第3話



 数週間が過ぎた。

 彼女は片時も離れず、そのやわらかい温もりと愛で僕を包みこみ、人間の世の幸せというものを教えてくれる。

 魔法使い同士は、家族や恋人であってもべったり甘えたり深く踏み込んだりせず、個を尊重するのが普通だ。愛情表現も人間と比べるとずいぶん淡々としている。

 彼女から注がれる愛に戸惑い、時に窒息しそうになりながらも、僕はそれを嫌だとは少しも思わなかった。

 どんなに常識とかけ離れていようとも、この気持ちにもう嘘はつけない。素直に認めてしまえば、彼女が僕にとってどれほどかけがえのない存在か、はっきりわかった。


「一緒にいてくれるよね?」

 時折ときおりふと、彼女はすがるような目で確認する。

「ずっと傍にいるよ」

 僕はそのたび強く彼女を抱きしめる。

 僕が何者か、はっきり説明したわけではないが、魔法使いだということは暗黙の了解となっている。いつか急に記憶を消して立ち去られるのではないかという不安が、彼女の心のどこかにこびりついているらしい。


 組織から厳しい罰が下されることはもはや確実だが、もしそれが禁錮など収監される類のものだったら、彼女とともに歩む道は失われてしまうだろう。上層部は容赦なく彼女から僕についての記憶を消すに違いなく、僕の記憶も操作される可能性が高い。

 ここで過ごした愛しい日々の記憶を失くすなど耐えられない。彼女が記憶を消さないでとあんなに強く抵抗した気持ちが、今なら理解出来る。

 だから彼女と引き離されないためには、もっとも重い魔法剥奪という罰を狙うしかなかった。


「僕がきみに何の魔法を使ったか教えてあげる」


 組織にとって秘中の秘である肉体修復魔法のすべてを打ち明けると、彼女は衝撃を受けながらも懸命に理解しようと努めてくれた。けなげさに心が震えた。


 この魔法を剥奪されるということは、組織からの追放を意味する。そうなったら仲間や師にも見捨てられ、二度と会えなくなるだろう。最下層の魔法使いの多くがそうしているように、人間のふりをして汗水垂らして働くしかない。でも彼女さえ傍にいてくれるなら、そんな一生でも構わないと思うのだ。




 やがて、無視し続けた召還命令は脅しに変わり、仲間の説得を退けると上司がやって来た。

「おまえの罪は重い」

 これより処分を執行する、と上司は重々しく告げた。

「修復対象者の存在を削除し、おまえの記憶を抹消する」

「そんな馬鹿な!」

 愕然がくぜんとする僕を、上司はさげずむような目で見た。

「組織がおまえの力を手放すはずがない。占い師父娘は不憫ふびんだが、どのみち子孫を残さない運命だから削除しても問題ないそうだ」

「待って下さい! 今すぐ彼女の記憶を消して去りますから、そんな残酷な処分は……」

「もう遅い。それに、これは秘密をらしたおまえへの罰でもある」

 上司はにべもなく言い切り、彼女の足元を指差した。ぽっかりと深い穴が出現する。

「あっ」

 彼女は短い声を残して落下した。

 考えるより先に体が動き、僕は彼女を追って穴に飛び込んだ。どうにか手は届いたが、彼女を抱えて魔法で浮き上がろうとしても、落下を止めることすらできなかった。

「馬鹿なことを」

 声とともに上から長い棒のようなものが伸びてきた。片手で掴まってぶら下がり、もう一方の手で彼女の手をしっかり握る。

「娘を落とせ」

 上司は命令した。ずいぶん長く落ちていた気がするが、穴の縁はすぐ上に見えている。

「そうすれば、全てを忘れて無傷で元の身分に戻れる」

 どういうわけか、上司の声は二重にも三重にも重なって聞こえ、いつか遠い昔にも同じ言葉をかけられたような、奇妙な感覚がよぎった。


 この少女の存在をきれいさっぱり忘れてしまえば、僕は何事も無かったように組織に戻り、上位の魔法使いとして運命に細工する仕事を続けていくだろう。そしてまた蓄積した歪みでエラーが発生し、禁じ手を駆使して取り繕い、どうにもならなくなったら全て削除して無かったことにするのか。たとえ繰り返されても、何も思い出すことなく……それなら、この既視感はいったい何だ?


