双狂 5


「おや、まだ何か有るのかね? 私としては、本当にもう止めて欲しいところなのだけれどもね……」

 防毒面ガスマスクの男は、余裕を見せて言う。

 そのまま、やはり自分からは動いてこない。ポーズを変更して、鋼の筋肉を無駄に見せ付けてくるばかりだ。


 攻撃をしかけて来ないのは、やはり言葉通り逃げるのが目的だからなのか。

 どちらにしろ、やることは決まっている。


「クロ!」

『……伝承礼装エピックウェポン・妖刀ムラマサ、多重復元デュープデコード

 言葉と同時に、ジェットスパイダーは何度目かの妖刀ムラマサの復元デコードを行う。

「ほう」


 その様子を見た防毒面の男が、感嘆したかのように息を吐く。

 展開された妖刀ムラマサは、今までとは数がまるで異なっていた。

 その数は、無数。まるで新品の爪楊枝の容器を開けたかのように。全てが切っ先を防毒面の男へと向けて、空間を埋め尽くすかのように。


 ジェットスパイダーが搭載出来る伝承礼装エピックウェポンの種類は、刀剣類に限られている。

 そうして刀剣類に限ったことにより、同じものを無数に復元デコードすることを可能にしているのだ。


「さぁ、切り裂きなさい」

 燐音の言葉に合わせて、妖刀ムラマサが前方へ飛ぶ。

 その全てが等速で、刃の壁を崩さないまま。


 法則マーフィーによって失敗する可能性が有る事は必ず失敗する、というのであれば、失敗の余地をなくしてしまえばいい。

 機械的な動作も無いから、妖精グレムリンの影響も受けることはない。


 これで、先に出された二つの伝承礼装エピックウェポンは攻略した、と言えるだろう。

 後は、防毒面の男の装甲を、妖刀ムラマサが抜けるかどうかだが――

 ――行ける。


 妖刀ムラマサの切断能力は、短刀マクベスを遥かに超えている。先と同じように装甲で受け止めたら、串刺しになることだろう。

 そう、考えたときだった。


「敵から目を切るのは感心しないねぇ」

 防毒面の男の声が聞こえた。確かに、今現在、燐音は防毒面の男から視線を外してしまっていた。

「くっ……」


 何か攻撃が来るのか、対応を間違ったというのか。とは言え、予想が不可能な以上、なにをどう対応すれば正解だとも言えない。

 防御に使える伝承礼装エピックウェポンを使うか? あるいは、敵の出方を見てから動くか。そんなことを一瞬で考え、燐音は出方を確認することを選択する。


 防毒面の男の言葉が響く。

伝承礼装エピックウェポン・化猫シュレディンガー、復元デコード

 瞬間。

 ふっ――と、何かがこの場から消え失せたことを、燐音は理解した。

「ちっ……」


 燐音が舌を打つ。

 次いで、急に降り出した豪雨のように重い音が連続する。

 教室の壁に、妖刀ムラマサが突き刺さったのだ。


 途中にあった机なども全て真っ二つにしながら、壁面の全てを埋め尽くすかのように、無数の刃が埋め尽くす。

 だが、その場に、防毒面の男の姿は無かった。


「……逃げられたのね」

 言いながら、燐音は開かずの間内部を見回す。溢れ出した異界は元に戻っており、カーテンも閉められている。

 ここはもう、ただの部屋だ。


『……シュレディンガーの猫』

 燐音の言葉に、黒玉がそう返す。

 シュレディンガーの猫。それは、量子力学の奇妙な振る舞いを説明する――最初は否定するためだったのだが――に想定された、仮定上の存在である。


 量子力学では、原子以下の物質は確率的に存在し、観測されることによってそれは収束する。それでは、箱の中で死んだ猫は、観測するまで半分生きていて半分死んでいる状態なのか? というのが、シュレディンガーの猫、という思考実験である。


 その逸話を元にした伝承礼装エピックウェポンが、化猫シュレディンガーなのだとしたなら――

「私が観測を止めたから、あの男に逃げられたということなのね」

 妖刀ムラマサの多重復元デュープコード。失敗する確率をゼロにするために、その展開は、完全に視界を埋め尽くすレベルで行った。


 結果として、燐音の視界から防毒面の男は消えて、化猫シュレディンガーを使う余地を与えてしまったということになるわけだ。

「不覚を取ってしまったわ……相手がクロだったなら、ほんの一瞬たりとも目を離したりしないのだけれども、不審者丸出しの男だったからついつい」


「……燐音ぇ……」

 あっという間に、燐音と黒玉は、一体となったジェットスパイダーの姿から、元の二人の少女の姿へと戻っていた。

「ふふふ、私の愛は一途で重いのよ」

「……はいはい」


 怜悧な美貌に、ある意味薄気味悪い、とも言える笑みを浮かべる燐音に、感情のない言葉を向ける黒玉が続けてつぶやくように言う。

「……伝承礼装エピックウェポン・妖刀ムラマサ、符号化エンコード


 言葉に合わせて、壁に突き刺さった無数の妖刀ムラマサが消えていく。ズタズタになった机や、壁の傷跡はどうしようもないが、一応の片付けにはなっただろう。

「敵に逃げられたのは不本意だけれども、行方不明の可愛らしい女子は見つけたことだし、一応仕事は完了、といったところかしら」

「……うん」

「それにしても……」


 燐音は顎に手をやって、眉間にシワを寄せて、言う。

「この街に、あんな変質者が潜んでいたなんて、嘆かわしいことね……」

「……燐音が言わないで」

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