑がないのもあるのかな」

「あ、そうかあ。他の島だと草木があるんですね」

「そう。調べるテーマとしては、そういうのもおもしろいんだ。ただ……」


 杉田先生が、わたしから目をそらしてぐいっと腕を組んだ。


「学生が調査範囲に入れるなら、下調べしておかないとまずいかもな」

「え? 下調べ……ですか?」

「島や岩礁に神の字がついてるところには、いわく因縁つきってことがあるからね」


 げ……。


「神隠しとか祟りっていうオカルト要素には、現実もしっかり入ってる」

「現実、ですか」

「そう。潮の流れが複雑で溺死者が多かったり、水面下に潜んでる岩で船を損傷しやすかったり。そういう実際に水難事故が多発するところを、神の名前をつけて隔離することがあるんだ」

「知らなかった……」

「昔は今みたいに、なんでも科学や技術で解決するっていうわけには行かなかったからね。漁師が水域を分けて自衛するのは理にかなってるんだよ」


 ぽんとレポート用紙を返してくれた杉田先生が、一つアドバイスをくれた。


「神家岩礁の履歴。網干あぼしさんが知ってるかもしれないから、よく確かめておいて」

「古文の網干先生、ですね」

「そう。彼女はこの辺りの民間伝承に詳しいからね」

「わかりました!」


◇ ◇ ◇


 神家のことは、タロがもう詳しく教えてくれてる。でも、それは神家の『中』の情報なんだ。神家の『外』のことは、タロにはわかんないかもしれない。仕事が終わって水試から帰るタロを捕まえて、歩きながら話を振ってみたんだけど。タロはすぐに首を傾げた。


「俺はずっと神家の中にいたからなあ。龍神と社が失せてから人間が来なくなったことはわかるけど、それ以外の詳しいことは知らない」

「そっか。もちろん、龍神がいた時のこともわかんないよね」

「俺たちも怖くて近寄れなかったから」

「うん」


 タロは神家のことをなんでも知ってるのかと思ったけど。タロにとっては、あの狭い空間が全てだったのかもね。タロが今『楽しい』って言ってることの中身は、広がった世界そのものなのかもしれない。


 ぽてぽてとわたしの横を歩いていたタロが、ふっと苦笑した。


「どしたの?」

「いや、エバ先生って言ったか。彼女」

「うん」

「水試への出入りは、実質禁止になった」


 えっ!?


「どうして?」

「水試は、職員さんが調査、研究をするところだよ。約束なしでいきなり何度も来られると迷惑する」

「あー、エバ先生、そこらへんルーズそう」

「本人に直接言うのはかわいそうなので、所長が校長先生にそれとなく苦情を言ったらしい」

「来るなら、日時と要件をちゃんと知らせてくださいってことね」

「ああ。これであの臭いから解放される。助かる」


 なるほどなあ。タロにとっては、容姿やアプローチが全部すっ飛ぶくらいエバ先生の臭いが辛かったんだろう。エバ先生も、まさか自分の使ってる香水がもとでタロにうとまれたとは夢にも思わないだろうなあ……。


「それに」

「うん」

「彼女が来るようになってから、職員のミスが激増してるらしくて」


 さもありなん。超絶色気むんむんだからなー。


「タロは?」

「俺? 臭いさえなければ平気だけど」


 あーあ。タロの頭の中には臭いのことしかないんだろう。他の職員さんが、なんでミスを連発するようになったか、全然理解できてないんちゃうかな。エバ先生のアプローチがすごく不愉快だったけど。なんか、どうでもよくなった。へへ。


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