忘れてしまえばいい」

 上司はさとすように言った。


 僕の体はわなわなと震えだしたが、温もりを感じる方の手だけは絶対離さないよう強く握り直す。大切に守りたい者の命が、そこにぶら下がっている。

「私のわがままのせいで、苦しませてごめんなさい」

 少女の声が、凛とした響きを持って耳に届く。

「忘れてもいいよ」

 どこまでも澄んだ目が僕を見上げていた。

 そして彼女は一本ずつ、僕の指を外していく。まるで別れのカウントダウンのようだった。


「嫌だ!」


 はがされた指を元に戻し、渾身の力で彼女を引き上げる。

「どうかお願いだから手を離さないで……今度こそ諦めたくない」

 何か熱いものがこみ上げてきて、それは僕の目から雫となってこぼれた。

「二度と戻れなくなってもいいのか?」

 上司が見下ろしている。

「覚悟は出来ています」

 どうしても彼女を救えないのであれば、ともに落ちるしかない。不思議なほど心は静かで清々すがすがしかった。

「では処罰の対象はおまえ自身とする」

「お願いします」

 うなずいた上司の目に慈悲を感じたのは、虫の良い幻覚かもしれない。

 いきなり、掴まっていた棒がもの凄い勢いで上に引かれ、僕達は釣り上げられた魚のように宙を舞って地に叩きつけられた。視界が真っ白になり、頭の中も白くなっていく。全身の力が抜けて起き上がることも出来ない。

ながの別れだ」

 その声を最後に、僕の意識は深く、どこまでも深く沈んでいった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 この人の名前を私は知らない。

 蜂蜜色の髪をした魔法使い。いや、元・魔法使いというべきかもしれない。

 彼は私の父からの依頼で派遣されて来たと言った。

 亡き父はロマの血を引く占い師で、魔法使いの組織と繋がっていた。父には未来視という異能があって、その力を見込まれて組織の仕事をしていたようだが詳しくは知らない。

 私が乗った列車が大事故を起こすのと同じタイミングで、父は自ら命を絶ったのだという。未来視で事故が起きるのを知って、自分の命と引き換えに私を助けるよう組織に依頼していたそうだ。

 父の遺言や日記の類は何もないから、この人の話が本当かどうか確認するのは不可能だ。私は十七歳の無力な人間で、どこにあるかもわからない魔法使いの組織のことなんて調べようがない。


 夏の終わり、恐ろしい顔の魔法使いが現れた日、この人の記憶は言葉一つ残さず消え失せてしまった。生まれたての赤ちゃんのように泣く彼を、私は必死に抱きしめることしかできなかった。

 あの日から彼の精神はまっさらな状態となり、私の世話なしでは何ひとつこなせなくなった。体だけは普通に動くのでそれだけは幸いに思うけれど、食事や着替えの仕方まで忘れてしまったため、朝から晩まで付きっきりで面倒をみないといけない。

 それでも日に日に、少しずつだが、私の言うことを理解できるようになってきた。


「まりあ」


 私を呼ぶ発音はまだたどたどしいが、無垢な笑顔を向けられる日々は悪くない。愛犬も頼もしく寄り添って面倒をみてくれている。

 魔法使いというのは、人間の何倍もの時間を生きられるらしい。修復という特別な魔法をかけられた私は、この人が生きている限り今の姿形のまま生かされ続け、死ぬ時まで道連れなのだと聞いた。

 だから、焦る必要は全然ない。幼な児を育てるようなつもりで色々なことを教えてあげれば、やがて私と対等に話せる日は必ず来ると思う。


「名前をつけてあげるね」

 今、この人の中に苦悩や哀しみはない。このまま幸せだけを感じていて欲しかった。

「アンヘル。スペイン語で天使のことよ」

 深い青色のきれいな目を見つめて言い聞かせる。

 この目を曇らせないよう守って生きることが、私の運命に違いない。

「ずっと一緒に生きていこうね」

 優しくキスすると、アンヘルはくすぐったそうに笑って私に抱きついた。

「まりあ、すき」

 私も彼をぎゅっと抱きしめる。細身の体から、ふわっとお日様の匂いがした。

「私も大好きよ、アンヘル」


 大切な私だけの天使。




(完)

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魔法と運命 奈古七映 @kuroya-niya

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