第8話 アウグストゥスの誕生

 古来、船戦とは敵艦を沈めることだった。頑強な船首や、水面下に突き出した衝角ラムで敵の脆弱な船腹を突き破るのだ。

 ただ、これには高度な操船技術を要するため、水軍の歴史の長さがそのまま戦力差となることが多かった。


 そんな海戦に革命を起こしたのが、第一次ポエニ戦争時のローマ軍である。


 大海軍国カルタゴとの戦いにあたり、ローマは自軍の軍艦に大々的な改造を施した。甲板上に、クレーンに似た幅広のアームを備えたのだ。


 戦闘開始と共に、敵艦に接舷したローマ艦はそのアームを敵艦の甲板に向けて振り下ろす。アームの先端には鋭い爪が取り付けられ、甲板に食い込んだ。

 そうして両艦を固定したところで、そのアームの上を渡りローマが誇る重装歩兵が敵艦に斬り込んでいった。

 ローマ軍は劣勢な艦隊決戦を、自軍の得意とする白兵戦に変えたのだ。


 アグリッパはそれに加え、火薬を詰めた陶器の壺とその発射装置を多数準備した。これは一種の焼夷弾で、敵艦を焼き払うためのものだった。


 ☆


「姉上、一体何をなさるつもりです」

 プトレマイオス少年王は困惑顔で、その船を見上げた。

 船上には巨大なバステト神像が積み込まれようとしていた。


「知れたことにゃ。ローマ軍に裁きの鉄槌を下すために同行いただくのにゃ」


 猫頭人身のバステト神は、エジプトに於いて裁きの神として知られている。

 クレオパトラはそのバステト神の祭祀に使用する衣装を身に纏い、頭には猫耳を模した髪飾りを着け、頬にはヒゲ状のメイクを施していた。


「それにその喋り方は……」

「お黙り、なのにゃ。いまの妾はバステト神そのものなのにゃ。だから当然喋り方もこうなるのにゃ!」

「いえ、バステト神もそんな話し方はされないと思いますが」

 クレオパトラの瞳孔が縦にすっと細くなった。


「うるさいのにゃ。とっとと、お供えのカツオ節を持ってくるにゃ」

 は、はあ。プトレマイオスはついに諦めた。

「でも、こんな事で勝てるのだろうか」


 ふと、他の艦に目をやると、肥満して鎧の止め紐が結べなくなったアントニウスが形ばかりの武装で、よたよたと乗艦しているのが見えた。


 プトレマイオスは絶望のため息をついた。


 ☆


「アントニウス艦隊は俺が当たる。ガイウスはクレオパトラの艦隊を頼む」

 アグリッパは不安な表情を浮かべながら、布陣を説明した。

 できればガイウスに部隊を任せるなどという無謀なことはしたくないのだが、まったく武功が無いのでは元老院で報告しにくいから、とガイウスに懇願されたのだ。


 目一杯妥協して、おそらく軍事経験がないであろうクレオパトラ率いる艦隊に当てる事にしたのだった。


 アクティウムの海戦が始まると、その不安は的中した。


「オクタヴィアヌス将軍が押されています。おそらく壊滅寸前かと!」

「なんだと。開戦してまだ一刻も過ぎていないと云うのにか?」

 アグリッパは眩暈がした。

 彼の艦隊はアントニウス艦隊とほぼ互角の戦いを展開している。とても応援に向かう余裕はない。


「死んでも持ち堪えろとガイウスに伝えろ。さもなくば、俺がこの手で海の藻屑にしてやるとな!」



 一方のガイウスも遊んでいた訳ではない。彼にしては果敢に攻撃をかけていた。確かに緒戦ではエジプト艦隊の隊列は大きく崩れたのだ。

 だが、その時それは起こった。


「あれは何だ」

 クレオパトラの乗艦を中心として、どす黒い瘴気のようなものが拡がってきたのだ。放った焼夷弾も全く当たらなくなった。まれにさく裂したものも、すぐに火が消えてしまう。逆にエジプト軍の放った矢は的確にローマ兵の命を奪っていった。


