死んだ沙希が、私のところに来た

 二月に入り、東京にしては冷え込む日が続いた。

 ついに雪まで降った後の夜のことだった。


 諒太と一緒に眠っていた私は、ハッと目を覚ました。辺りは静まり返っているし、隣からは諒太の控えめないびきも聞こえるから、まだ夜明け前なのだろう。

 部屋の中は真っ暗ではない。私はどうも部屋が真っ暗だと却って寝られない性質たちで、常夜灯をつけたまま寝る習慣があるからだ。

 私の右腕の上に諒太の手が乗っているのが、目を閉じていても感覚でわかる。今は手だけだからよいが、このままの勢いで腕を乗せられては困る。きっと、重くてどけるのに苦労することになるから。


 そう思い、諒太が起きてしまわないようにそっと彼の手をどけようとして、私の身体から離そうとして――気付いた。


 ――手も足も、ぴくりとも動かせない。


 

 この感覚は金縛りというやつだ。疲れている時なんかに、たまに起こる。ちょっと怖いけれど、身体は眠っているのに脳だけが起きてしまうから起きるのだとかなんとかそんな感じに、科学で説明が付く現象なのだし、怖くてもとにかく落ち着いて目を瞑って、もう一度眠ってしまえばいい。それだけだ。


 それだけの、はずだが――


 声が、聞こえる。




 『お姉ちゃん』


 これは――沙希だ。

 私を「お姉ちゃん」と呼ぶ――呼んだ――人は、この世でひとり、沙希だけだ。「双子なんだからお姉ちゃんとか呼ばなくていいよ」って何度も言ったのに、沙希、聞かなかったからなぁ。

 仲直りできないまま逝ってしまった沙希のことばかり、最近は考えているから。

 だから沙希がこんな形で夢に出たのか。


 

 そんなことを考えていると、なおも声が私に呼びかける。


 『お姉ちゃん、しっかり目を開けてこっちを見て。――私を見て』


 生前の――仲違いする前の沙希そのままの、強気で有無を言わせぬ声音に、私は夢と知りつつも抗えず、目を開けた。開けて、しまった。


 

 沙希が、いた。


 空中に浮かんで、私と向かい合うような恰好をして、片方の手――右手だろうか――をこちらに向けて伸ばして、私の顔を指差している。

 ぽたり、と、伸ばされた手から血が垂れる。水滴がぱたぱたと顔に落ちるのを感じる。水滴の正体が何なのか、それはもう、言うまでもないだろう。おぞましさに慄然とするが、悲鳴を上げることはおろか、声を出すことが全くできない。だから私は――見ることしかできない。沙希の、言う通りに。

 そうするうちに把握する。沙希の右手首は木の枝のようにぱっくりと折れ、そこから骨と肉が飛び出し、傷口から滴る血が、私の顔に落ちているのだと。

 目線をゆっくり動かして、沙希の顔を見た。右頬から左顎にかけて無残な切り傷が斜めに走り、鼻はひしゃげて潰れている。額の左側が陥没しているのも見て取れた。その惨状に私は息を呑む。

 目線をもう一度、下に動かすと、お腹がなんだかぐちゃぐちゃになって、ずるりと内臓がはみ出しているのが見えた。そして――左脚の膝から下がなかった。 

 

 その姿は、とても正視に堪えなかった。しかし私は目を離すことができない。

 私が見ることのなかった沙希の遺体は、こんな状態だったのだろう。でも、父はそのことを私には伏せたし、マスコミも遺体の状態までは暴き出すことができなかったから、私は今、こういう形で沙希の最後を知らしめられている。他ならぬ、沙希によって。


 そう――この沙希は、私の夢の産物ではない。

 本物の、沙希だ。

 この状態を、「幽霊」というのだろうか、それはわからないが。

 

 私の思考に応えるように沙希は更に言いつのる。


 『お姉ちゃん、私はね、こんな酷い姿で死んだの。

 お姉ちゃん、遅かったから見てないでしょ、焼かれる前の私のこと』


 ――それは――悪かったと思っている。ちゃんと見て、きちんとお別れできればよかったって。そうだよね。ごめんね。


 声は相変わらず出せないから、心で沙希に話しかける。テレパシーってこんな感じだろうか、なんて思いながら。



 沙希の声音は、相変わらず容赦がない。相当怒っているようだ。


 『お義兄ちゃんがもたもたしてたから遅くなったんじゃないの?

 お義兄ちゃんなんかほっといて、早く来てくれればよかったのに』


 ――違う。彼のせいで遅くなったんじゃない。私――私たちは急いで駆けつけようとしたけど、乗りたかった飛行機が雪で欠航して。仕方がなくて。 


 

 『まあいっか。私はね――お姉ちゃんに文句を言いに来たんだよ』


 

 沙希の声のトーンは少し落ち着いたが、怖いことには変わりない。だから静かに問いかける。


 ――文句って、なに。


 

 『私はこんなに惨めに死んだのに』


 沙希はそこで一度言葉を切り、恐ろしい顔で私を睨みつけてきた。大きく傷付いた顔で表情を変えたからか、斜めにできた切り傷がぱき、と音を立てて開き、新しい血が滴り落ちる。ぱたぱたと、今度の血はどこに落ちているのだろう。あまり考えたくない。

 

 ぱたぱたと血を垂らしながら沙希は、低い声で呪詛の言葉を吐く。


 『お姉ちゃんだけ生きてるなんて、ずるいじゃない。

 どうして私だけが死ななきゃならないの。お姉ちゃんも、死んでよ』


 

 ――どうしてと言われても。沙希は不幸な事故に遭っちゃったけど、私にはそういう、死に至るような事態がまだ訪れていないだけというか、私はまだ死ぬ時期じゃないというか。それだけのことで。

 沙希は本当に可哀相だと思う。だけど、沙希が死んで私が生きてるのは、狡いとかそういう問題じゃなくて……どうすれば、納得してくれる? 



 『お姉ちゃん、バカだから一度じゃわからないでしょ。

 死ね、って、言ってんの。私は』


 必死に訴えかけた私に対して、返ってきた言葉はそれだった。

 あぁ、沙希は沙希のまんま、なんにも変わってなかったんだなぁ、結局。


 そう認識して、私は心底呆れ果てた。身体の自由が利く状態だったならば、盛大に溜息をついていたところだ。

 要は、私たち姉妹のどちらが先に、どんな死を迎えるかということも沙希にしてみたら「勝ち負け」の話になっていて、「負け」てしまった沙希は悔しいから私にも死ねと言いに来たのだ。


 

 ――私より先に惨めに死んで悔しいから、だから私にも死ねって、そういうことだね。沙希、そういうところは相変わらずだね。あなたが惨めだからって自分と同じところに引きずり降ろそうとするの、やめてくれる?


 恐怖に慄きながらも、それでも私としては精一杯、毅然として言い返したが沙希は全く意に介さない。


 『いい? わかった? お姉ちゃんがちゃんと死ぬまで、私は毎晩来るからねっ。 

 グズだからどうせすぐには来ないでしょ? 全く、わざわざ来てやってんだから少しは感謝しなさいよっ。――じゃあねっ』 


 沙希は言うだけ言うと、ふっと掻き消えた。

 それと同時に身体の自由が利くようになったので、私は遅ればせながらの溜息をついた。

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