「ネコだ。あの黒い煙はネコの姿をしているぞ」

 兵士達から恐怖の声があがった。

「エジプト軍は悪魔を味方に付けているのか!」

「逃げろ、呪われるぞ!!」

 先鋒の部隊は慌てて船首を返し始めた。


 ☆


「行けっ、ローマ艦隊を叩き潰すのにゃ!」

 バステト姿のクレオパトラは命令を下した。

「「「にゃーー!!」」」

 櫂の回転速度が上がった。


 艦隊は大きく左右に広がり、ガイウスの乗る旗艦を包囲するように迫ってきた。旗艦を護る艦隊は次々に黒雲に飲み込まれ、行動不能になっていく。




「これはまずいな」

 ガイウスはさすがに焦りの色を浮かべていた。

「またアグリッパに怒られる」


「それどころじゃありません。逃げましょう!」

 副官に促されるが、ガイウスはまだ舳先に立ち、迫る黒雲を見詰めている。


「喉が渇いたな、副官」

「はあ?」

「何か果物が食べたいんだけど、持って来てくれないかな」


 副官の顔が青ざめた。

 この司令官はとうとう壊れてしまったらしい。もとよりメンタルの弱そうな青年だと思っていたけれど。


「あの、将軍。こんな時に果物は……また、お腹を下す元ですよ」

 まあ、あの世に行けば下痢もなにも関係ないが。

「それより、退避命令を」


「頼むよ。一個でいいんだ」

 ガイウスは両手を合わせる。


 ……仕方ない。副官は船倉からオレンジを持って来させた。

「いいですか、それ食べたら逃げますからね」

 しっかりと念を押しておく。


 だが、そうしている間にも瘴気の雲は旗艦に迫っていた。

 ついに舷側にまで達したそれは、獲物を狙うネコ科の猛獣のように、船を呑み込む程の大きさの顎を開いた。


「うわーっ」

 副官やガイウスの側近は這うようにして後方に下がった。

「しょ、将軍!」

 ガイウスはひとり舳先に立ち尽くしていた。


 その右手を巨大な黒猫と化した瘴気の塊に向けた。指には、先ほど食べたオレンジの皮をぶら下げている。


「えい」

 ガイウスはそのオレンジの皮を強くつまむ。

 細かな汁が、黒猫の鼻先に飛散した。


「ぎにゃうっ!」

 黒猫は雷鳴のような悲鳴をあげ、飛び退った。そのまま海上を走り、エジプト軍の旗艦まで逃げ返って跡形もなく消滅した。



「にゃー、鼻が痛い。目に沁みるにゃっ」

 クレオパトラは顔をごしごし擦っている。持ってこさせた水で顔を洗う。そこでまた悲鳴をあげた。

「これは海水にゃ! もうイヤにゃ。アレキサンドリアに帰るのにゃ」


 こうして突然、クレオパトラは戦線を離脱したのだった。



 瘴気が去ったことで、再びガイウスの軍も戦闘行動を開始した。逃げるクレオパトラ艦隊を殲滅し、アグリッパと共にアントニウス艦隊攻撃に参加する。


 クレオパトラが逃走した事を知ったアントニウスは、かつての勇将とは思えない行動に出た。他の艦隊を置き去りに、自分だけ彼女の後を追ったのだ。


 エジプト艦隊は、あっけなく崩壊した。


 ☆


 海と陸、両方面からアレキサンドリア攻略を目指すローマ軍に対し、アントニウスも残兵を率い最後の戦いに臨んだが、ひとたまりも無く粉砕された。

 ここにおいて、アントニウスも遂に自刃するに至る。


 アレキサンドリアの市街に入ったガイウスとアグリッパは、突然の強い地震に見舞われた。旧市街の一角が倒壊して被害が出ている。ガイウスは救援活動を指示したあと、アグリッパと共に王宮へ向かった。


「これも神の仕業かな、アグリッパ」

「ああ。お前の話を聞いたあとでは、冗談とは思えないな」


 二人はバステト神の神殿の前に立った。

「ここだよ、例のネコ神さまは」

 ガイウスの言葉にうなづき、アグリッパはその扉をあけた。


「うっ」

 クレオパトラはその中にいた。

 だが彼女は、壁から落下したと思われる大量の猫のミイラと、倒れたバステト神像の下で圧死していた。


「ネコを戦争に使った報いかもしれないね」

 ガイウスは目を伏せ、呟いた。


 姉のとばっちりと言っても良いかもしれないが、プトレマイオス少年王も王都の混乱によって命を落としている。

 こうして、エジプトのプトレマイオス王朝は滅んだ。


 ☆


 ローマに戻ったガイウスは凱旋将軍インペラトールの称号を受ける。

 これにより、ガイウスはローマ全軍の指揮権、元老院の主席という統治上の権威を共に得た事になる。

 偉大な人を意味する『アウグストゥス』の尊称も、この時に贈られたものだ。


 これが実質的なローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの誕生だった。


 

 だが、ガイウスは思い悩んでいた。ある女性の姿が頭から消えないのだ。

 まだ少女の面影を残す、その若い女性。名をリヴィアという。


 ガイウスが悩むのには理由があった。いつも幼い少年を連れた彼女は、すでに人妻だったからだ。

 

「はああ……」

 また今日もため息をつくガイウスだった。

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